ロッテルダムからの逃走
ドイツ軍は、一時北アフリカまで進軍し重要な拠点を占領したが、1943年にスターリングラード攻防戦および北アフリカ戦線で敗北した。その結果、イタリアが降伏し、ドイツ軍も後退を開始した。1944年に連合軍がノルマンディに上陸し、同年8月25日にパリを開放した。そんなある日、ベルリンの大島大使から晃に電話がかかってきた。
「鳥沢さん、すでに連合軍がパリからブラッセルまで迫ってきています。そのままロッテルダムにおれば、君たちの家族は連合軍によって捕縛され、捕虜収容所に送られるでしょう。一両日中にドイツ軍部と協議して、最後の列車を仕立てます。それに乗って、エムデン、ブレーメン経由でベルリンに避難してください。」
この事態を、晃はすでに予想していた。どこへ行っても2~3年は暮らせるようにとかねてから用意しておいた英国ポンド、米ドル、スイスフラン、スウェーデンクローナ、日本円、ドイツマルクといった各国通貨と、カバンにして30個の荷物を持ち、家族と共に列車に乗り込んだ。途中で連合軍による爆撃にもあったが、その時には森に逃れて難を避けた。そして、3日目にしてやっと、ベルリンへ到着した。
約一週間、ベルリンのホテルに滞在したが、連合軍の爆撃が次第にひどくなってきた。特に、ユダヤの金持ちが住んでいた高級住宅地であるグルネバルト地区への爆撃はひどかった。これにはわけがあった。居住地を追放されたユダヤ人の中には、自らパイロットに志願して、ナチへの報復爆撃に参加したものが多数いた。さらに懸賞募集までしていた。したがって、この地域の破壊には目を覆いたくなるような惨状があった。
こうしてベルリンが安全でなくなったので、大使館に紹介してもらって、ドイツ東部にあるシャロッテンタルという寒村に移動し、そこの由緒あるキャッスルに部屋を借りて住むことにした。それから約8か月間、晃とその家族は、この村で越冬のための薪割をし、書物を読み、ラジオのニュースを聴いたりしながら、ベルリン陥落までの日々を過ごした。
つづく
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