文章の流れの中で入らなかった断片的な記述。あとから増える可能性あり。
能力という概念は曖昧である。とくに知能指数や学校の成績を軽視した選抜が行われる日本では、能力があるから選ばれるのではなく選ばれたのだから能力があるのだ、という性格が強い。前にも指摘があったように、多くの入試で一発勝負の試験が用意されているのは、ランダム性を折り込む一手段であり、合格すると思われていた人が不合格になり不合格だろうという人が合格になる事実を示すことで、外に向けてチャンスの存在をアピールして競争を高めるものである。圧倒的に実力があるか圧倒的に実力がない場合には大した問題にはならないが、中間レベルでランダムに左右される位置にいる場合には大きな不安が喚起される。
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私は休日の買い物は都心より地元の中心街に行くのだが、生まれ育った地域の活性化に幾ばくか貢献しようという気概をもって行く。こうすると、他の店で買ったほうが100円安かった、店員の態度が気に入らなかった、お目当ての店がお休みであったなどという失敗があっても大して気にならない。
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法科大学院を修了した者という母集団の中で上位の何割かが合格するという仕組みがあるが、判断推理がきちんとできるならば母集団に能力がある人が枠よりも多くいる可能性を排除できない以上、不合格→法律に関する能力がないという命題は常に真ではないはずである。しかし実際はそのように評価されていない(もっとも、これは市場原理で解決されると思われる:不合格者を採用した企業が成果を挙げれば修正される。すなわち学生の頑張り次第)。
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困難は精神的成長の出発点でもある。私的な高次の目的が精神的成長であれば、公的な場面での失敗が私的な場面での成功の出発点になる。こうなると何があっても常に順風が吹くことになる。
能力という概念は曖昧である。とくに知能指数や学校の成績を軽視した選抜が行われる日本では、能力があるから選ばれるのではなく選ばれたのだから能力があるのだ、という性格が強い。前にも指摘があったように、多くの入試で一発勝負の試験が用意されているのは、ランダム性を折り込む一手段であり、合格すると思われていた人が不合格になり不合格だろうという人が合格になる事実を示すことで、外に向けてチャンスの存在をアピールして競争を高めるものである。圧倒的に実力があるか圧倒的に実力がない場合には大した問題にはならないが、中間レベルでランダムに左右される位置にいる場合には大きな不安が喚起される。
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私は休日の買い物は都心より地元の中心街に行くのだが、生まれ育った地域の活性化に幾ばくか貢献しようという気概をもって行く。こうすると、他の店で買ったほうが100円安かった、店員の態度が気に入らなかった、お目当ての店がお休みであったなどという失敗があっても大して気にならない。
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法科大学院を修了した者という母集団の中で上位の何割かが合格するという仕組みがあるが、判断推理がきちんとできるならば母集団に能力がある人が枠よりも多くいる可能性を排除できない以上、不合格→法律に関する能力がないという命題は常に真ではないはずである。しかし実際はそのように評価されていない(もっとも、これは市場原理で解決されると思われる:不合格者を採用した企業が成果を挙げれば修正される。すなわち学生の頑張り次第)。
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困難は精神的成長の出発点でもある。私的な高次の目的が精神的成長であれば、公的な場面での失敗が私的な場面での成功の出発点になる。こうなると何があっても常に順風が吹くことになる。
新学期が始まって、この記事を半分くらい書いて、それから数週間経ってしまった。思い起こせば今回は学部生活最後の夏休み・秋休みであった。しかし、時の流れは遅いようで速く、思い出作りという面では漫然と過ごした感がある。
ところで、大学生の余暇の過ごし方で最も好ましいとされるもののひとつに旅行がある。旅行を意味する英語は多くあるが、travelはtravail(骨折り、労苦)が原義ということで、古来、長旅は命がけに近いものであった。それが人類のたゆまぬ努力により極上の楽しみと化した。もちろん旅にはトラブルがつきものであるが、それも思い出のひとつと言えるほどの余裕がある。小中学校最大のイベントは修学旅行であり、新婚あるいは結婚○十周年のイベントはたいてい海外旅行であろう。
それでは、旅行が純粋な楽しみを与え、多くの人を惹きつける理由は何であろうか。まず、見知らぬ土地の物珍しさを味わう、というのがある。その土地で生まれ育って生活している人たちにとっては普通の・当然の事柄でも、初めて訪れた人にとっては珍しいものであって、新鮮な体験ができる。ジョークのひとつに、雪国暮らしの日記で初日に降雪に狂喜していたのが数ヵ月後には「ゴミが降ってきた」とうんざりしている、というのを見たことがある。さらには、慣れないところで活動することで行動力がつく、自分の価値観が相対化され考えが発展する、といったことが挙げられよう。「かわいい子には旅をさせよ」の言葉はこのような効用を念頭においた言葉であろう。
以上のように挙げてみたが、これらの共通点は「差異」に着目したものであることだ。自分たちとは違うところ、新鮮なところ、何に触れるでも最初はそういうところに目が行くのは確かである。しかし、時間をかけて丁寧にみていけば共通点もみえてくるのではないか。当たり前のことであるが、男女はお互い恋をし、近しい人が亡くなれば悲嘆に暮れ、不公平に扱われれば妬みの感情を抱く。権力者は横柄になりやすいし、集団になれば異分子に不快感を抱き、他人を見下したい気分になることもある。私法でも条文や概念が異なっていても結果的にはだいたい同じような解決が図られている。このように、人間性あるいは社会の共通性を感じることも旅行の魅力として意識してもいいのではないか。
インターネットが発達して外国の情報が簡単に得られるようになり、経済でもいわゆる「グローバル化」という現象が進んでいる。その中で各国の民族意識が高まっていると言われる。その最終的な行き先はどこであろう。今ではお互いいがみ合う段階にあるようにみえる。お国ネタで小馬鹿にしあうくらいは欧米でもよくよくみられることで正常なことだが(これすら認めない自意識の強い国があることは確かであるが)、公式な場ではきちんと相手を尊重しあう態度が求められる。また、交流が重なって「自分たちとは違う」から「自分たちと同じところもある」に移っていくまでに破滅に陥らないように努力も求められる。
そのためには、まず個人のレベルにおいて、人間身体の成長は20歳くらいで止まるけれども思考は40歳くらいまで成長するもので、他人も自分も常に成長していく存在とみることが必要だと思う。一度嫌なことがあってもそれっきりではなく、後々付き合ってみると理解しあえることも多い。私も中1のころ仲が悪かった人と高1のころまた話すようになって今でも連絡をとりあう間柄になっている。子育てをしてトゲが無くなった人も多いだろう。誰もが妬みなど嫌な感情をもつことがあり、他人との相性というのもあるが、お互い不完全で常に成長していこうとする意欲があれば人格の尊重くらいはできるのではないか。
さてさて、大学時代にあまり旅行に行けなかった方は、ひょっとしたら欲求不満や引け目を感じているもしれない。誰でも旅行体験は弾む話題なので自分もそのひとつやふたつもっておきたいと思うかもしれない。そんなときは、こう言い訳してみたらどうだろう。「この美しい日本すら理解していないのに、外国に行っても仕方がない」と。今の時期なら何となく相手も納得してくれるに違いない。
ところで、大学生の余暇の過ごし方で最も好ましいとされるもののひとつに旅行がある。旅行を意味する英語は多くあるが、travelはtravail(骨折り、労苦)が原義ということで、古来、長旅は命がけに近いものであった。それが人類のたゆまぬ努力により極上の楽しみと化した。もちろん旅にはトラブルがつきものであるが、それも思い出のひとつと言えるほどの余裕がある。小中学校最大のイベントは修学旅行であり、新婚あるいは結婚○十周年のイベントはたいてい海外旅行であろう。
それでは、旅行が純粋な楽しみを与え、多くの人を惹きつける理由は何であろうか。まず、見知らぬ土地の物珍しさを味わう、というのがある。その土地で生まれ育って生活している人たちにとっては普通の・当然の事柄でも、初めて訪れた人にとっては珍しいものであって、新鮮な体験ができる。ジョークのひとつに、雪国暮らしの日記で初日に降雪に狂喜していたのが数ヵ月後には「ゴミが降ってきた」とうんざりしている、というのを見たことがある。さらには、慣れないところで活動することで行動力がつく、自分の価値観が相対化され考えが発展する、といったことが挙げられよう。「かわいい子には旅をさせよ」の言葉はこのような効用を念頭においた言葉であろう。
以上のように挙げてみたが、これらの共通点は「差異」に着目したものであることだ。自分たちとは違うところ、新鮮なところ、何に触れるでも最初はそういうところに目が行くのは確かである。しかし、時間をかけて丁寧にみていけば共通点もみえてくるのではないか。当たり前のことであるが、男女はお互い恋をし、近しい人が亡くなれば悲嘆に暮れ、不公平に扱われれば妬みの感情を抱く。権力者は横柄になりやすいし、集団になれば異分子に不快感を抱き、他人を見下したい気分になることもある。私法でも条文や概念が異なっていても結果的にはだいたい同じような解決が図られている。このように、人間性あるいは社会の共通性を感じることも旅行の魅力として意識してもいいのではないか。
インターネットが発達して外国の情報が簡単に得られるようになり、経済でもいわゆる「グローバル化」という現象が進んでいる。その中で各国の民族意識が高まっていると言われる。その最終的な行き先はどこであろう。今ではお互いいがみ合う段階にあるようにみえる。お国ネタで小馬鹿にしあうくらいは欧米でもよくよくみられることで正常なことだが(これすら認めない自意識の強い国があることは確かであるが)、公式な場ではきちんと相手を尊重しあう態度が求められる。また、交流が重なって「自分たちとは違う」から「自分たちと同じところもある」に移っていくまでに破滅に陥らないように努力も求められる。
そのためには、まず個人のレベルにおいて、人間身体の成長は20歳くらいで止まるけれども思考は40歳くらいまで成長するもので、他人も自分も常に成長していく存在とみることが必要だと思う。一度嫌なことがあってもそれっきりではなく、後々付き合ってみると理解しあえることも多い。私も中1のころ仲が悪かった人と高1のころまた話すようになって今でも連絡をとりあう間柄になっている。子育てをしてトゲが無くなった人も多いだろう。誰もが妬みなど嫌な感情をもつことがあり、他人との相性というのもあるが、お互い不完全で常に成長していこうとする意欲があれば人格の尊重くらいはできるのではないか。
さてさて、大学時代にあまり旅行に行けなかった方は、ひょっとしたら欲求不満や引け目を感じているもしれない。誰でも旅行体験は弾む話題なので自分もそのひとつやふたつもっておきたいと思うかもしれない。そんなときは、こう言い訳してみたらどうだろう。「この美しい日本すら理解していないのに、外国に行っても仕方がない」と。今の時期なら何となく相手も納得してくれるに違いない。
バートランド・ラッセルの有名な言葉に「私は頭のもっともよく働くときに数学をやり、少し悪くなった時に哲学をやり、もっと悪くなって、哲学ができなくなったので、歴史と社会問題に手を出した」というものがある。これを裏返せば、歴史や社会問題は数学や哲学に比べて頭が悪くても出来る、ということになる。社会問題にかかわる法学を学んでいる身としては少々悲しいものの、これは真実だと認めざるを得ない。「正解」がなくて何とでも言えてしまう分野だからだ。しかし悪いことばかりではなく、予備校に通って高校生のような勉強で資格を得ることができるように、間口が広く万人に開かれているという善い点がある。
ここで、私と同じように法学を学んできた方はムッとしてしまうかもしれない。頭が悪くてもできるなんて何事だ、と思うかもしれない。このような自然な感情は、法が本質的に権威を必要とすることと関係すると思う。法・政治・宗教・芸術の分野は多様にありうる価値観や事実の評価からひとつを選択するという作用がある。そして紛争を解決するために、あるいは政策を遂行するために、社会の構成員にはその選択した価値観や評価に従ってもらわなくてはならない。
私が最も好きな曲のひとつにDavid Bowieの"We prick you"がある(ライブ映像・歌詞)。この曲には「裁判所のメンバーによって歌われる」と副題がついていて、その中に「You show respect even if you disagree(敬意を払いたまえ、たとえ異論があろうとも)」という印象的なフレーズがあり、このことが端的に現れていると思う。
このようにひとつ選択された価値観や評価に従わせるに際しては、外面的な権威が必要である。もちろん、中身についても合理性・正当性をきちんと確保できるように努力が重ねられてきて今では相当なレベルに達しているが、それが不十分な時代であっても外見で権威をみせつけるということが必ず行われてきた。それは、個々の場面について、その正しさを自ら検証する能力・時間の余裕・必要性の少なくともひとつが多くの人にはないので、表面的に正しそうな雰囲気で飲み込む必要があるからだ。
赤じゅうたんをしきつめる、法衣を着る、カツラをかぶる、立派な建物をつくる、資格試験を異常に難関にする、修行のようなストイックさを要求する、などなど様々なやり方がとられてきた。昔宗教と法が未分化な時代があったが、教会は荘厳な装飾をほどこして、文字が読めない人々を雰囲気で騙してきた。バレエでも舞台装置の豪華さ如何で踊り自体は同じでも全体としての印象が左右されてしまうことがある。
このような外面的な権威は、意見の説得力という点でも働く。科学の分野では東大教授の説でも追実験が上手くいかなければ排斥されてしまうが、法学では大御所の教授がひとりでも主張していれば「有力説」として学ぶ対象になる。昨年読んだ『法律学における学説』でも、学説の説得力を決める要素に主張者が誰であるかも少しはある―好ましくはないけれども、とあった。本を探すときも、著者の略歴や肩書きは重要な判断材料である。絵画においては、名のある画家が描いていれば理解できないのは自分に問題があるからだ、無名の画家が描いていれば理解できないのは絵が悪いからだ、となりがちである。
成功していれば何か本質的なものがあるとの推定が働くのはもっともである。だが、才能のおかげで特に意識せずとも成功する人もいる。また、成功していなくても、苦労している人は打開のために色々調べて努力をするのでそれなりに気のきいた意見をもっていることがある。しかし後者の場合、大抵の場合説得力がないとして無視されてしまう。時間の余裕と考える必要があるときは、外面的な権威に囚われず、なるべく自ら検証する態度をとってその能力を培うことが必要であろう。
私も、特に恋愛などの分野においては、何を言っても説得力がないと端からきいてもらえない。そこで不本意ながら、他人の権威を借りて「心理学の本で…」などと前置きをつけることがしばしばだ。
ここで、私と同じように法学を学んできた方はムッとしてしまうかもしれない。頭が悪くてもできるなんて何事だ、と思うかもしれない。このような自然な感情は、法が本質的に権威を必要とすることと関係すると思う。法・政治・宗教・芸術の分野は多様にありうる価値観や事実の評価からひとつを選択するという作用がある。そして紛争を解決するために、あるいは政策を遂行するために、社会の構成員にはその選択した価値観や評価に従ってもらわなくてはならない。
私が最も好きな曲のひとつにDavid Bowieの"We prick you"がある(ライブ映像・歌詞)。この曲には「裁判所のメンバーによって歌われる」と副題がついていて、その中に「You show respect even if you disagree(敬意を払いたまえ、たとえ異論があろうとも)」という印象的なフレーズがあり、このことが端的に現れていると思う。
このようにひとつ選択された価値観や評価に従わせるに際しては、外面的な権威が必要である。もちろん、中身についても合理性・正当性をきちんと確保できるように努力が重ねられてきて今では相当なレベルに達しているが、それが不十分な時代であっても外見で権威をみせつけるということが必ず行われてきた。それは、個々の場面について、その正しさを自ら検証する能力・時間の余裕・必要性の少なくともひとつが多くの人にはないので、表面的に正しそうな雰囲気で飲み込む必要があるからだ。
赤じゅうたんをしきつめる、法衣を着る、カツラをかぶる、立派な建物をつくる、資格試験を異常に難関にする、修行のようなストイックさを要求する、などなど様々なやり方がとられてきた。昔宗教と法が未分化な時代があったが、教会は荘厳な装飾をほどこして、文字が読めない人々を雰囲気で騙してきた。バレエでも舞台装置の豪華さ如何で踊り自体は同じでも全体としての印象が左右されてしまうことがある。
このような外面的な権威は、意見の説得力という点でも働く。科学の分野では東大教授の説でも追実験が上手くいかなければ排斥されてしまうが、法学では大御所の教授がひとりでも主張していれば「有力説」として学ぶ対象になる。昨年読んだ『法律学における学説』でも、学説の説得力を決める要素に主張者が誰であるかも少しはある―好ましくはないけれども、とあった。本を探すときも、著者の略歴や肩書きは重要な判断材料である。絵画においては、名のある画家が描いていれば理解できないのは自分に問題があるからだ、無名の画家が描いていれば理解できないのは絵が悪いからだ、となりがちである。
成功していれば何か本質的なものがあるとの推定が働くのはもっともである。だが、才能のおかげで特に意識せずとも成功する人もいる。また、成功していなくても、苦労している人は打開のために色々調べて努力をするのでそれなりに気のきいた意見をもっていることがある。しかし後者の場合、大抵の場合説得力がないとして無視されてしまう。時間の余裕と考える必要があるときは、外面的な権威に囚われず、なるべく自ら検証する態度をとってその能力を培うことが必要であろう。
私も、特に恋愛などの分野においては、何を言っても説得力がないと端からきいてもらえない。そこで不本意ながら、他人の権威を借りて「心理学の本で…」などと前置きをつけることがしばしばだ。
ここ1ヶ月の記事は今までになく長文で自分なりに練ったものだった。ようやく意識を改めたところまで更新できたので、ここでひとつ振り返ってみることにする。
詩才について
4月1日に「話題をためておきます」と言ったものの結局用意していたのはこの記事だけだった。もともと2つの記事で作ろうと思っていたものをひとつにまとめたため、色々詰め込みすぎて流れが悪くなった。
シロツメクサ
三つ葉・四つ葉のそれぞれの視点で作ってみた。もちろん私は三つ葉の立場。
駅までの道
クレマチスに芍薬など植物の話題が多くなったのには理由がある。主人公が花屋でアルバイトをするお話を作っていて、そのために3月ごろ少し調べたからだ。完成はおそらく今年度の終わりだろうな。大学で考えたことを集大成のつもりで色々と反映させるつもり。
喜劇「コチラ独り身専用車両ナリ」
このような仮定をして想起される面白い場面を募ってみたい。思いついた方はコメントかメールをお願いします。
マリーゴールド・What's for others?
力になりたいけど向こうは必要としていないと気付かされたことがあったので書いた。ところで長らく身分の差は、神が決めたものとして信じられることで安定をしていたように思うが、これは支配層が利用するだけではなく被支配層自らも信じたい気持ちがあったのだろう。
困った困った
実際言ったらベルサポートはその後電話をかけてきていない。いいね、法令順守。
敵はどこだ
結局は相手を省みない極端な主張がよく売れる。自覚していれば結構なこと。
高学歴難民
労働市場について触れたがこのエッセイに通じるものを感じた。この問題は本人だけじゃなく社会にとってもマイナスだと思う。ロースクール卒業して新司法試験受験回数を使い果たしたらどうなるのか、これも今問題になっているらしい。
金にすべてを
「金(カネ)にすべてを」の拝金主義と正反対を行く北朝鮮。こちらは「金(キム)にすべてを」。文字は一緒。ちなみにタイトルはクイーンの「愛にすべてを」という曲から。ところで、「愛されたがり」の心理について触れたが、私も記事を書いたあとコメントがつかないかそわそわしてしまう。コメントゼロってどういうことか、無関心ってことか、残念、などと勘ぐってしまうことがある。
タマゴが先
この仮説を確かめようとするなら、血液型占いが全く知られていない地域で自分の性格をどう思っているかアンケートをして血液型との相関をしらべてみればいいんじゃないかな。
ホーム・アンド・アウェイ
こんなに好きな水族館も、小学校4年以来行っていない。行くにはまず電車男で言う「JTBでは売ってくれないチケット」をもらわないといけなのだが、これが甚だ難しい。
詩才について
4月1日に「話題をためておきます」と言ったものの結局用意していたのはこの記事だけだった。もともと2つの記事で作ろうと思っていたものをひとつにまとめたため、色々詰め込みすぎて流れが悪くなった。
シロツメクサ
三つ葉・四つ葉のそれぞれの視点で作ってみた。もちろん私は三つ葉の立場。
駅までの道
クレマチスに芍薬など植物の話題が多くなったのには理由がある。主人公が花屋でアルバイトをするお話を作っていて、そのために3月ごろ少し調べたからだ。完成はおそらく今年度の終わりだろうな。大学で考えたことを集大成のつもりで色々と反映させるつもり。
喜劇「コチラ独り身専用車両ナリ」
このような仮定をして想起される面白い場面を募ってみたい。思いついた方はコメントかメールをお願いします。
マリーゴールド・What's for others?
力になりたいけど向こうは必要としていないと気付かされたことがあったので書いた。ところで長らく身分の差は、神が決めたものとして信じられることで安定をしていたように思うが、これは支配層が利用するだけではなく被支配層自らも信じたい気持ちがあったのだろう。
困った困った
実際言ったらベルサポートはその後電話をかけてきていない。いいね、法令順守。
敵はどこだ
結局は相手を省みない極端な主張がよく売れる。自覚していれば結構なこと。
高学歴難民
労働市場について触れたがこのエッセイに通じるものを感じた。この問題は本人だけじゃなく社会にとってもマイナスだと思う。ロースクール卒業して新司法試験受験回数を使い果たしたらどうなるのか、これも今問題になっているらしい。
金にすべてを
「金(カネ)にすべてを」の拝金主義と正反対を行く北朝鮮。こちらは「金(キム)にすべてを」。文字は一緒。ちなみにタイトルはクイーンの「愛にすべてを」という曲から。ところで、「愛されたがり」の心理について触れたが、私も記事を書いたあとコメントがつかないかそわそわしてしまう。コメントゼロってどういうことか、無関心ってことか、残念、などと勘ぐってしまうことがある。
タマゴが先
この仮説を確かめようとするなら、血液型占いが全く知られていない地域で自分の性格をどう思っているかアンケートをして血液型との相関をしらべてみればいいんじゃないかな。
ホーム・アンド・アウェイ
こんなに好きな水族館も、小学校4年以来行っていない。行くにはまず電車男で言う「JTBでは売ってくれないチケット」をもらわないといけなのだが、これが甚だ難しい。
ある人が魅力的だというとき、そのひとつの要素には、自分にはできないことができる、というものがあるだろう。小中学校でいえば、先生に意見できる、運動ができる、など。生来的なものとして容姿もある。本人も自分の持つ長所に自信をもち、高める努力をし、ひけらかしはしないが、落ち着いていきいきと生活している。そんな姿は多くの人にとってまぶしいものとなるだろう。
私に関していえば、中学高校のころと大学ころのどちらが自由を謳歌していきいきとした生活ができていたかというと、残念ながら中高のころである。その背景には、「適度な世界の狭さ」があると思う。ヨーロッパでも自由は都市の城壁の中で発達した、というように、普遍性をもつ自由もそれを謳歌するには適度な閉鎖性が必要であろう。
学年150人くらいで6年間をすごす。集団活動も多いので共有できるものも多い。お互い誰がどんな人でどんなことに興味をもち、どんな活動をしているか、だいたい把握できた。自分のこともだいたいわかってくれている、という安心感がある。そのような環境のもとでは、興味の向くままに、普通ではちょっと特殊と思われるようなことにも色々と取り組むことができる。周囲からいろいろ言い立てられることも皆無ではないが、そちらこそ十分変ではないか、みたいな感じで気にすることもない。
対して、大学では、より広範な自由が与えられているものの、世界が広く無秩序で不安定要素が多い。そこでは、周囲の目線というものを強く意識せざるを得ない。まず安心感を得るために周囲に合わせた行動をとりたくなってしまう。気にせずつきつめればいいのだが、そこまでの精神的独立をもちあわせていなかった。
その結果、私が大学で取り組んだことには中途半端で止まっているものが多い。調べたことをレポートとしてまとめたこともわずか、法律の勉強も結局残ったのは散らかったノート。サークルも1年単位だ。以前よりバランスのとれた人になったと思えばいいかもしれないが、やはり自信をもてるものがなくては快活にはなれない。芯をかたちづくる必要があるのに、見出せていない。外から見ればみんな芯があるようにみえても実際心の中は流動的だ、などと慰めるのにも限界がある。
そんな途方もない喪失感を目の前にして、少々逃げ出したいと思うようになった。本郷に来ていまいち勉強の成果が出ないのは通学に時間と体力を奪われているからではないか、法科大学院は家に近いところを選んだ方がよく勉強できるのではないか、など。
しかし、だ。待て。どれだけ甘いんだ。通学が大変?もっと遠くから通ってる人も大勢いるのに。時間を使う工夫もせずに何が他の大学だ。体力つけることもせずに。本が高くて大変?図書館に通ってメモをとっていけばいいではないか。昔の学生は当然そうしてたはずだ。書き込めるか書き込めないか、そんなことは言い訳だろう?そんな少しの努力もせずに逃げ腰なことを考えるんじゃない。甘い甘い、カカオ99%ほどではないが麗しき女性との口づけより甘い。いや、逆だ。麗しき女性との口づけほどではないがカカオ99%より甘い。いや、嘘だ。息が止まるくらいの甘い口づけなんてあるものか。
少々脱線したものの、こんなふうに反省するに至り、もっとハングリーに法学に取り組もうと意識を新たにした。気がつくのは遅かったものの、まだ手遅れではないだろう。"It's late, but not too late"である。これまでの勉強も整理できていないだけで何もないわけではない。目の前の試験を力の限り正面突破しよう。
ああ、僕の胃袋よ もっと強靭たれ もっと貪欲たれ
何だって飲み込んで 何だって消化して ぜんぶエネルギーに変えてしまおう
Mr.Children/友とコーヒーと嘘と胃袋
私に関していえば、中学高校のころと大学ころのどちらが自由を謳歌していきいきとした生活ができていたかというと、残念ながら中高のころである。その背景には、「適度な世界の狭さ」があると思う。ヨーロッパでも自由は都市の城壁の中で発達した、というように、普遍性をもつ自由もそれを謳歌するには適度な閉鎖性が必要であろう。
学年150人くらいで6年間をすごす。集団活動も多いので共有できるものも多い。お互い誰がどんな人でどんなことに興味をもち、どんな活動をしているか、だいたい把握できた。自分のこともだいたいわかってくれている、という安心感がある。そのような環境のもとでは、興味の向くままに、普通ではちょっと特殊と思われるようなことにも色々と取り組むことができる。周囲からいろいろ言い立てられることも皆無ではないが、そちらこそ十分変ではないか、みたいな感じで気にすることもない。
対して、大学では、より広範な自由が与えられているものの、世界が広く無秩序で不安定要素が多い。そこでは、周囲の目線というものを強く意識せざるを得ない。まず安心感を得るために周囲に合わせた行動をとりたくなってしまう。気にせずつきつめればいいのだが、そこまでの精神的独立をもちあわせていなかった。
その結果、私が大学で取り組んだことには中途半端で止まっているものが多い。調べたことをレポートとしてまとめたこともわずか、法律の勉強も結局残ったのは散らかったノート。サークルも1年単位だ。以前よりバランスのとれた人になったと思えばいいかもしれないが、やはり自信をもてるものがなくては快活にはなれない。芯をかたちづくる必要があるのに、見出せていない。外から見ればみんな芯があるようにみえても実際心の中は流動的だ、などと慰めるのにも限界がある。
そんな途方もない喪失感を目の前にして、少々逃げ出したいと思うようになった。本郷に来ていまいち勉強の成果が出ないのは通学に時間と体力を奪われているからではないか、法科大学院は家に近いところを選んだ方がよく勉強できるのではないか、など。
しかし、だ。待て。どれだけ甘いんだ。通学が大変?もっと遠くから通ってる人も大勢いるのに。時間を使う工夫もせずに何が他の大学だ。体力つけることもせずに。本が高くて大変?図書館に通ってメモをとっていけばいいではないか。昔の学生は当然そうしてたはずだ。書き込めるか書き込めないか、そんなことは言い訳だろう?そんな少しの努力もせずに逃げ腰なことを考えるんじゃない。甘い甘い、カカオ99%ほどではないが麗しき女性との口づけより甘い。いや、逆だ。麗しき女性との口づけほどではないがカカオ99%より甘い。いや、嘘だ。息が止まるくらいの甘い口づけなんてあるものか。
少々脱線したものの、こんなふうに反省するに至り、もっとハングリーに法学に取り組もうと意識を新たにした。気がつくのは遅かったものの、まだ手遅れではないだろう。"It's late, but not too late"である。これまでの勉強も整理できていないだけで何もないわけではない。目の前の試験を力の限り正面突破しよう。
ああ、僕の胃袋よ もっと強靭たれ もっと貪欲たれ
何だって飲み込んで 何だって消化して ぜんぶエネルギーに変えてしまおう
Mr.Children/友とコーヒーと嘘と胃袋
このエッセイによると、女性恐怖型の女嫌いな人は文筆において猛々しくなるとのことだ。私は、今でこそ改善されてきたが、女性と話すときは細心の注意を払っては気疲れしていた。これは相手が抱く印象に対する恐怖心の裏返しだ。そんな私が書いている記事は雄雄しい・猛々しいというよりは中庸に収まる感じだと思うので、あてはまらないだろう。しかし、最初にこのエッセイを読んだときは妙に納得してしまった。何か極端なことが思い浮かぶと女性恐怖のせいだ、と思う。本能的な欲求を恐怖心により抑えているからだと一応説明はできるが、きちんとした因果関係があるわけではない。
妙に納得してしまう、これと似たようなことに血液型占いがある。ミクシィのプロフィールは生年月日は非公開にできるが血液型の非公開設定はできない仕様になっている。別に輸血を募るわけではないから、性格を推し量る材料に使うのだろう。それほど日本では定着しているものだが、もちろんきちんとした因果関係はない。一方で「周囲を見回してもあてはまる、絶対関係がある」と考えている人はことのほか多い。
私は、これについてアイデンティティ形成の点から説明できるのではないかと思う。本質的には性格は多面的で流動的であるのだけれども、社会から「ある程度」の人格的一貫性が求められ、自分が何であるか言い聞かせる上で「アイデンティティ=自己定義+他者による承認」が安定しなくてはならない。現代では大量の人と関わりをもたざるを得ないので、「他者による承認」は表面的なまま行われがちだ。そんな中でアイデンティティを形成するとき、自分のもつ流動的な性質の中で、最も他者から承認されやすい血液型と気質の関係に影響されて、A型なら真剣に取り組むときが自分の本来の性質だと思い、O型なら大雑把になるときが自分の本来の性質だと思うようになる。そして結果的に本来の性質と思う行動を多くとるようになる。
ニワトリが先かタマゴが先かという問いにはタマゴが先ということで結論が出たらしいが、ここでも基本的には社会通念が先ということになりそうだ。もっとも、抵抗感がなければ素直に従っておいたほうがよい。「結局は場合による」などと自己定義してしまうと、行く先々で他者による承認と不一致が生じ、絶大なるアイデンティティ・クライシスによって精力を使い果たしてしまうことになる。
妙に納得してしまう、これと似たようなことに血液型占いがある。ミクシィのプロフィールは生年月日は非公開にできるが血液型の非公開設定はできない仕様になっている。別に輸血を募るわけではないから、性格を推し量る材料に使うのだろう。それほど日本では定着しているものだが、もちろんきちんとした因果関係はない。一方で「周囲を見回してもあてはまる、絶対関係がある」と考えている人はことのほか多い。
私は、これについてアイデンティティ形成の点から説明できるのではないかと思う。本質的には性格は多面的で流動的であるのだけれども、社会から「ある程度」の人格的一貫性が求められ、自分が何であるか言い聞かせる上で「アイデンティティ=自己定義+他者による承認」が安定しなくてはならない。現代では大量の人と関わりをもたざるを得ないので、「他者による承認」は表面的なまま行われがちだ。そんな中でアイデンティティを形成するとき、自分のもつ流動的な性質の中で、最も他者から承認されやすい血液型と気質の関係に影響されて、A型なら真剣に取り組むときが自分の本来の性質だと思い、O型なら大雑把になるときが自分の本来の性質だと思うようになる。そして結果的に本来の性質と思う行動を多くとるようになる。
ニワトリが先かタマゴが先かという問いにはタマゴが先ということで結論が出たらしいが、ここでも基本的には社会通念が先ということになりそうだ。もっとも、抵抗感がなければ素直に従っておいたほうがよい。「結局は場合による」などと自己定義してしまうと、行く先々で他者による承認と不一致が生じ、絶大なるアイデンティティ・クライシスによって精力を使い果たしてしまうことになる。
水族館が好きだ。薄暗いフロアに透き通ったブルーの側面、辺りはひっそりとして、目の丸い魚たちが黙々と水槽の中を泳いでいく。海中散歩をしているような錯覚におそわれる。しかし、そうだからといって、実際に海中散歩をしてみたらどんなに素晴らしいかと夢見ているかというと、違う。漠然としたイメージだけだと、海水の塩辛さ、酸素ボンベ等装備の窮屈さ、水中移動の難しさ等が見落とされがちだ。大自然の作り出す秩序の中になけなしの装備をして踏み込んでいくか、それとも、人間が作った秩序に自然を組み込んだ中を悠々と歩くか。私も人間のひとりとして、人間の秩序の中のほうが心地よい安楽さを感じる。水族館と海、これはさながらホーム・アンド・アウェイの関係のようだ。
似たようなことは、他にもある。しとしと降る雨を部屋の窓から眺めてみよう。奥ゆかしい雨粒が木々の葉にあたり、葉は滴を落としながら微かに輝く。雨の音は心を落ち着かせる。では、これを全身で体験できたらどんなに素晴らしいかと思って外に出てみよう。まず最初に気がつくのは、傘に当たる雨の音だ。布に無神経に当たり、間の抜けた、そしてどことなく篭った音を立てる。耳に近いので木々や地面に当たる音よりもよく聞こえ、耳を支配する。次には、ズボンのすそが雨で濡れ、足取りが重くなっていく。当初期待したような感覚は少々不愉快なかたちでしか得られないだろう。ここでは、部屋の中がホーム、外がアウェイだ。
このように、自分の中のしきたりが通用する場としない場がある。しかしここで私は、何も「ホーム」に閉じこもれと言うわけではない。極端になれば、自分の部屋以外すべてが「アウェイ」になってしまう。安楽さに甘えてしまうのではなく自信の拠り所として、「ホーム」の領域を広げていくのだ。ダイビングの訓練を重ねて自由に海中を動き回れるようになれば、アウェイの地はホームとなり、この上ない喜びが得られ、現に多くの人が趣味として楽しんでいる。
もっとも、新規開拓にも注意すべきことがある。第一に、規範意識からするのではなく純粋な興味からするのでなければ成果が得られない、ということである。古典を読むことが高尚そうな趣味だから、という理由で手を延ばすのでは大抵の場合続かないだろう。私は今4年生で客観的には忙しく大変な状態だが、ささやかな創作の趣味を大っぴらにしたことで大いに満足を得ている。それまでは恥ずかしがって隠したまま、勉強のまとめや無難な記事を重ねていて、どうにも煮え切らない状態だった。
第二には、性格的にどうしても合わない領域が必ずある、ということである。実直で完璧主義な人が要領のよさと大量の事務処理が求められる仕事につくと、不幸な結末を迎えかねない。社交性を求める人が、狭い人間関係の中で窒息しそうな職場についてしまっても同じだ。優秀な方は自分はどの環境にも対応できると万能感を抱きがちだが、先の記事で触れたような自己肯定の心理で対応できない限度で、どうしても限界がある。自分のいる環境がその限界を超えると明らかになったならば、なるべく早くに環境を変えたほうが良い。それは決してその人の人格に問題があるわけではないのだ(参考)。
似たようなことは、他にもある。しとしと降る雨を部屋の窓から眺めてみよう。奥ゆかしい雨粒が木々の葉にあたり、葉は滴を落としながら微かに輝く。雨の音は心を落ち着かせる。では、これを全身で体験できたらどんなに素晴らしいかと思って外に出てみよう。まず最初に気がつくのは、傘に当たる雨の音だ。布に無神経に当たり、間の抜けた、そしてどことなく篭った音を立てる。耳に近いので木々や地面に当たる音よりもよく聞こえ、耳を支配する。次には、ズボンのすそが雨で濡れ、足取りが重くなっていく。当初期待したような感覚は少々不愉快なかたちでしか得られないだろう。ここでは、部屋の中がホーム、外がアウェイだ。
このように、自分の中のしきたりが通用する場としない場がある。しかしここで私は、何も「ホーム」に閉じこもれと言うわけではない。極端になれば、自分の部屋以外すべてが「アウェイ」になってしまう。安楽さに甘えてしまうのではなく自信の拠り所として、「ホーム」の領域を広げていくのだ。ダイビングの訓練を重ねて自由に海中を動き回れるようになれば、アウェイの地はホームとなり、この上ない喜びが得られ、現に多くの人が趣味として楽しんでいる。
もっとも、新規開拓にも注意すべきことがある。第一に、規範意識からするのではなく純粋な興味からするのでなければ成果が得られない、ということである。古典を読むことが高尚そうな趣味だから、という理由で手を延ばすのでは大抵の場合続かないだろう。私は今4年生で客観的には忙しく大変な状態だが、ささやかな創作の趣味を大っぴらにしたことで大いに満足を得ている。それまでは恥ずかしがって隠したまま、勉強のまとめや無難な記事を重ねていて、どうにも煮え切らない状態だった。
第二には、性格的にどうしても合わない領域が必ずある、ということである。実直で完璧主義な人が要領のよさと大量の事務処理が求められる仕事につくと、不幸な結末を迎えかねない。社交性を求める人が、狭い人間関係の中で窒息しそうな職場についてしまっても同じだ。優秀な方は自分はどの環境にも対応できると万能感を抱きがちだが、先の記事で触れたような自己肯定の心理で対応できない限度で、どうしても限界がある。自分のいる環境がその限界を超えると明らかになったならば、なるべく早くに環境を変えたほうが良い。それは決してその人の人格に問題があるわけではないのだ(参考)。
ブログもミクシィも各記事ごとにタイトルをつけないといけないが、これが非常に難しい。一言で内容を暗示しつつ、センスをきらっとみせないといけない。いっそのこと日付だけにしてしまうのもよいかもしれないが、それでは余りにも味気ない。他人の言葉をもってくることもあるが、それではオリジナリティがない。「敵はどこだ」はポルノグラフィティの楽曲の名前から拝借してしまった。オリジナルで考えてみても「夢の果てに」はなんかイマイチ。
本のタイトルは売れ行きを左右する重要なものだ。特に新書のように価格が安く買う側が興味本位で購入する分野では。本のタイトルをみて気になるのは、「○○・××・△△△」と名詞を3つならべたものと、「…あるいは…」とするもの。パターン化されていて、何を気取っているんだと言いたくもなるが、内容もそれに相応しい立派なものなのだろう。
ブログのタイトルも重要なもので、新着記事や検索リストの中でクリックをしてもらうためにはタイトルが大きな要素だ。「順風ESSAYS」は個人的には視覚的・語感的に気に入っていてずっと変えずに使っているが、内容を推知させないからか、もっと根本的に記事の内容に公益性がないからか、アクセス数がずっと平行線だ。
久しぶりに脈絡のない記事になってしまった。
本のタイトルは売れ行きを左右する重要なものだ。特に新書のように価格が安く買う側が興味本位で購入する分野では。本のタイトルをみて気になるのは、「○○・××・△△△」と名詞を3つならべたものと、「…あるいは…」とするもの。パターン化されていて、何を気取っているんだと言いたくもなるが、内容もそれに相応しい立派なものなのだろう。
ブログのタイトルも重要なもので、新着記事や検索リストの中でクリックをしてもらうためにはタイトルが大きな要素だ。「順風ESSAYS」は個人的には視覚的・語感的に気に入っていてずっと変えずに使っているが、内容を推知させないからか、もっと根本的に記事の内容に公益性がないからか、アクセス数がずっと平行線だ。
久しぶりに脈絡のない記事になってしまった。
宗教心から創られる美術や建築の美しさには心は奪われるが、その教義が現代において違和感なく受け入れられるのは難しい。キリスト教など、生まれながらにしての罪という点がどうしても納得がいかない。キリスト教倫理との葛藤に青年時代のエネルギーを費やした人の記述を目にすることがあるが、宗教意識が希薄でそのような苦労がない日本に生まれて幸いだと思う。ところで、教会には懺悔室というものがあって、負い目に感じていることを告白させて心を少し安楽にさせてやろうという機能をもつらしい。ここでは幼き頃の出来事を告白して懺悔したいと思う。もっともその動機は、胸につかえているからではなく次の記事の布石のためであるのだが。
マリーゴールドという花がある。鮮やかな黄色~橙色のキクに似た花なのだが、小学校3年生のとき、小学校の畑に咲いているこの花を切花にして水栽培をしよう、という授業があった。水に入れると根っこを出して長い間花がもつのだ。早速畑に行って好みの株を選んで切り取る。小学生というのは小さいことにも真剣なので綺麗に咲く株を丹念に探していった。そして見つけたのは、小ぶりで細く、花びらの形が美しく整ったものであった。私はすっかり惚れこんでその花を切り取ろうと手を伸ばした。しかし、その手よりもわずかに早く、クラスメイトの一人がその花を手中に入れた。私は驚いて、それは自分もいいなと思ったものだ、と言って彼と交渉しようとした。でも「俺が先にとったもんね」とぶっきらぼうに返されてさっさと行ってしまった。本命を取られてしまった私は仕方なくその辺りにあったものを適当に選んだ。
水栽培にあたり、よく根が出るコツは茎を刺激しないようにすることだと教わる。一人ひとつずつガラスの小さな花瓶に入れて窓際に並べていく。私もそれに従うのだが、どうしても自分の花に愛着が沸かない。無骨に大きくて慎ましやかな感じがしないし、花びらも一部乱れていてバランスがとれていない。あの綺麗な株への羨ましさが募るばかり。次の休み時間、みんなが並べた花をざっとみていく。やっぱりあの花が一番綺麗だ。何気なく、茎を花瓶の縁にこすりつけてしまった。1週間も経てば、当然の事ながら、彼の花は根が十分に出ず見るも無残な姿になる。鮮やかな黄色の花びらはどす黒さを帯びたオレンジに変色してしまっていた。「どうしてこうなっちゃったのかな」と首をかしげる彼を横に私は無言だったが、大変後悔した。彼にとってはもちろん、自分にとっても最も望まない結果ではないか。
一度惚れ込んだものに対しては、例えそれが自分の思い通りにいかなかったとしても、出来る限りの支援をして輝く姿を見守ろう、と固く誓った。
マリーゴールドという花がある。鮮やかな黄色~橙色のキクに似た花なのだが、小学校3年生のとき、小学校の畑に咲いているこの花を切花にして水栽培をしよう、という授業があった。水に入れると根っこを出して長い間花がもつのだ。早速畑に行って好みの株を選んで切り取る。小学生というのは小さいことにも真剣なので綺麗に咲く株を丹念に探していった。そして見つけたのは、小ぶりで細く、花びらの形が美しく整ったものであった。私はすっかり惚れこんでその花を切り取ろうと手を伸ばした。しかし、その手よりもわずかに早く、クラスメイトの一人がその花を手中に入れた。私は驚いて、それは自分もいいなと思ったものだ、と言って彼と交渉しようとした。でも「俺が先にとったもんね」とぶっきらぼうに返されてさっさと行ってしまった。本命を取られてしまった私は仕方なくその辺りにあったものを適当に選んだ。
水栽培にあたり、よく根が出るコツは茎を刺激しないようにすることだと教わる。一人ひとつずつガラスの小さな花瓶に入れて窓際に並べていく。私もそれに従うのだが、どうしても自分の花に愛着が沸かない。無骨に大きくて慎ましやかな感じがしないし、花びらも一部乱れていてバランスがとれていない。あの綺麗な株への羨ましさが募るばかり。次の休み時間、みんなが並べた花をざっとみていく。やっぱりあの花が一番綺麗だ。何気なく、茎を花瓶の縁にこすりつけてしまった。1週間も経てば、当然の事ながら、彼の花は根が十分に出ず見るも無残な姿になる。鮮やかな黄色の花びらはどす黒さを帯びたオレンジに変色してしまっていた。「どうしてこうなっちゃったのかな」と首をかしげる彼を横に私は無言だったが、大変後悔した。彼にとってはもちろん、自分にとっても最も望まない結果ではないか。
一度惚れ込んだものに対しては、例えそれが自分の思い通りにいかなかったとしても、出来る限りの支援をして輝く姿を見守ろう、と固く誓った。
伊藤園のお茶には子供の俳句が載っているが、ハッとさせられるものも多い。最近見た中では、「曇り空 誰が落とした 目玉焼き」(うろ覚え)というもので、空に向かって卵を落とすとは、それが曇り空から丸く光る太陽をみて思いつくとは、とつくづく感心させられた。同じ空を見るでも、私のようにぼんやり見てる人もいれば、輝かしいものを見出す子供もいるものだ。
詩人が見る空と普通人が見る空は同じで、格別詩人がきれいな空をみているわけではない。普通の人でも旅行記など非日常体験について書くとき筆が立つのは、直感そのまま新鮮で書きたいことになるから、とのことだ。子供は天然の詩人というか物事を偏見なくみる能力が備わっているのに対して、平凡な人としては意識的に挑戦してみる必要がある。「切符がくれたもの」は、実際わが家のポストに切符が(ここでは大人の切符だった)入っていたのをきっかけにストーリーを広げて作ってみたものだ。書いた当初はそれほど意識していなかったが、駅の改札は結構色々なことが象徴されているように思う。
「矢印や進入禁止の表示が身近に見える」子供のころは自分がやるべきことに迷うことが殆どない。学校の勉強をやって、宿題をやって…。そしてみんな進む方向は一緒だ。一方、「今度は、改札機が小さく見える」矢印も進入禁止も視界に入らない。外から与えられる進むべき方向は目に入らない。二人の行く方向も同じではない。ただ、ささやかな交流でこれから自分が進むだろう道に少し自信を持つことができた。そんな意味を込めて結語へ。
こうやって一度言葉にこだわって何かやってみると、流行曲の歌詞にも色々と込められた意味があるのではないか、と気がついてくる。使い捨てなどというが、それは聴く側が氾濫する情報の中でひとつを味わう機会を狭めてしまっているからかもしれない。思えば、中学生、CDを買い始めた頃は同じ曲を何度も何度も繰り返して聴いていたっけ。最近見直したなかでは、ミスターチルドレンの「未来」が特に含蓄深いと思う。
このように詞の世界では普段は見過ごしてしまう事柄に多面的にアタックしてみることでそれなりの成果は挙げられるが、笑いの世界は見た人に瞬時に理解させなければいけない。これはより難しい大変な作業だ。テレビを見ていても、小道具を前にした即興のコントは一杯一杯なのが伝わってくるし、トークバラエティ番組では何でもない言い間違えを指摘して執拗に笑うばかりである(どもり癖のあった私としてはこれは許せない部類に入る)。
詩人が見る空と普通人が見る空は同じで、格別詩人がきれいな空をみているわけではない。普通の人でも旅行記など非日常体験について書くとき筆が立つのは、直感そのまま新鮮で書きたいことになるから、とのことだ。子供は天然の詩人というか物事を偏見なくみる能力が備わっているのに対して、平凡な人としては意識的に挑戦してみる必要がある。「切符がくれたもの」は、実際わが家のポストに切符が(ここでは大人の切符だった)入っていたのをきっかけにストーリーを広げて作ってみたものだ。書いた当初はそれほど意識していなかったが、駅の改札は結構色々なことが象徴されているように思う。
「矢印や進入禁止の表示が身近に見える」子供のころは自分がやるべきことに迷うことが殆どない。学校の勉強をやって、宿題をやって…。そしてみんな進む方向は一緒だ。一方、「今度は、改札機が小さく見える」矢印も進入禁止も視界に入らない。外から与えられる進むべき方向は目に入らない。二人の行く方向も同じではない。ただ、ささやかな交流でこれから自分が進むだろう道に少し自信を持つことができた。そんな意味を込めて結語へ。
こうやって一度言葉にこだわって何かやってみると、流行曲の歌詞にも色々と込められた意味があるのではないか、と気がついてくる。使い捨てなどというが、それは聴く側が氾濫する情報の中でひとつを味わう機会を狭めてしまっているからかもしれない。思えば、中学生、CDを買い始めた頃は同じ曲を何度も何度も繰り返して聴いていたっけ。最近見直したなかでは、ミスターチルドレンの「未来」が特に含蓄深いと思う。
このように詞の世界では普段は見過ごしてしまう事柄に多面的にアタックしてみることでそれなりの成果は挙げられるが、笑いの世界は見た人に瞬時に理解させなければいけない。これはより難しい大変な作業だ。テレビを見ていても、小道具を前にした即興のコントは一杯一杯なのが伝わってくるし、トークバラエティ番組では何でもない言い間違えを指摘して執拗に笑うばかりである(どもり癖のあった私としてはこれは許せない部類に入る)。
私は外では落ち着いていて、落ち着きすぎてノリが悪いと思われそうなくらいなのだけど、家では結構な心配性だ。毎日帰宅するときには火事で焼けてなくてよかった、泥棒が入っていなくてよかったと胸をなでおろす。深夜起きたときは家族がちゃんと息をしているか確かめる。外で落ち着いているのは心配を思い巡らせ過ぎて大概のことが想定内になってしまうからかもしれない。とはいえ余程のことがない限り電車や教室で熟睡できないなど身体が緊張しているので、家での休息の時間を大切にしている。
勉強するときも、あの分野が少し弱いかなといったことがチラチラと頭によぎる。ちょうど今目の前に貼ってある紙には「全問正解する必要はない」「知らない知識も必ず出る、慌てる必要はない」「知識量としては周囲に決して劣っていない、自分が難しいと思う問題はみんなにとってもそうだ」みたいなことが書いてあって、要は落ち着いてやれといったことを言い聞かせてある。そんな私にとって集中するには音楽が必須である。心地よいリズム・メロディに乗って余計な心配をせず目の前の作業に取り組む。アルバム1枚で約1時間と時間の目安にもなるし、聞き古した曲ならそれに気をとられることも少ない。ということで自室には四六時中といっていいほどオーディオがかかっている。中学の頃からずっとそうだ。よく耳栓して勉強する人がいるけれど、無音で集中できるというのは凄いことだと思う。私だったらイヤホンで耳に栓をする。
その中でも試験用、試験のときにはこれを聴く、というものがある。m-floなんだけど、本当に感謝感謝。今日はEXPOのツアーのライブアルバムを聴いて会場まで行った。聴いてると落ち着くどころか、余裕も出てくる。VERBALさんtakuさん、これからも10年先のハイクオリティな楽曲を待ってますヨ。いつかライブに行ってみたい。
勉強するときも、あの分野が少し弱いかなといったことがチラチラと頭によぎる。ちょうど今目の前に貼ってある紙には「全問正解する必要はない」「知らない知識も必ず出る、慌てる必要はない」「知識量としては周囲に決して劣っていない、自分が難しいと思う問題はみんなにとってもそうだ」みたいなことが書いてあって、要は落ち着いてやれといったことを言い聞かせてある。そんな私にとって集中するには音楽が必須である。心地よいリズム・メロディに乗って余計な心配をせず目の前の作業に取り組む。アルバム1枚で約1時間と時間の目安にもなるし、聞き古した曲ならそれに気をとられることも少ない。ということで自室には四六時中といっていいほどオーディオがかかっている。中学の頃からずっとそうだ。よく耳栓して勉強する人がいるけれど、無音で集中できるというのは凄いことだと思う。私だったらイヤホンで耳に栓をする。
その中でも試験用、試験のときにはこれを聴く、というものがある。m-floなんだけど、本当に感謝感謝。今日はEXPOのツアーのライブアルバムを聴いて会場まで行った。聴いてると落ち着くどころか、余裕も出てくる。VERBALさんtakuさん、これからも10年先のハイクオリティな楽曲を待ってますヨ。いつかライブに行ってみたい。
最近、こんな年齢にもかかわらず子供をどのように育てようかと考えることがよくある。受験シーズンで、本屋・新聞・電車の中吊り等々で教育についての特集が組まれている雑誌をよく目にするからであろう。こうした記事にひょいと目を通してみると、自分がいかに恵まれた教育環境を与えられてきたかがわかる。確かに上をみればキリがないのだけれど、そこから妬みやコンプレックスといった感情が生じないくらい満足を得ている。
しかし、大学に入り、環境の活かし方の大部分を自分の選択に委ねられて、今になって後悔の念にかられることが多い。それ以前の、ピアノ教室では先生から出された曲の中で一番難しそうなものを選び、学校行事でも積極的に取り組み、センター試験公民もわざわざ倫理を選んだ、というような成功如何はともかく意欲的に挑戦してきた姿が失われてしまった感じがする。大学に入ったころはこれまでパンクしそうになるほど用事を重ねてきたことを反省して、余裕のある生活をしようと思っていた。しかし「余裕のある」とは時間を余らせることではなく充実した活動で全体を支えることだったのだ。
ダブルスクールで忙しいと思って語学のインテンシブコースや第三外国語に消極的だったこと、新たに挑戦してみたかった分野のサークル活動を見送ったこと、そして当のダブルスクールでは右も左もわからぬ1年生だからと甘えてしまったこと。また、せっかく考えたことをレポートとしてまとめる気力がなかったこと。もちろん、写真論など今後も考えていきたいテーマにも出会ったし、学生としての義務は一応果たしてきたつもりだ。しかしこれらは自分の自信をつけさせるほどの充実感と満足感を与えてくれてはいない。
この後悔と自信喪失という良くない状況の中、大学3・4年というひとつの大きな選択を迫られる時期を迎えてしまった。幸い私の周囲では就職活動をする人は少数派なので(高校の同期で法学部に進学した19人のうち2人だけ)プレッシャーはそれほど大きくないし、法律を専門として仕事をしていくことに迷いはない。私の展望としては、短期的には満足いくまで勉強して(ロースクールまで親の支援はとりつけた)、法律の専門家となれる資格を得たい。その仕事で身を立てることを目指す。これに見通しがついたなら、一息つき(もちろん仕事は続けながら)、小説を書き、子供(3人くらい)を立派な大人になるよう育て上げる。そこでは自分を育ててくれた地域への貢献に取り組み、もし能力と幸運が許すならばクニ・世界への貢献へと手を伸ばせていけたらいいと思う。
しかし、大学に入り、環境の活かし方の大部分を自分の選択に委ねられて、今になって後悔の念にかられることが多い。それ以前の、ピアノ教室では先生から出された曲の中で一番難しそうなものを選び、学校行事でも積極的に取り組み、センター試験公民もわざわざ倫理を選んだ、というような成功如何はともかく意欲的に挑戦してきた姿が失われてしまった感じがする。大学に入ったころはこれまでパンクしそうになるほど用事を重ねてきたことを反省して、余裕のある生活をしようと思っていた。しかし「余裕のある」とは時間を余らせることではなく充実した活動で全体を支えることだったのだ。
ダブルスクールで忙しいと思って語学のインテンシブコースや第三外国語に消極的だったこと、新たに挑戦してみたかった分野のサークル活動を見送ったこと、そして当のダブルスクールでは右も左もわからぬ1年生だからと甘えてしまったこと。また、せっかく考えたことをレポートとしてまとめる気力がなかったこと。もちろん、写真論など今後も考えていきたいテーマにも出会ったし、学生としての義務は一応果たしてきたつもりだ。しかしこれらは自分の自信をつけさせるほどの充実感と満足感を与えてくれてはいない。
この後悔と自信喪失という良くない状況の中、大学3・4年というひとつの大きな選択を迫られる時期を迎えてしまった。幸い私の周囲では就職活動をする人は少数派なので(高校の同期で法学部に進学した19人のうち2人だけ)プレッシャーはそれほど大きくないし、法律を専門として仕事をしていくことに迷いはない。私の展望としては、短期的には満足いくまで勉強して(ロースクールまで親の支援はとりつけた)、法律の専門家となれる資格を得たい。その仕事で身を立てることを目指す。これに見通しがついたなら、一息つき(もちろん仕事は続けながら)、小説を書き、子供(3人くらい)を立派な大人になるよう育て上げる。そこでは自分を育ててくれた地域への貢献に取り組み、もし能力と幸運が許すならばクニ・世界への貢献へと手を伸ばせていけたらいいと思う。
最近は試験に向けて単純作業に勤しむ時期なので話題が乏しく、回文でお茶を濁して更新しています。回文作るのにはあまり時間はかかりません。1分くらい、または電車に乗っている間に出来上がる感じです。長く考えたって出てくるものではありません。ふと身の回りの単語をひっくり返してみて文になるかどうかで決まります。
回文に最初に触れたのは高校1年のころ。クラスで回文が流行し、後ろの黒板に皆で書きあいました。そのあと、高2の夏に携帯電話を持つようになり、ときどきメッセージの最初に言葉遊びをつけてメールを送るようになりました。その後、大学に入り、クラス掲示板で出すようになりました。今はブログの題材になるかなと思って作っています。
特別作るコツは…コツとは言えないかもしれませんが、電子辞書の広辞苑の逆引きを使ってみるのもいいと思います。ただし、難解な言葉を使うと不自然になります。
回文に最初に触れたのは高校1年のころ。クラスで回文が流行し、後ろの黒板に皆で書きあいました。そのあと、高2の夏に携帯電話を持つようになり、ときどきメッセージの最初に言葉遊びをつけてメールを送るようになりました。その後、大学に入り、クラス掲示板で出すようになりました。今はブログの題材になるかなと思って作っています。
特別作るコツは…コツとは言えないかもしれませんが、電子辞書の広辞苑の逆引きを使ってみるのもいいと思います。ただし、難解な言葉を使うと不自然になります。
ちょっとした思い出話。文章を丸々鵜呑みにするよりは批判的に読んでいく方がためになるということもあるが、中学3年の3学期・現代文の授業が、教科書に載っているひとつの評論を題材に「この文章のどこがダメなのか」を延々とみていくという内容であったのが印象深い。
Z会の通信添削の問題で、高校野球・甲子園の選手宣誓で無闇に声を張り上げるのは間違ってる、そもそも言葉というものは相手に伝えるもので...といった課題文のものがあった。言葉である以前に表現であって、コンテクストとして選手宣誓が儀式としてあり、言葉の内容は誰しもわかりきっていることからすると張り上げることに何の問題が?といったことをマイルドにして余白に書いておいた。返ってきた答案には「言いたいことはわかるけどまずは問題を解きましょうね」と書かれていた。当時は意気揚々としていたなあ。
Z会の通信添削の問題で、高校野球・甲子園の選手宣誓で無闇に声を張り上げるのは間違ってる、そもそも言葉というものは相手に伝えるもので...といった課題文のものがあった。言葉である以前に表現であって、コンテクストとして選手宣誓が儀式としてあり、言葉の内容は誰しもわかりきっていることからすると張り上げることに何の問題が?といったことをマイルドにして余白に書いておいた。返ってきた答案には「言いたいことはわかるけどまずは問題を解きましょうね」と書かれていた。当時は意気揚々としていたなあ。
ここは順風という言葉をタイトルに使っているが、良くないことがあるとこれに因んで逆風だね、と声をかけられることがある。風というものは自分の力では動かせないものである。こういう偶然の性質をもつものを気にする意味は薄く、定める目標もできるだけこの要素が薄いものがよい。ともあれ、自分では左右できないことも上手く回っていることを願っての言葉であり、中3から高2の2学期を頂点として現にそうと感じられる時期もあった。今はあまりしっくりいっているという感覚はない。このブログで大学名を出さないのもアイデンティティを感じていないからである。しかし、左右できないとはいっても、風の吹く場所を探すこともでき、ある程度は予測と対策だって可能である。ということで、状況の改善を少し考えてみる。
原因の第一は本能的満足を得ていないことであり、睡眠に関して寝つき寝起きの悪さに辟易し、異性への興味も抑え、食だけが自宅ということもあり満たされている。また、本業たる法律の勉強法も完全には確立していない。そのためか自信がなく謙抑的になりすぎで、周囲への視線が卑屈になり、比較でものを見てしまう。ネットや新聞などアンテナも広げているので比較対象として抽象的には事実を知っているが、確かめる経験が少ないので事実の過大・過小評価がつきまとい乱れを生む。発達した前頭葉のおかげで表には出していないが心中は穏やかではない。
では対策は―上で考えた原因に照らせば、まずは生活リズムを確立することで、試験後に本格的に取り組みたい。法律の勉強法も、今学期の民法と労働法が手がかりになると感じており、見通しがつきそうだ。あとは、彼女ができること…あぁどうしようもないオチ。このいくつかが上向けば、本来の活発さを発揮できるだろう。
原因の第一は本能的満足を得ていないことであり、睡眠に関して寝つき寝起きの悪さに辟易し、異性への興味も抑え、食だけが自宅ということもあり満たされている。また、本業たる法律の勉強法も完全には確立していない。そのためか自信がなく謙抑的になりすぎで、周囲への視線が卑屈になり、比較でものを見てしまう。ネットや新聞などアンテナも広げているので比較対象として抽象的には事実を知っているが、確かめる経験が少ないので事実の過大・過小評価がつきまとい乱れを生む。発達した前頭葉のおかげで表には出していないが心中は穏やかではない。
では対策は―上で考えた原因に照らせば、まずは生活リズムを確立することで、試験後に本格的に取り組みたい。法律の勉強法も、今学期の民法と労働法が手がかりになると感じており、見通しがつきそうだ。あとは、彼女ができること…あぁどうしようもないオチ。このいくつかが上向けば、本来の活発さを発揮できるだろう。