数年前から文科省が言い出して、全ての授業にその視点を求められている。
先生の話なり指示を聞いて行動する受け身の授業ではなく、授業を受ける側が主体性をもって自主的に行動するもの、というような説明だった。
音楽なんて自主性がなければ何もできないから、全てがアクティブ・ラーニング、と思っていたのだが、どうもそれだけでは済まないものがあることが報道されていた。
「授業をしない先生」が紹介されていた。班分けして、班内では生徒が生徒に教えているのを先生は監督しているという構図だ。
言ってみれば メダカの学校「誰が生徒か先生か」
いわゆる知識は、昨今 スマホで検索すれば済む。それよりも思考力を育成しなければならない。
自分で考えた結論ならば感動を伴うから、多少時間がかかっても忘れず、生きた定着する。
それだけ聞けば至極ごもっとも、実に正しい意見である。
しかし、ここで似たようなことが昔もあったのを思い出す。
「ゆとり教育」である。
あの時も、ゆとりがあるから考える子供が育つと言われたのだ。
それと どう違うのだろうか。
アクティブ・ラーニングは否定しない。が、メダカの学校はいただけない。思考力の伸ばし方は、もっといろいろあると思う。
先生の話なり指示を聞いて行動する受け身の授業ではなく、授業を受ける側が主体性をもって自主的に行動するもの、というような説明だった。
音楽なんて自主性がなければ何もできないから、全てがアクティブ・ラーニング、と思っていたのだが、どうもそれだけでは済まないものがあることが報道されていた。
「授業をしない先生」が紹介されていた。班分けして、班内では生徒が生徒に教えているのを先生は監督しているという構図だ。
言ってみれば メダカの学校「誰が生徒か先生か」
いわゆる知識は、昨今 スマホで検索すれば済む。それよりも思考力を育成しなければならない。
自分で考えた結論ならば感動を伴うから、多少時間がかかっても忘れず、生きた定着する。
それだけ聞けば至極ごもっとも、実に正しい意見である。
しかし、ここで似たようなことが昔もあったのを思い出す。
「ゆとり教育」である。
あの時も、ゆとりがあるから考える子供が育つと言われたのだ。
それと どう違うのだろうか。
アクティブ・ラーニングは否定しない。が、メダカの学校はいただけない。思考力の伸ばし方は、もっといろいろあると思う。
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