都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
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現代仏教論 第一章

2013-01-29 10:46:23 | 読書
署名:現代仏教論 著者:末木文美士 発行形態:新潮新書 発売日:2012/08/17

目次
第一章 震災から仏教を考える
1.震災を考える
2.震災をめぐる論争
経緯/発端/ネット論争/高橋哲哉氏に応える
3.震災をめぐる思索
I.震災からアジアの仏教を考える
震災に対する仏教者の対応/テーラワーダ仏教の場合/チベット仏教の場合/日本仏教の場合
II.日本人の災害観
被災地を離れたところから/東日本大震災の特殊性と自然観の類型/日本人の災害観
III.脱魔術化と再魔術化――日蓮の災害論をどう受け止めるか
脱魔術化の立場/再魔術化という視点
IV.震災から日本の仏教を考える
東日本大震災と日本の仏教/脱魔術化と再魔術化/日本仏教はなぜ総合的理論を失ったのか/世界観を再構築できるか

抜粋:
第一章は震災に関する論考である。
P17発端という見出し
「天罰という見方は、必ずしも不適当とは言えない。もちろん被災者の方が悪いのではない。今日の日本全体、あるいは世界全体が、どこか間違っていたのではないか。経済だけを優先し、科学技術の発展を謳歌してきた人間の傲慢が、環境の破壊や社会のゆがみを招き、そのひずみが強者にではなく、弱者に一層厳しい形で襲いかかってきたと見るべきではないか。
日蓮の『立正安国論』では、国が誤れば、神仏に見捨てられ、大きな災害を招くと言っている。その予言を馬鹿げたことと見るべきではない。大災害は人間の世界を越えたもっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければいけない。だから、それは被災地だけの問題ではなく、日本全体が責任をもたなければならないことだ」

ネット論争という見出し
P20「・・・僕のほうが、震災は純粋な自然現象と言えないのではないか、と主張したのに対して、批判者の主張は、震災は純粋な自然現象だ、というところにあった。」
P22「・・・今回の大地震の場合でも、それを人命や生活上の被害と無関係に、それがどうして起こったか研究する場合には、純然たる自然現象としてみることになります。もっとも、その場合も、科学的営為という人間の行為が関わってきますので、その点では、純然たる自然現象とはいえません。本当に純然たる自然現象というのは、誰も知らないところで起こった、人間の認知とも全く関係のない場合、ということになりますが、それは知らないのであるから、問題にしようがありません。」
p22「地震の被害は、かならずしも純然たる自然現象だけではありません。地震が起こり、津波が襲うところに人が家を作り、産業を興し、生活していることによって、はじめて被害が起こるのです。人がどのようなものを作り、そのくらいの数の人が生活し、どんな文明をもっているかで、その被害も違ってきます。・・・・。
地震や津波の被害は、そのときだけでは済みません。命が助かればよいと言うものはなく、ずっと後まで生活が破壊され、精神的に苦しむ場合もあります。それまで含めて考えるべきでしょう。その時、それまでも自然現象と言えるかというと、疑問です。それは切り離して考えるべきだ、と言うかもしれませんが、すべてが一連である以上、切り離すことは無理です。・・・。」

p24~25「いま目の前にあなたがいるととします。あなたは、確かにある意味では、自然物質です。細胞からできているし、そのもとは原子、さらに素粒子に分解できるでしょう。そうであれば、僕が真向っているのは、純然たる自然現象ととも言えます。でも、だからと言って、あなたは自然現象にすぎない、とは誰も思わないでしょう。・・あなたはあなたであって、純然たる自然現象とは違います。
・・・、
それでもあなたに対して、ものに対するのと違う対応をするのはなぜでしょうか。それは僕は他者との関係の持ち方の違いと考えます。ものに対するのと、あなたに対するのでは、異なる関係を結ぶということです。仏教的な言い方をすれば、どういう縁起的な関係にあるか、と言ってもよいでしょう。ここで大事なのは、別にあなたの奥に「心」という不変な実態があって、それが人間とそれ以外のものを分けているわけではないということです。その点、仏教の無実態、無我の立場は正しいと思います。
ですから、その意味では、人間だけが区別されなければならない必然性はありません。手じかな例でいえば、もしかしたらペットとの関係の方が、人間との関係より緊密な場合もあるでしょう。・・・。
自然もまた、同様ではないかと思います。それを自分とは関係ないものだとして拒否すれば、それは純然たる自然現象ということになります。でも、そうではなく、自然も同じ仲間と考えれば、別の対応が出てきます。」

p26「「かみ」というのは何か実体的にあるものではありません。自然の不思議さ、人知を超えた畏敬するべきあり方を言います。自然の「心」といってもよいと思います。・・・「神」はすべて善神であり、人間に対してよいことしかしない、というような考え方は、かえって自然を人間の枠の中に取り込んでしますことで、おかしいことです。自然は人知を超えた他者です。・・・。

p26「・・・自然を人間の営みと切り離して純粋自然現象とみる見方に対して、少なくとも、「天罰」という言い方は、人間の営みと関係させ、それを反省させる意味を持つと考えたからです。」

乾燥している時期に感想を述べます。
P20で引用した「地震は自然現象か、自然現象でないかという論争」で、著者:末木氏は「自然現象ではない」という主張です。
私は論争について、この本以外の情報は知らないが次のように考えます。
自然現象とは、人が自然現象と認識できる環境変化であると考えます。いかなる人、どんな人といえども認識できない環境変化を人は自然現象と認識することはできません。認識できない環境変化は一切起きていないということではなく、認識不可能な自然現象は常時起きています。
たとえば地震計で認識された地震だけを地震というわけではありません。地震計で計測できない地震も常に発生しているはずです。また、人によっては聞こえない周波数からなる音もあります。この周波数帯が聞こえないからといって音が出ていないということはできません。たとえば、若い時には高い周波数の音も聞こえるが、加齢に伴い認識できる:聞こえる周波数帯は低くなり、高い周波数の音は聞こえにくくなります。ここで考えてみましょう。地震は起きているが、道を歩いていたりすると体では感じることはできない場合もあります。また、高い周波数の音は音としては出ているが、認識できない、聞こえない音として出ている場合もあります。
地震は自然現象か、そうでないか、という議論は能動と受動の関係、「教える」と「まなぶ」の関係のように思います。地震はどのように定義されるのかはわかりませんが、環境や社会的に影響のある地震をどのように受け止めるか、あるいはどのように解釈するか、ということがスタートであるように思います。


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