大学の教養科目なんて、大体は単位のために出席するのであって、それが有用かどうかなんて普通は考えないものだ(と思う)。しかし、後からジワっと「効いて」くる科目もある。これこそが有用な教養科目だろう。
大学時代に「音響学」という教養科目(当時は「一般教育科目」と呼んでいた)を履修した。なかなか難しい科目で有名で、でも「いつか役に立ちそうだ」と誰もが思った科目で、大勢の人が履修し、結構な人が脱落していったような記憶がある。
とにかく毎回違う「音響」が出てくるのだ。世の中にこんなに違う「音響」があるのかね!と驚いている間に先に進んでしまうから、ちっとも覚えきれずに、先に進んでしまったような気がする。
が、割と最初の方で取り上げた「建築音響」、これは面白かったし、今でも大変役に立っている。(これが嵩じて「音響生理学」は無論、楽理科の科目である「音楽音響学」まで履修してしまったのだから、覚えられなくても好きだったのだろう。)
教養科目で得た知識なんて、たかが知れている。たかの知れていることくらい皆知っているだろう・・・と思うのだが、実際は違う。それどころか、音響学的知識は全くないまま現場で仕事をし、関心さえ持たない人も多い。
でも、知らないことで損をしていることもあるのだ。それでさえ「当人の努力不足だろう」とみなされておしまいになっていることも多々ある。
仕方ないから、自分が教える学生には、その一部を伝授するのだが、専門から随分と距離のある分野なので、正直なところおこがましさを感じてしまう。でも、本当に物理学者でも「音響学」となると尻込みされてしまうことも多く、仕方なしに「なんちゃって音響学者」の私がしゃしゃり出るはめになる。
それで、やっと本題。
某コンクールで、ヴァイオリンの立ち位置の目安を決めることになった。
「立ち位置で聞こえ方が全く変わってくる」くらいのことは、ヴァイオリンを弾く人間は経験的に知っている。
しかし、ホールが響くところであれば、どこで弾いても致命的なダメージは無い。
そして、そのコンクール会場の残響は長めだった。なので、並み居る審査員、立ち位置にはほとんど関心を示さなかったし、しかも課題曲が無伴奏だったので、かくいう私も、それほど強い関心はなかった。立ち位置の目安なんて必要かな?と私も思ったのだ。
だけど主催者がせっかくそのような意向を示すので、それならばと、持ち前の「なんちゃって音響学者」の知識を総動員して、立ち位置の目安決めに協力した。
アリーナ型の会場で、言ってみればサントリーホールをそのまま小型化した感じで、緞帳や反響板が無い。どこで弾いても良さそうなものだが、よく見ると、上手と下手の出入り口の部分が少し舞台に張り出し、木の柱のような部分がその横にある。その柱のような部分が一番中央にせり出した形になっているので、そこを結んだ線から奥にいくと舞台上の残響を利用でき、そこより客席側に行くと、よりはっきりした音像になりそうだ、と予測したのである。
ちなみに、そのホールの音響設計は、確かサントリーホールや津田、カザルスなどと同じ方だったと記憶している。
それで、その線上に印をつけさせてもらった。舞台のほぼ中央になってしまった。正直言って普通そこに立って演奏はしないだろうな、という位置である。我ながら「ここで良いのか?」と思わないではなかったのだが、主催者側の「別にそこに立たなくても構いませんから」の言葉に意を強くして、本番に臨んだ私であった。
案の定、8割ほどの出場者からは無視され、いわゆる客席に近い場所で演奏は行われた。
しかし、忠実に印の上に立った少数派は、聞いてびっくり。えも言われぬ馥郁たる香りのような響きにつつまれたヴァイオリンの音がするではないか!
これこれ、こうでなくては、と我が意を得たりの井財野であった。
ただし、これは審査とは結びついていない。
そこに立った人の評価が必ずしも高かった訳ではないし、立たなくても評価の高い人は大勢いた。(だからこそ提供する話題である。)
私は、この残響に包まれた音が大好きだが、みんながこれを好きな訳ではない、ようだ。
はっきりしないのが嫌いという向きもある。でも、それははっきり弾かないのが主たる原因で、ホールのせいにしてはいけないなぁ、と思う。残響たっぷりの中で、ハッキリ弾く、これが王道、と私は思っている。
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