長崎県民には大変有名な曲である。なぜならば過去何十年の長きにわたって、地元テレビの天気予報のBGMに使われ続けているからだ。(私は一回も観たことがないのだが…。)
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逆に、県外ではまず演奏されない曲だと思われる。
私にとって故・團氏は様々なことを教えてくれた存在なので、あえて團先生と呼ばせていただくが、團先生のいわば「ご当地もの」は九州にはいくつもある。それは團家のルーツが福岡と長崎にあるからにほかならないのだが、合唱組曲「筑紫讃歌」、合唱組曲「北九州」、いずれも残念ながらさほど面白い曲ではない。交響詩「ながさき」は悪くないけれど、原爆を扱うのでとても「暗い」ところがあり、躊躇するところだ。合唱組曲「筑後川」は本当に例外なのである。
北九州市では、多分「もったいない」から、毎年のように合唱組曲「北九州」を歌う催しがある。だから、演奏頻度はまあまあある訳だ。一方「筑紫讃歌」は福岡市で10年に1,2度やる程度、合唱団はその度に「フレッシュ」な頭で歌うことになる。だから、合唱をやる人にさえ浸透しているとは言い難い。
それに引きかえ、「西海讃歌」は全く違う存在なのである。地元にしっかり根付いている。
長崎市出身で現在東京在住の私の友人から、ある時言われた。「西海讃歌のCD、手にはいらないかな?」
「西海讃歌」は佐世保市民に捧げられている。長崎県の中では東京と大阪くらい文化が違う街である。だから長崎市で西海讃歌をまともに歌うことはほぼない。
それでも「無性に聴きたくなった」とのこと。外国に行った日本人がソーラン節や炭坑節を聞きたくなる心境の相似形と言えよう。長崎県ではことほど左様に普及している。これは他の「ご当地もの」ではあり得ないと思う。
これは無論、ひとえに例の天気予報の力が大きい。
このBGM演奏は多分、作曲者自身の指揮による読売日本交響楽団のものと思われる。そして恐らく、この曲の演奏は、世の中にこの読響のものと佐世保市民管弦楽団のものしかない。
だから当然のように読響の演奏がオーセンティックなものにならざるを得ない。私もそれに充分敬意を表するものだが、現代の感覚からすると、少々重たいのではないか、と思うのだ。
クラシック音楽に多少詳しければ周知の事実で、自作自演必ずしも名演ではない。(井財野作品は他人が弾くことを想定していないけれど。弾きたい方はおっしゃって下さい。歓迎します。) 團先生の演奏が名演ではないと表現すると語弊があるが、他の美しさを引き出す余地は充分あると思う。
そのような思いもあって、昨年、この曲の指揮をする機会を得た時、思い切ってテンポを上げてみた。私とすれば、「夕鶴」「シルクロード」等、團作品のあちらこちらからヒントを得、熟慮を重ねた結果のテンポ設定だったのだが、オケの皆さんに沁み込んでいるテンポを変えるのは容易ではなかった。
しかし今年、また振る機会を得て、先日練習したのだが、今度は皆さん、私の解釈をよく覚えていて下さって、見事にリフレッシュした演奏になったのは嬉しかった。
リフレッシュと表現したがリボルン、再び生まれたと表現しても良い独特の雰囲気を感じられたのも感動的だった。今、まさに音楽が息づいていることを実感する瞬間である。
象徴的なのは、守衛さんのような事務員のおじさんが練習会場には常駐されているのだが、この西海讃歌が始まると必ず聴きにみえるのだ。バルトークをやるとハンガリーの人が、シベリウスをやるとフィンランドの人が、それぞれ血が騒ぐというが、西海讃歌をやると佐世保の人は黙っていられない、という雰囲気が出ていた。
ここまで音楽が根付いている、息づいているということ、事務員のおじさんまで含めて、音楽を通して空気が一つになっていること、日本のクラシック系の作品ではなかなかないことだ。非常に幸せなことである。
来る9月19日、今度は会場/佐世保市民会館の聴衆の皆さんと一体になるはずである。新たに生まれ変わる西海讃歌に向けて、最後の奮闘をがんばりたい。
追記 : 本番の様子です。