「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」
「なぜ勉強するのか」という問いは親子の間でよくなされることだろう。「勉強しなくたって立派な人になれる」といった問いを子どもがする。個人的には、「じゃあ勉強以外で立派になれる道を具体的に考えてるの?」という返しが効果的だと思うのだが、実はこうした理詰めのやりとりは大して意味がない。このような問いかけが子どもからなされるということは、たいてい今の勉強に疲れているか限界を感じているのである。心の奥で勉強に疲れた!やりたくない!というものがあって、都合のいい言い訳に飛びついているのである。したがって、ここで論破しても仕方がなく、適当にやり過ごしておいて、休みや勉強のやり方の再考をさせて、疲れをケアするのが最もよい方法である。※
このように目の前の理詰めの議論が実は問題の本質から外れているという場面はよくある。夫婦喧嘩で、夫は問題を理詰めで解決しようと説得するのに対し、妻は感情的に納得できないというすれ違いがよく生じる。ここでも喧嘩の種となった問題は大して重要でなく、日常の小さな不満がたまっているだけということがほとんどである。いつもの分担を代わりにやってあげたり、感謝の気持ちを表したりすれば、自然と解決されるだろう。それでも議論ばかりに終始していると、「ちゃんとした思考ができない妻」「理解の足りない夫」とお互い呆れて終わりとなり、溝が深まってしまう。
自己防衛と誤る理性
それでは、なぜ疲れた!不満だ!といった感情が直接問題と上がることなく、一見理性的な議論に問題が転換されているのだろうか。正直に問題の本質となる感情を表現すれば、無用なすれ違いも生じないのに。私は、これは「自己防衛」の働きであると思っている。勉強などで「これが自分の限界だ」と認めることは非常に辛いことである。できるだけ認めたくない。日常の小さな不満も、口に出せばこんなことも我慢できないなんてダメな人間だ、と言われてしまう。これも認めたくない。そこでもっともらしい理由付けをつけて、理性的な話にしようとするのである。しかし、感情に利用された理性の働きは、誤りを犯していることが多い。
例えば、受験など大きな目標に向かって取り組んでいるとき、大きなプレッシャーによりストレスが生じ、ツライ!という心の叫びが次のような誤った思考を生む。(1)目標の過小評価と(2)他の可能性への過大評価である。(1)目標の過小評価とは、仮に成功したとしてもいいことは大してないんじゃない?と疑問を持つ、いわゆる「すっぱいブドウ」の思考である。目標をクリアした人たちがその後苦境に陥っているという情報、先行きが暗いという情報が過度に目に付くようになり、取り組む価値は少ないんじゃないか、という結論を導きがちになる。しかし、現在苦境や先行きの明るさがないとしても、それが永続するとは限らない。「変化」への着目を忘れるという理性の誤りがある。将来、プラスにもマイナスにもどう変わるかはわからないのである。ここで確率計算に励むのは生産的でなく、目の前の目標を突破することが最も大事であると認識しておくべきである。
(2)他の可能性の過大評価とは、自分は今こんなことやってるけど、実はもっと違う才能があって、そっちにいけば成功するんじゃないか、といった期待を生じることである。(1)と相俟って、こんな馬鹿馬鹿しいことに取り組んでいるより、別の道に行くべき!という結論を導くことになる。しかしこれには、別の道で成功するには今以上の大変な努力が必要であることを見逃しているという誤りがある。単純に必要な努力を見積もれば、一歩手前まで来ている現在の目標が最も効率がよいのは明らかである。別の道では先に取り組んでいる人たちがいて、一からのスタートで彼らと伍して最後に勝つためには、何十倍の努力が必要である。別の道について知識が少ないために、安易な皮算用をしてしまうのである。
このように冷静に考えれば誤りとわかる思考でも、多くの人が陥ってしまいがちだ。特に、自分が理性的で、感情や生活を統御できていると確信している人ほど陥りやすい。理性が犯す誤りに対して完全に無防備だからである。「我思う、故に我あり」という言葉があるが、個人的には、「我感じる、故に我あり。我思う、故に我守られる。」が実際のところではないかな、と考えている。
感情をケアする
ということで、問題や課題に取り組むに当たっては、感情をケアすることが非常に大切である。子どもの勉強の場面でも述べたように、ひと休みするというのはひとつの方法である。しかし、休むことや遊ぶことは、それだけでは目標に近づかないという面がある。あまり長く休んでいては、益々目標から遠ざかるような気がして、次の感情の負荷を生んでしまいかねない。これでは悪循環に陥ってしまう。
そこで、極めて重要なのは「小さくてもいいから成果や成長を実感できることをする」ことである。単純作業でもできる簡単な問題集や本の精読を行い、これだけやった!身についた!という実感を得ることである。これを何回も繰り返していく。クリアできそうな小さな目標を立てて、こなしていくのである。基本に取り組むことで、新たな発見もある。楽しさも得ることができる。結局はコツコツと積み重ねていくことが大事というありきたりな結論なのだが、疑問を抱かないで行う場合と疑問を抱いた上で一回りして辿り着いた場合とでは、違うものだ。
※以前話題になった「勉強をした方がいいと断言できる4つの理由」のはてなブックマークコメントで同様のことを書いた。なぜ勉強するのかきちんと語る場合には、この記事やこの記事に対して様々な人がつけたコメント等を参考にするといいと思う。
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「なぜ勉強するのか」という問いは親子の間でよくなされることだろう。「勉強しなくたって立派な人になれる」といった問いを子どもがする。個人的には、「じゃあ勉強以外で立派になれる道を具体的に考えてるの?」という返しが効果的だと思うのだが、実はこうした理詰めのやりとりは大して意味がない。このような問いかけが子どもからなされるということは、たいてい今の勉強に疲れているか限界を感じているのである。心の奥で勉強に疲れた!やりたくない!というものがあって、都合のいい言い訳に飛びついているのである。したがって、ここで論破しても仕方がなく、適当にやり過ごしておいて、休みや勉強のやり方の再考をさせて、疲れをケアするのが最もよい方法である。※
このように目の前の理詰めの議論が実は問題の本質から外れているという場面はよくある。夫婦喧嘩で、夫は問題を理詰めで解決しようと説得するのに対し、妻は感情的に納得できないというすれ違いがよく生じる。ここでも喧嘩の種となった問題は大して重要でなく、日常の小さな不満がたまっているだけということがほとんどである。いつもの分担を代わりにやってあげたり、感謝の気持ちを表したりすれば、自然と解決されるだろう。それでも議論ばかりに終始していると、「ちゃんとした思考ができない妻」「理解の足りない夫」とお互い呆れて終わりとなり、溝が深まってしまう。
自己防衛と誤る理性
それでは、なぜ疲れた!不満だ!といった感情が直接問題と上がることなく、一見理性的な議論に問題が転換されているのだろうか。正直に問題の本質となる感情を表現すれば、無用なすれ違いも生じないのに。私は、これは「自己防衛」の働きであると思っている。勉強などで「これが自分の限界だ」と認めることは非常に辛いことである。できるだけ認めたくない。日常の小さな不満も、口に出せばこんなことも我慢できないなんてダメな人間だ、と言われてしまう。これも認めたくない。そこでもっともらしい理由付けをつけて、理性的な話にしようとするのである。しかし、感情に利用された理性の働きは、誤りを犯していることが多い。
例えば、受験など大きな目標に向かって取り組んでいるとき、大きなプレッシャーによりストレスが生じ、ツライ!という心の叫びが次のような誤った思考を生む。(1)目標の過小評価と(2)他の可能性への過大評価である。(1)目標の過小評価とは、仮に成功したとしてもいいことは大してないんじゃない?と疑問を持つ、いわゆる「すっぱいブドウ」の思考である。目標をクリアした人たちがその後苦境に陥っているという情報、先行きが暗いという情報が過度に目に付くようになり、取り組む価値は少ないんじゃないか、という結論を導きがちになる。しかし、現在苦境や先行きの明るさがないとしても、それが永続するとは限らない。「変化」への着目を忘れるという理性の誤りがある。将来、プラスにもマイナスにもどう変わるかはわからないのである。ここで確率計算に励むのは生産的でなく、目の前の目標を突破することが最も大事であると認識しておくべきである。
(2)他の可能性の過大評価とは、自分は今こんなことやってるけど、実はもっと違う才能があって、そっちにいけば成功するんじゃないか、といった期待を生じることである。(1)と相俟って、こんな馬鹿馬鹿しいことに取り組んでいるより、別の道に行くべき!という結論を導くことになる。しかしこれには、別の道で成功するには今以上の大変な努力が必要であることを見逃しているという誤りがある。単純に必要な努力を見積もれば、一歩手前まで来ている現在の目標が最も効率がよいのは明らかである。別の道では先に取り組んでいる人たちがいて、一からのスタートで彼らと伍して最後に勝つためには、何十倍の努力が必要である。別の道について知識が少ないために、安易な皮算用をしてしまうのである。
このように冷静に考えれば誤りとわかる思考でも、多くの人が陥ってしまいがちだ。特に、自分が理性的で、感情や生活を統御できていると確信している人ほど陥りやすい。理性が犯す誤りに対して完全に無防備だからである。「我思う、故に我あり」という言葉があるが、個人的には、「我感じる、故に我あり。我思う、故に我守られる。」が実際のところではないかな、と考えている。
感情をケアする
ということで、問題や課題に取り組むに当たっては、感情をケアすることが非常に大切である。子どもの勉強の場面でも述べたように、ひと休みするというのはひとつの方法である。しかし、休むことや遊ぶことは、それだけでは目標に近づかないという面がある。あまり長く休んでいては、益々目標から遠ざかるような気がして、次の感情の負荷を生んでしまいかねない。これでは悪循環に陥ってしまう。
そこで、極めて重要なのは「小さくてもいいから成果や成長を実感できることをする」ことである。単純作業でもできる簡単な問題集や本の精読を行い、これだけやった!身についた!という実感を得ることである。これを何回も繰り返していく。クリアできそうな小さな目標を立てて、こなしていくのである。基本に取り組むことで、新たな発見もある。楽しさも得ることができる。結局はコツコツと積み重ねていくことが大事というありきたりな結論なのだが、疑問を抱かないで行う場合と疑問を抱いた上で一回りして辿り着いた場合とでは、違うものだ。
※以前話題になった「勉強をした方がいいと断言できる4つの理由」のはてなブックマークコメントで同様のことを書いた。なぜ勉強するのかきちんと語る場合には、この記事やこの記事に対して様々な人がつけたコメント等を参考にするといいと思う。
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諸事情のためブログの更新をしていませんでしたが、これからまた更新していきます。話題はたくさん考えているので、積極的に活動できると思います。コメント・トラックバックも再開します。迷惑コメント・トラックバックもあるので承認制ですが、お気軽に書き込んでください。gooあしあとの訪問も滞っていましたが、いつもどおり訪問して読みたいと思います。
~~
お知らせだけでは物足りないので、最近よく聴いている音楽を紹介します。トップレベルの歌唱力と魅力的な楽曲が揃うKOKIAさんです。00年前後から活動していたようですが、この頃の自分はクイーンやデビッドボウイといった昔の洋楽にはまっていたので最近まで知りませんでした。ちょっと後悔しています。
【良音質】 KOKIA 10曲セレクション 【入門編】
一般的な認知度ではまだ伸びしろがたくさんあるようで、宣伝効果を重視してか、ネット上にはたくさんのPVやライブの動画が投稿されたまま黙認状態のように見えます。上の入門の10曲紹介も3年近く残っています。自分もこの動画で知るようになったのですが、どの曲も本当に素晴らしいです。中でも特に好きなのは、「ありがとう…」「調和」「人間ってそんなものね」です。
1曲目の「ありがとう…」一番の有名曲のようです。この曲を聴いて衝撃だったのは、か弱さ・繊細さを感じさせるという方向での歌唱力の高さを感じたことです。歌唱力のある実力派の歌手だと声量が大きく、声も太めで「これでもかっ」という感じで歌うイメージをもっていたのですが、この曲では平原に生える細長い植物のような、人の心の機微を感じさせる声を聴くことができます。「ありがとう…」の「う…」の最後の消え入るような部分などうわーって感じになりました。しんみりとした曲調によく合っています。
3曲目の「調和」は、神秘的という言葉がぴったりな曲です。人間と自然の共存をテーマにしたもので、全体的に密林の最奥のような空間を感じさせます。後半はアナグラムのような歌詞となっており、自然の鼓動がどんどん迫ってくる感覚を得ます。ここでは声を震わせて、1曲目のようなか弱さ・繊細さとは違った表現がされていて、歌い方を曲にあわせる幅の広さに圧倒されました。ライブ映像では特に圧倒的なパフォーマンスを見ることができます。
9曲目の「人間ってそんなものね」は歌詞が琴線に触れます。特に好きなフレーズを引用してみましょう。歌詞全部はこちら(goo音楽)を参照してください。
「迷惑をかけるのはイヤだなんて一人で歩いて来たつもりなの?」
「人間って…助け合って 肩貸し合って 少し進んでは立ち止まって…」
「…人間ってそんなものね」
日本では他人に迷惑をかけることが特に忌避されているように見えます。迷惑をかけず一人で十分に生きていると、自分が成功しているという感覚を得るのではないでしょうか。しかしそんなことは現実にはできない、あるいは気がついていないことがほとんどです。「迷惑をかけないべき」が強すぎて無理をしているとき、一人でできないことを受け入れていいよ、と諭されるとホロっときます。そして、助けてくれた人に対して贈るべき言葉は「すみません」ではなく「ありがとう」なのです。ここで「ありがとう」という気持ちが言えなかった心残りを歌う1曲目の「ありがとう…」に戻ると感動も高まるのではないかと思います。
ということで、まずは「調和」と「人間ってそんなものね」が収録されている「trip trip」というアルバムを入手しようかなと考えています。もっと広く知れ渡るようになり、カラオケでガイドボーカルがつくくらいになって欲しいです。同時に宣伝効果が果たされたとして動画が削除されるようになるかもしれませんが。
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一般的な認知度ではまだ伸びしろがたくさんあるようで、宣伝効果を重視してか、ネット上にはたくさんのPVやライブの動画が投稿されたまま黙認状態のように見えます。上の入門の10曲紹介も3年近く残っています。自分もこの動画で知るようになったのですが、どの曲も本当に素晴らしいです。中でも特に好きなのは、「ありがとう…」「調和」「人間ってそんなものね」です。
1曲目の「ありがとう…」一番の有名曲のようです。この曲を聴いて衝撃だったのは、か弱さ・繊細さを感じさせるという方向での歌唱力の高さを感じたことです。歌唱力のある実力派の歌手だと声量が大きく、声も太めで「これでもかっ」という感じで歌うイメージをもっていたのですが、この曲では平原に生える細長い植物のような、人の心の機微を感じさせる声を聴くことができます。「ありがとう…」の「う…」の最後の消え入るような部分などうわーって感じになりました。しんみりとした曲調によく合っています。
3曲目の「調和」は、神秘的という言葉がぴったりな曲です。人間と自然の共存をテーマにしたもので、全体的に密林の最奥のような空間を感じさせます。後半はアナグラムのような歌詞となっており、自然の鼓動がどんどん迫ってくる感覚を得ます。ここでは声を震わせて、1曲目のようなか弱さ・繊細さとは違った表現がされていて、歌い方を曲にあわせる幅の広さに圧倒されました。ライブ映像では特に圧倒的なパフォーマンスを見ることができます。
9曲目の「人間ってそんなものね」は歌詞が琴線に触れます。特に好きなフレーズを引用してみましょう。歌詞全部はこちら(goo音楽)を参照してください。
「迷惑をかけるのはイヤだなんて一人で歩いて来たつもりなの?」
「人間って…助け合って 肩貸し合って 少し進んでは立ち止まって…」
「…人間ってそんなものね」
日本では他人に迷惑をかけることが特に忌避されているように見えます。迷惑をかけず一人で十分に生きていると、自分が成功しているという感覚を得るのではないでしょうか。しかしそんなことは現実にはできない、あるいは気がついていないことがほとんどです。「迷惑をかけないべき」が強すぎて無理をしているとき、一人でできないことを受け入れていいよ、と諭されるとホロっときます。そして、助けてくれた人に対して贈るべき言葉は「すみません」ではなく「ありがとう」なのです。ここで「ありがとう」という気持ちが言えなかった心残りを歌う1曲目の「ありがとう…」に戻ると感動も高まるのではないかと思います。
ということで、まずは「調和」と「人間ってそんなものね」が収録されている「trip trip」というアルバムを入手しようかなと考えています。もっと広く知れ渡るようになり、カラオケでガイドボーカルがつくくらいになって欲しいです。同時に宣伝効果が果たされたとして動画が削除されるようになるかもしれませんが。
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