井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

合唱とオーケストラの指揮

2011-09-12 22:15:58 | オーケストラ

子供の頃、岡本仁という指揮者が「オーケストラと合唱をやると、合唱がどうしても遅れて出てきて困るんだ。特に東京カテドラルみたいに響くと、もう大変」みたいなことを、盛んにおっしゃっていて、ふーんそうなのか、と思っていた。

それ以降、類似の現象は多々経験し、まぁそんなもんだ、と思ってとりかかるしかないな、と割り切ると、大して大変でもなくなった。

遅れるパートがあるならば、そのパートに早く合図を出すだけで遅れなくなる。当たり前田のマーシャ・クラッカワー。

ここで気になるのは、早く合図を出すと、正しく演奏しているパートも必要以上に早く飛びだしてしまうのではないか、ということ。

この心配は杞憂に終わる。

なぜならば、遅れるパートは、指揮者から遠い場所にあるパートであるからだ。近い場所にあるパート、つまり弦楽器は、指揮者をあまり見ていない。なので、意表をついて早めの合図などがあっても、幸か不幸か対応しないのである。

それで、パートの「入り」は解決できる。で、その後、淡々と進む弦楽器に照準を合わせて振っていくと、またもや遠くのパートは遅れはじめる。早めの合図で「正常に」出たパートに対しては、あくまでも早め早めに振り続けないとダメだったりする。

ではどうするのか?

向こうのパートとこちらのパート、二つのテンポを同時に振る、なんてことはできないので、拍がわからないようにグルグル手を回す。するとどうだ、ぴったり合ってくるではないか!

かくしてオーケストラも合唱も平和だが、不安なのは指揮者である。こんなんでええの?誰でもできるやん?

でも、大抵は、これでいいのだ、これでいいのだ、ボンボンバカボン・・・。

今度指揮する合唱団は、いくつかの合唱団の合同だが、年齢層がかなり高い。反応もかなりゆっくりだ。そのせいかどうか定かではないが、指揮棒を使うと歌えなくなり、素手で振ると歌えるようになる。

また、拍をはっきり出して振ると遅くなり、出さなくなるとちょうど良いテンポになる。だから、合唱団だけだと、拍を出さない振り方の方が断然良くなる。

この振り方でオーケストラは大丈夫なのか、少々不安はある。

でも、オケ側も「拍を出さない」振り方の方が、うまくいく時が結構ある。以前にも書いたが、ロシアのオーケストラは、拍を出すと音が濁るのだそうだ。

かくして、合図はしても拍を出さない一見風変りな振り方が誕生する。あとは念力。これしかないだろう。


團伊玖磨 : 交響詩「西海讃歌」

2011-09-06 22:10:51 | オーケストラ

長崎県民には大変有名な曲である。なぜならば過去何十年の長きにわたって、地元テレビの天気予報のBGMに使われ続けているからだ。(私は一回も観たことがないのだが…。)

</object>

逆に、県外ではまず演奏されない曲だと思われる。

私にとって故・團氏は様々なことを教えてくれた存在なので、あえて團先生と呼ばせていただくが、團先生のいわば「ご当地もの」は九州にはいくつもある。それは團家のルーツが福岡と長崎にあるからにほかならないのだが、合唱組曲「筑紫讃歌」、合唱組曲「北九州」、いずれも残念ながらさほど面白い曲ではない。交響詩「ながさき」は悪くないけれど、原爆を扱うのでとても「暗い」ところがあり、躊躇するところだ。合唱組曲「筑後川」は本当に例外なのである。

北九州市では、多分「もったいない」から、毎年のように合唱組曲「北九州」を歌う催しがある。だから、演奏頻度はまあまあある訳だ。一方「筑紫讃歌」は福岡市で10年に1,2度やる程度、合唱団はその度に「フレッシュ」な頭で歌うことになる。だから、合唱をやる人にさえ浸透しているとは言い難い。

それに引きかえ、「西海讃歌」は全く違う存在なのである。地元にしっかり根付いている。

長崎市出身で現在東京在住の私の友人から、ある時言われた。「西海讃歌のCD、手にはいらないかな?」

「西海讃歌」は佐世保市民に捧げられている。長崎県の中では東京と大阪くらい文化が違う街である。だから長崎市で西海讃歌をまともに歌うことはほぼない。

それでも「無性に聴きたくなった」とのこと。外国に行った日本人がソーラン節や炭坑節を聞きたくなる心境の相似形と言えよう。長崎県ではことほど左様に普及している。これは他の「ご当地もの」ではあり得ないと思う。

これは無論、ひとえに例の天気予報の力が大きい。

このBGM演奏は多分、作曲者自身の指揮による読売日本交響楽団のものと思われる。そして恐らく、この曲の演奏は、世の中にこの読響のものと佐世保市民管弦楽団のものしかない。

だから当然のように読響の演奏がオーセンティックなものにならざるを得ない。私もそれに充分敬意を表するものだが、現代の感覚からすると、少々重たいのではないか、と思うのだ。

クラシック音楽に多少詳しければ周知の事実で、自作自演必ずしも名演ではない。(井財野作品は他人が弾くことを想定していないけれど。弾きたい方はおっしゃって下さい。歓迎します。) 團先生の演奏が名演ではないと表現すると語弊があるが、他の美しさを引き出す余地は充分あると思う。

そのような思いもあって、昨年、この曲の指揮をする機会を得た時、思い切ってテンポを上げてみた。私とすれば、「夕鶴」「シルクロード」等、團作品のあちらこちらからヒントを得、熟慮を重ねた結果のテンポ設定だったのだが、オケの皆さんに沁み込んでいるテンポを変えるのは容易ではなかった。

しかし今年、また振る機会を得て、先日練習したのだが、今度は皆さん、私の解釈をよく覚えていて下さって、見事にリフレッシュした演奏になったのは嬉しかった。

リフレッシュと表現したがリボルン、再び生まれたと表現しても良い独特の雰囲気を感じられたのも感動的だった。今、まさに音楽が息づいていることを実感する瞬間である。

象徴的なのは、守衛さんのような事務員のおじさんが練習会場には常駐されているのだが、この西海讃歌が始まると必ず聴きにみえるのだ。バルトークをやるとハンガリーの人が、シベリウスをやるとフィンランドの人が、それぞれ血が騒ぐというが、西海讃歌をやると佐世保の人は黙っていられない、という雰囲気が出ていた。

ここまで音楽が根付いている、息づいているということ、事務員のおじさんまで含めて、音楽を通して空気が一つになっていること、日本のクラシック系の作品ではなかなかないことだ。非常に幸せなことである。

来る9月19日、今度は会場/佐世保市民会館の聴衆の皆さんと一体になるはずである。新たに生まれ変わる西海讃歌に向けて、最後の奮闘をがんばりたい。

追記 : 本番の様子です。


ザ・ビートルズ・コンプリート・スコア

2011-09-02 21:48:46 | 音楽

THE BEATLES COMPLETE SCORES
こんなものが輸入楽譜店のカタログに載るご時世。違うページにはベーレンライターやヘンレの原典版,批判校訂版などの広告が並んでいるものだから,ついつい期待してしまう。ビートルズの楽譜も,ついにオリジナル楽譜に基づく何とか版が出たか,などと自然に思ってしまった。

まあ,そうでなくても資料にはなるだろう,と思って注文していたのが随分前(忘れたくらい前)。
そして忘れた頃,届いた。

白い箱入りの豪華装丁である。Hal Leonard社の出版で1136ページ,厚さ5.5センチ。いやぁ,期待しちゃうな・・・。

早速,「ヘイ・ジュード」を見る。この曲は小学校の謝恩会で演奏した思い出の曲。
私が楽譜を作る係だったのだけれど,相談した音楽専科の沢崎タケミ先生,しっかりその楽譜をお持ちで,サビからテーマに戻るところの6連符に驚いた記憶,それは鮮明に残っている。

で,その箇所を探すと・・・6連符が「無い」。他にもフラットが抜けるというミスプリあり。

次に「レディ・マドンナ」。中学校の時,これだけ得意げに弾く男がいた。一緒にヴァイオリンで演奏したこともあるけれど,そいつのお陰で,この曲のピアノパートはやけに詳しくなった。当時出ていた楽譜でも数種類あったし,スタジオ録音とライブではこう違う,なんてことも聞きかじっていた。

さて,そこは・・・
スタジオでもライブでもない,あり得ない和音が書いてあった。信じられない!

少なくともこの楽譜,原典資料による,などということは全くないことだけは判明した。

一体だれが採譜したのかなぁ。

扉を見ると,書いてあった。
Transcription by Tetsuya Fujita, Yuji Hagino, Hajime Kubo and Goro Sato

は?日本人?パリのアメリカ人じゃなくて,ニューヨークの日本人?

さらによく見ると,
This book Copyright 1989 Shinko Music Publishing Co.,Ltd.
なんて書いてある。

なんだシンコー・ミュージックのお下がりか!(お上がり,かもしれないけれど)

ここで考えたこと。

1. 日本人の芸の細やかさはアメリカ人には真似できない。ビートルズを全曲コピーなんて,誰もしようとは思わないから何て日本人は素晴らしいのだ,という可能性。

2. 一から作るならアメリカでは高くついて採算とれないけれど,日本のあれを買っちゃえば,リーズナブルな価格(85ドル)で販売できるじゃないか,と考えた人がいた。

3. シンコー・ミュージックから売り込んだ,かもしれない。

どれでも良いけれど,耳コピーの質が落ちているのが許せない。楽譜出版社も質を上げていくならまだしも,質を下げた楽譜を新譜で売り出すとは何事か!

我々が学生時代は,この「採譜」のアルバイトを楽理科の先輩達がやっていたと聞いたことがある。聴音の試験の点数がそう悪い訳でもないけれど,格別良い訳でもない,ということを示唆している。

それで時々ミスがある訳ね,とその頃思っていた。

上記の1989年はバブル期,粗製濫造の疑いもある。少なくとも,その前の「時々ミス」状態が,「常にどこかがミス」状態に成り下がっていたことになる。

そんなの気にしないバンド少年少女達に売るのだから,別に大したことないよ,と言うなかれ。

現在ジャズは芸術音楽になっている。と言えば聞こえは良いが,アメリカでも鑑賞響室を開かなければ聞かないくらい地位が低下したということだ。でも芸術として生き残っているのである。

次にはロックの時代が来て,まともにやっていたロックは芸術として生き延びるだろう。でも楽譜の状態をこの質のままにしておいては,衰退しかしない,と私は見ている。

楽譜が正統を伝えて,それをもとに即興した時,初めてミューズの神は微笑むのだと思う。ロックもジャズもクラシックもそうでなければ人類の発展はない。それは確信している。

よって,この楽譜で出版社はこの程度に満足せず,ぜひとも原典版「ビートルズ」を発行してほしいものだ。