◆4月7日
通読で民数記を読んでるが、最近は忙しくてパーッと読み流してしまってる。でもふと(教会で喧々囂々の討議してるのって、ほぼこういう施行細則の部分ばかりよね……)と思った(その割に教会員の多くは民数記なんて読んでなさげ)。まぁそれはともかく、何によって生かされるか、という重要なことをもっと話し合うべきなのに、そういうことは牧師などを崇め奉って(偶像崇拝して)、「先生が仰ったことだから……!」で思考停止してる感あり。
↓ ↓ ↓
この「牧師などを」に躓いた方がいたかもしれないが、これは「牧師なんぞを」の意味でなく、実は「牧師とか私とかを…」の含みで書いたのだ(本当に偶像崇拝されてる感あるんだ……)。
◆4月13日
今度の日曜は教会総会である。出席できた場合は、長老候補から外してもらうために、一同の前でのガチの障害者アピールの出番だが……気を抜いてるわけではないけど、神の国と神の義を第一にしてれば、弁明の言は与えられるという信仰が芽生えてきてる(マタイ6章33節)。これは私には大きな進歩。
でもそうは言っても、毎回緊張はするんだけどさ……けれど、健康そうに見える中年・壮年層には、是が非でも役員を押し付けようとする今の教会員の風潮が変わらなければ、正直言って教会に友達を連れてきたいとは思えない(精神の方は、断るのが本当に苦手な人が多いから)。
◆4月17日
昨日の総会では、長老の被選挙人名簿に私の名前は無し。2年間の礼拝出席日数が5割切ってるとそうなるのだ。2021年度が特に欠席多かったからな。だから昨日は結局「障害者アピール」せずに済んだ。(土)に長老候補辞退の弁を全く考えぬわけでもなかった。【今でも相当の時間を教会のために割いている。もし長老になったら作業所も辞めないととても務めをこなせない。そうなると、社会との接点は病院と教会しかなくなる。それは避けたい】というのが大要。杞憂で済んで良かったが、他の方が長老辞退の弁をしてもなお選任されてしまったの見ると「他の責任あるから」では逃れられぬのかとつくづく。私の弁明のもっと不穏な案として「選ばれたら入院します」とか、もっと情緒不安定になってたら「殺す気か?」とか口走っちゃうんではと危惧してた。少し前に通読で読んでた民数記で実は何気に励まされていた。
* * *
<新改訳第三版 民数記11章14〜17節>
私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。
↓ ↓ ↓
まぁ、教会員に対して「殺す気か?」はよっぽどのことが無きゃ言っちゃ駄目だと思うけど、神様に対してはここまで率直に自分の気持ちを述べていいんだな、と。そして、神様はそのひん曲がった訴えの底の真意を見抜いて、良きお取り計らいをしてくださるんだな、と思った。
◆4月20日(4月17日の黙想の延長)
矢野顕子さんのThe Girl of Integrityが聴きたくて(日)か(月)にクローゼットから『峠のわが家』のCDを出してきた。教会総会である方が牧師先生への謝儀を増額するよう訴えていたため。先生のご労苦に感謝を表したいのは解るが、的外れな気が。それより、先生のご負担を共に担える同労者の方が有り難いのでは?
* * *
[The Girl of Integrity の歌詞]
金が欲しいわけじゃない ここまで来たのは
喜ぶ顔見たいだけ ほんとにそれだけ
でも 自由 ほんとに 自由 こんなに
(後略)
◆4月30日
午前中、昨年度の週報の仕分け・断捨離をしていた。今年度の伝道方針は、昨年度に引き続き「礼拝の喜びをもって、伝道、奉仕へ」。2022年5月1日の週報では「喜んで伝道できますように」が【今週の祈りの課題】に挙げられ、2022年10月2日の週報には「韮崎の地における伝道のために」が祈りの課題に。韮崎の教会なんだし、韮崎での伝道って当たり前やん!という感じだが、当時は私が『信徒の友』[日毎の糧]掲載教会にトラクトとFEBC番組表を送ってたのへのお礼状が教会宛てにじゃんじゃん届いてたので、この祈りの課題は(ウチでも伝道して!)という牧師先生の心の叫びが図らずも現れてたかな、と。でも思うのは、私が2020年の年度主題聖句・ホセア書10章12節「恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように」(新共同訳)に促されて、『信徒の友』掲載教会に封書を送り始めてからの経緯である。同封のポストカードは最初は一般的なのを用いてたが、宛先の教会の紹介文/祈りの課題を見て、手紙の文面を都度イチから書き起こすのは非常に骨が折れたし、買い足していったポストカードブックに、写真と聖句を合わせたカードもあったので、私もカード自作してみるか?という気になったのである。だから短期的に見れば、私は外面いいだけの人になっていたろうが、その後アドヴェント期間に韮崎教会で聖句ポストカードの販売もして、大変喜ばれた。まぁ自画自賛だが、コリントの信徒への手紙 二 9章6節の「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(新共同訳)という御言葉通りだったと思う。ヨハネの福音書4章35〜38節にも〈イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」〉[新改訳第三版]とあるし。まぁでも少数の人が苦労し、他の教会員は消費者よろしく口開けて待ってるって構図はもう勘弁してもらいたい。ほんと死んじゃう。
通読で民数記を読んでるが、最近は忙しくてパーッと読み流してしまってる。でもふと(教会で喧々囂々の討議してるのって、ほぼこういう施行細則の部分ばかりよね……)と思った(その割に教会員の多くは民数記なんて読んでなさげ)。まぁそれはともかく、何によって生かされるか、という重要なことをもっと話し合うべきなのに、そういうことは牧師などを崇め奉って(偶像崇拝して)、「先生が仰ったことだから……!」で思考停止してる感あり。
↓ ↓ ↓
この「牧師などを」に躓いた方がいたかもしれないが、これは「牧師なんぞを」の意味でなく、実は「牧師とか私とかを…」の含みで書いたのだ(本当に偶像崇拝されてる感あるんだ……)。
◆4月13日
今度の日曜は教会総会である。出席できた場合は、長老候補から外してもらうために、一同の前でのガチの障害者アピールの出番だが……気を抜いてるわけではないけど、神の国と神の義を第一にしてれば、弁明の言は与えられるという信仰が芽生えてきてる(マタイ6章33節)。これは私には大きな進歩。
でもそうは言っても、毎回緊張はするんだけどさ……けれど、健康そうに見える中年・壮年層には、是が非でも役員を押し付けようとする今の教会員の風潮が変わらなければ、正直言って教会に友達を連れてきたいとは思えない(精神の方は、断るのが本当に苦手な人が多いから)。
◆4月17日
昨日の総会では、長老の被選挙人名簿に私の名前は無し。2年間の礼拝出席日数が5割切ってるとそうなるのだ。2021年度が特に欠席多かったからな。だから昨日は結局「障害者アピール」せずに済んだ。(土)に長老候補辞退の弁を全く考えぬわけでもなかった。【今でも相当の時間を教会のために割いている。もし長老になったら作業所も辞めないととても務めをこなせない。そうなると、社会との接点は病院と教会しかなくなる。それは避けたい】というのが大要。杞憂で済んで良かったが、他の方が長老辞退の弁をしてもなお選任されてしまったの見ると「他の責任あるから」では逃れられぬのかとつくづく。私の弁明のもっと不穏な案として「選ばれたら入院します」とか、もっと情緒不安定になってたら「殺す気か?」とか口走っちゃうんではと危惧してた。少し前に通読で読んでた民数記で実は何気に励まされていた。
* * *
<新改訳第三版 民数記11章14〜17節>
私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。
↓ ↓ ↓
まぁ、教会員に対して「殺す気か?」はよっぽどのことが無きゃ言っちゃ駄目だと思うけど、神様に対してはここまで率直に自分の気持ちを述べていいんだな、と。そして、神様はそのひん曲がった訴えの底の真意を見抜いて、良きお取り計らいをしてくださるんだな、と思った。
◆4月20日(4月17日の黙想の延長)
矢野顕子さんのThe Girl of Integrityが聴きたくて(日)か(月)にクローゼットから『峠のわが家』のCDを出してきた。教会総会である方が牧師先生への謝儀を増額するよう訴えていたため。先生のご労苦に感謝を表したいのは解るが、的外れな気が。それより、先生のご負担を共に担える同労者の方が有り難いのでは?
* * *
[The Girl of Integrity の歌詞]
金が欲しいわけじゃない ここまで来たのは
喜ぶ顔見たいだけ ほんとにそれだけ
でも 自由 ほんとに 自由 こんなに
(後略)
◆4月30日
午前中、昨年度の週報の仕分け・断捨離をしていた。今年度の伝道方針は、昨年度に引き続き「礼拝の喜びをもって、伝道、奉仕へ」。2022年5月1日の週報では「喜んで伝道できますように」が【今週の祈りの課題】に挙げられ、2022年10月2日の週報には「韮崎の地における伝道のために」が祈りの課題に。韮崎の教会なんだし、韮崎での伝道って当たり前やん!という感じだが、当時は私が『信徒の友』[日毎の糧]掲載教会にトラクトとFEBC番組表を送ってたのへのお礼状が教会宛てにじゃんじゃん届いてたので、この祈りの課題は(ウチでも伝道して!)という牧師先生の心の叫びが図らずも現れてたかな、と。でも思うのは、私が2020年の年度主題聖句・ホセア書10章12節「恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように」(新共同訳)に促されて、『信徒の友』掲載教会に封書を送り始めてからの経緯である。同封のポストカードは最初は一般的なのを用いてたが、宛先の教会の紹介文/祈りの課題を見て、手紙の文面を都度イチから書き起こすのは非常に骨が折れたし、買い足していったポストカードブックに、写真と聖句を合わせたカードもあったので、私もカード自作してみるか?という気になったのである。だから短期的に見れば、私は外面いいだけの人になっていたろうが、その後アドヴェント期間に韮崎教会で聖句ポストカードの販売もして、大変喜ばれた。まぁ自画自賛だが、コリントの信徒への手紙 二 9章6節の「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(新共同訳)という御言葉通りだったと思う。ヨハネの福音書4章35〜38節にも〈イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」〉[新改訳第三版]とあるし。まぁでも少数の人が苦労し、他の教会員は消費者よろしく口開けて待ってるって構図はもう勘弁してもらいたい。ほんと死んじゃう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます