人を感動させる馬 2007/1
この間府中の東京競馬場へ行った。競馬にはぜんぜん詳しくないが、ディープインパクトは知っている。一昨年かその前、三冠達成かと騒がれていて、そのレースをテレビで見た。勝負というのは好きだから、テレビのスポーツ場面というのはよく見る。その時は後ろの方で力をためていたディープインパクトが、直線コースでスピードを解禁されて、ギュイーン、と音を発するような勢いでもってぐんぐんトップに立って、駆け抜けた。
速球投手の凄い人は、球が手許で伸びるという。いわゆるホップするというやつ。阪神の藤川投手などがそういう球だと思うが、それを連想するようなディープインパクトの走りだった。なるほど、みんなこれに痺れるのか、と思った。速いといってもスピードガン的な、数字上のことだけではなく、その勢いのようなものに痺れるのだろう。
ぼくは競馬はやらない。だからぜんぜん知識はない。はじめて競馬場へ行ったのは、もう20年以上も前になるなあ……、川崎競馬場へ行った。競馬をしに行ったのではなく、自分の知らない世界を見物に行ったのだ。
たしかにまったく知らない世界で、何か熱いけどすさんだような空気があって、緊張した。何だか全員がすってんてんにすってしまった人に見えた。金が落ちていたらすぐ拾ってポケットに入れる人に見えた。本当はそんなことはないのだろうが、ぼくは先入観が強いので、とにかくそういうイメージばかりが舞い込んできた。
紙屑とかタバコの吸殻とか、ゴミの散らばり方が凄かった。とにかくそこいら辺にばらばら捨ててある。ぼくは真面目なたちだから、鼻紙か何か、紙屑を捨てようと辺りを探したが、屑篭がない。とにかくどこにでもそこら辺にぽいぽいだ。そうか、ここではいちいちそんな屑篭などに捨てるものではないんだと気がついた。かえって真面目に屑篭を探したりする方が、この場所には不釣合いだ。そう気がついて、ぼくもいらなくなった自分の屑紙を、ぽいという感じでそこいら辺に荒くれた様子で捨てた。世の中は不満だらけだという感じで肩を怒らせて、ふざけんじゃねえ、という顔をして、わざとぽいと捨てたのだった。
それが今度行った東京競馬場ではずいぶん違った。最近施設が新しくなったらしいのだれど、大変に近代的で、きれいだ。しかも入口にしろ観客席にしろ、大きい。余裕がある。受付や場内整備の人もしっかり大勢揃っていて、みんな新しい制服を着ている。すべてにシステム化された感じだ。
来ている人の雰囲気も違う。昔とは層が違うのか、若いふつうの人が多い。女性もふつうに来ている。全員がすってんてんにすってしまった人には思えない。とりあえずふつうという印象が強かった。
とにかく、とりわけすさんでもいない人々が大勢来ている、その数に驚いた。野球より凄い。野球やサッカー場の場合は、グラウンドをぐるりと観客席が取り巻いているからまた違うのだが、競馬場の場合は巨大な観客席が一個所にあるだけだから、よけいに群衆のボリューム感は凄い。
ジャパンカップという重要なレースだということもあるのだろう。やっぱり一番の関心はディープインパクトらしい。この間フランスまで行って凱旋門賞というのに出て、勝つと思われたのが三着に終り、しかもその後薬物疑惑の騒ぎもあって、どうにも煮えきらない気分が広がっていて、それでみんなここまで押し寄せてきている、という事情もある。
そういう漠然とした、群衆の全体の雰囲気は感じられるんだけど、こちらは何しろ競馬場はほとんどはじめてなので、どこでどう馬券を買って、どの辺でどうレースを見ればいいのかわからない。レースの始まる流れも、どうきてどうなっていくのかというのが、もうひとつよくわからない。
でも人々の空気の高まりでそれの迫っているのが感じられて、何だかざわついてきた。出走馬が入場し、トレーニングをしている模様だ。野球でいうとまず遠投からはじめたというところか。群衆の空気の動きで、中にディープインパクトのいるらしいことがわかる。何しろ広くて遠いので、細かいことは見えないのだ。そうだ、双眼鏡を持ってくるのを忘れた。そういえばさっき、貸双眼鏡なんて窓口があったな。
高い台の上にきちんと背広を着た人が上がり、手に赤い旗を持っている。なるほど、あれを振ってはじまるのだな。
そんなあれこれがあって、スタートは簡単だった。あっさりと、気がついたらもうレースがはじまっている。この辺は野球のスタジアムにも少し似ている。テレビ慣れしている目には、スタジアム全体の雰囲気に目が奪われていて、第一球がいきなりもうはじまっている。いきなりショートゴロか何か打たれて、あ、もう始ってるんだ、とわかったりする。
でもスタートしてからの群衆の気配が面白い。レースが始った、というざわめきの中に、いよいよディープインパクトがスタートした、という思いの強くあるのがわかる。
レースは一周とちょっとのコースで、一周し終って最後の直線コースに入り、最後尾を走っていたディープインパクトが、いよいよスパートした。最後は案の定、という感じで、トップに立って抜き去った。この時の群衆の唸りと、何万という声の高まりは凄い。妙に感動したのだが、この感動は何だろうか。
相手は馬である。松井とか松坂ではなく、何もしゃべらない馬だ。騎手は武豊だけど、ファンによると、それは大したことでもないらしい。やはりディープという馬そのものが人々を感動させるらしい。馬の天才ということだろうか。
みんなどやどやと緊張がほぐれ、これまでの凱旋門賞以来のもやもやが晴れた、という感じだった。ほっとした、という空気だった。たしかにトップで駆け抜けたが、前みたいにストレートの球がホップする、という凄みにはちょっと欠けていたようだ。でも俺の馬が勝った、という安心感みたいなものがみんなにあった。
人間のヒーローというのはわかるが、動物のヒーローというのがいまひとつ不思議で、でもその透明感が気持ちいい。そういえば汐留にJRAのビルがあり、以前試しに入ってみたら、近代ビルの全館が場外馬券ビルだった。その日は注目のレースのない日だったようで、がらんとしたフロアに、電光掲示板の数字データだけが動いている。ときどき人が立ってそれをじーっと見ていて、株式関係の取引所みたいな感じだった。最上階には人々が少し溜っていて、電光掲示板を見てじっと考え、新聞を見てじっと考えている。それぞれは独りで来ているようで、みんなたむろしてはいるけど凄く静かで、そうだ、この雰囲気は図書館だ、と思った。競馬というのは大変知的な世界なんだ。
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 1937年、横浜生まれ。芸術家・作家。『父が消えた』で芥川賞受賞。『超芸術トマソン』『新解さんの謎』『老人力』などのベストセラー、ロングセラーを含め著書多数。卓越した着想とあくなき探究心、絶妙なユーモアで、常識でこりかたまった世の中のものの見方を変えてしまう著作、さまざまな表現活動で知られる。最新刊は『もったいない話です』(筑摩書房)。
(以上、ファイブエルより転載)