外人社長の頭の下げ方 2006/8
むかし『死刑台のエレベーター』という映画があった。懐かしい。ぼくが渋谷でサンドイッチマンのアルバイトをしているころだ。上京して一年目。監督はたしかルイ・マル。モノクロームの暗い雰囲気のフランス映画で、冷たくひやりとするような空気が妙に新しそうで、これは見なければ、と話していた。
路上の仕事仲間の先輩格にやはり映画好きのワダさんがいて、プラカードを手に路上ですれ違うたびに話題にしていた。いちばんの話題は、映画音楽にはじめてモダンジャズが使われているということで、大丈夫かな、と心配していた。
それまで映画音楽といえばクラシックの交響曲みたいなもので、各シーンを移り流れるドラマに合わせて音が作られ、それではじめて映画の一体感が生れる、と思われていた。
でもモダンジャズというのは一様なリズムではなくて、勝手にリズムが変って音が跳ねる。それを画面の動きとうまく合わせられるのか。
それが心配だった。ぼくらが心配してもしょうがないけど、映画が好きだから、見る前にどうしても想像する。その想像の中ではどうにもうまくいかずに、心配になるのだ。
まずその先輩格のワダさんが見に行った。封切り館だから高いが、この場合はもう決意する、見てきた感想は、いいという。モダンジャズも不思議に合っているという。でも見ないうちはどう合っているのかわからず、こちらも決意して見に行った。案の定、何かひやりとする冷蔵庫みたいな映画で、格好よかった。ストーリーはよくわからなかったけど、何かそのわからない感じと、画面と直接は関係なく響くモダンジャズとが、妙に空気を深くする。違和感はない。いや音がコマ割りに関係ないから違和することはたしかだけど、そのズレみたいなものの中に何かが生れて、なるほど、こういうことになるのかと感心した。いまとなってはどんな音楽でも映像に合うといえば合うもので、いちばん象徴的なのは武満徹の映画音楽だ。ギン、ゴンガン……、というような脈絡のない音の連なりが、画面の緊張を不思議に高めたりする。後に自分でビデオ映画を作ってみたとき、既製の音楽をいろいろ当ててみると、どんなものでも映像にフィットするので面白くなった。
いや、最近のエレベーター事故のことを書こうとしていて、「死刑台のエレベーター」というタイトルを思い出したばっかりに、長々と横道にそれた。
しかし酷い話である。エレベーターがいきなり動き出して挟まれて死ぬとは、いまどき誰も考えていない。
昔はもちろん考えていた。生れてはじめてデパートのエレベーターに乗ったときは、緊張して硬くなった。着いてドアが開いて、床に降りてホッとした。でもそれを何十回何百回と経験してきて、さすがに最近ではもう緊張で硬くなったりはしなかったが……。
あの高校生は本当に気の毒だ。日本中のみんながそう思ったはずだ。でもスイスのシンドラー社の日本支社長からは、気の毒だ、という感情はぜんぜん感じられなかった。まずい立場になってしまった、という緊張はあったが、亡くなった人への申し訳ないという気持は、まったく見受けられなかった。
ヨーロッパと日本では文化が違う。だから頭を下げても、どことなくただ下げただけ、という感じになるのはわかる。文化が違えばちょっとしたそぶりもちぐはぐになる、という点は差し引いて見るのだけど、でもお詫びするという感情は微塵もあらわれていなかった。文化は違ったって人間だから、何かはあふれ出るものがあるはずだけど、何もなかった。
スイスといえば平和の国、正しい国、というイメージが日本には定着している。でもそのイメージが一気に崩れたのではないか。曲りなりに日本で商売するなら、お辞儀の気持ぐらい知れ、といいたい。
その後でスイス本社の社長も来てお辞儀したが、態度はまったく変らなかった。要するに商売の不都合、経済の不都合、という立場からのみのコメントである。
日本もアジアの某国に対してあのくらいの態度が取れれば、事態は少しは変っているかもしれない。そうすればサッカーW杯でも、もう少しは点が取れたのだろうが、まあそうはいかないのが国民性というものである。図々しさに欠けているのだ。
でもそれでいいと思う。サッカーくらい負けてもいいじゃないか。どうしても勝ちたいなら、くよくよせずに靖国参拝してみろ、といいたい。いやこれは政治問題ではなく、ただのくよくよ問題だ。
まあそんなわけで、最近はどこかへ行ってエレベーターに乗るたびに、文字プレートを確かめる癖がついた。ぼくの場合はフジテックとか三菱とかあったが、シンドラーにはまだ出合っていない。ひょっとして慌てて隠したのだろうか。報道によると相当な数が日本国内で稼働しているようで、出合っても不思議はないのだけど。
今回の事故のお陰で、エレベーター事故というのがすいぶん頻発しているのがわかった。なかでもシンドラー社のエレベーター事故がダントツみたいだ。
驚いたのは企業秘密が優先されて、エレベーターの管理とメンテナンスを引き継ぐ会社に、機械構造の要点が明かされていないのだという。つまりメンテナンス会社はよくわからずに、適当に管理をしているということなのだ。恐ろしいことである。これからは肝試しとして、あちこちのシンドラー社製エレベーターに乗ってみるのが流行るのではないか。
いまは外貨というのがどんどん日本に攻めてきているから、今後も日本語のできない外国人社長が、記者会見の席で頭を下げる光景が増えると思う。
いずれ牛肉会社の外人社長などが、またずらりと並んで頭を下げている場面が想像される。これは必ずやってくるだろう。エレベーターと牛肉は、その管理のゆるさがよく似ている。
しかしエレベーターには何故そんないいかげんが罷り通るのだろうか。考えたら、設置型の移動機関だからだろう。車なら何か欠陥があると、メーカーの方がすぐ回収をしている。そうしないとブランドに傷がついて、すぐ売行きが落ちるからだ。車は買い換えが簡単である。
でもエレベーターはビルの中に食い込ませて、据え付けている。簡単に取り外しができない。ビルの住人も毎日えんえんと階段を上るわけにもいかないから、つい怖いと知りながらもエレベーターに乗ってしまう。つまりそういう足もとを見て、その足もとにつけ込んで、いいかげんな管理がはびこっていくのだろう。これも結局は、法律的に罰則を強化するほかはないのか。モラルがゆるむと、だんだんと法律強化の世の中になっていく。
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 1937年、横浜生まれ。芸術家・作家。『父が消えた』で芥川賞受賞。『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラー、ロングセラーを含め著書多数。卓越した着想とあくなき探究心、絶妙なユーモアで、常識でこりかたまった世の中のものの見方を変えてしまう著作、さまざまな表現活動で知られる。最新刊は『もったいない話です』(筑摩書房)。
(以上、ファイブエルより転載)