順風ESSAYS

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「敵」を大きくしない

2010年06月14日 | essay
属性と自分自身のギャップ

国籍・性別・出身地・出身校・職業・年齢・兄弟関係・血液型…人は様々な属性を持っている。これらの属性には「女性だからこういう仕事が向いてそう」「この地域の人はああいう性格だろう」と言うように、それぞれ通用しているイメージがある。そして、初対面の人間関係では個人としてではなく属性のイメージの重ね合わせで視線を向けられることが多い。人は見た目が九割と言うように、この段階で人物評価の方向性が決定づけられ、これを覆すためには大きな努力が必要である。

もっとも、多くの人にとってお得意の空気を読むスキルを内面にまで発揮して、属性のイメージ通りの自己評価を持っているならば、生きていく上で苦労は少ない。しかし、多かれ少なかれ人には個性があり、属性とは違った一面を有している。そして、生育過程であまり他の人に共有されていない環境を得て異なる価値観を有している人や、自己確立を強く意識している人にとっては、イメージを覆すための表現・説得を行ってそれを受け入れてもらわなければ、満足のいく社会生活を送ることが難しくなる。


受け入れてもらうことの難しさ

しかし、イメージを覆すための努力・表現・説得は容易にはいかない。効率性という問題がまず立ちはだかる。評価する側にとっては、一人一人きちんと吟味する時間と労力を割く余裕がない。効率性を確保するため、まず書類だけで絞りをかけることがよく行われる。ここでマイナスイメージの属性を持っている人は、個人として説得する機会自体を大きく失うことになる。横並びの傾向が強い社会で敢えて違う人材を求めるといった動きもあまりないため、機会を得る段階で何度も跳ね返されることになる。表現する側にとっても、社会生活で出会う人は無数であり、そのたびに自分を認めてもらおうとすると立ち行かなくなる。

また、評価する側の意識としても、自身の周辺のことは常識であると思い込みやすく、属性のイメージが社会常識として確立していると確信をもって当たる場合も多い。差別の結果としての統計的傾向を、社会的な差別ではなく生得的・本質的な問題であるという根拠として把握している人も非常に多い。統計的差別は無意識に行われ、データを参照している点からむしろ自信をもって行われることすらある。「血液型占いは周りの友達見ても合ってるから信用できる」という言説がこの典型だ。外国にルーツのある知り合いは、就職差別でまともな仕事につきにくいのが大元の原因なのに、まともな仕事をしない人たちという烙印を押されることが我慢ならないと言っていた。


それでも相手は「社会」ではなく「個人」

この時点では、相手はあたかも社会を体現しているように振る舞い、自分も社会的なレッテルで評価されるため、自分が漠然と広い「社会」と対峙しているような感覚に襲われることになりがちである。あまりに不遇な体験を積みすぎると、漠然と社会を恨み、突飛な逸脱や犯罪に向かう危険も出てくる。しかし、ここで注意すべきことは、あくまで自分が対峙しているのは相手という個人であり、その個人として社会を体現したつもりの人が結構な数存在しているにとどまる、ということである。鋭敏な感覚・洞察力をもって応じてくれたり、メンタリティが似ていてすぐ共感が得られる人に出会ったりすることも少なからずあることである。これを意識しておけば、絶望に陥ることも少なくなるだろうし、個人として接しようとする態度により相手から受け入れられるチャンスを増やすことであろう。

このように思えるようになるためには、実際の個別具体的な人間関係で、深い信頼関係がある・理解し合えているという感覚をもつことが必須であるだろう。相手を枠にはめた情報の集積のようには扱わず、一人の個人として接することである。経験から学ぶ人は恋人や親友の存在が不可欠であろう。思索から学ぶ人は観察や黙想の結果として思い至り、それなりの実感を持てる体験をすることが求められる。私の場合は、大学の教養課程のときキャンパスの食堂で何時間も何時間もお喋りをしていたことが特に大きいと感じている。大学の講義やニュース・自分の周辺のことを話しに話して、このときの話し相手の方々とは長らく会ってなくても再会の際、自分の価値観が理解されているという感覚をもつ。

真の敵は意外と少ないものである。味方になるべき者も大雑把に敵としてくくらないように心がけよう。


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