私の50歳の誕生日は、チベットのラサで迎えた。
現地の人々と、同行の人々が共に祝ってくれた。
この日から、私は、陀来鳩摩と名乗ることにした。
不遜な話だが、何だかそんな啓示を受けた気がしたからである。
ちょうどその日に、ポタラ宮殿へ行って、心が高揚していたのかもしれない。
それ以外に、特に意図はない。
ゴロが良いし、言葉の意味が気にいっただけである。
ダライとはモンゴル語で、大きな海というのだそうだ。
だから陀来鳩摩は、大きな海のように深い知識を持つ人のことだ、と同行していたモンゴル人が語った。
そうなのか、と何となく気に入ってしまった。
鳩摩というのは、熊にかけてある。
だが本当は、鳩摩羅什からとっている。
この名を聞いて、ああそうかとうなづく人は、かなりの西域オタクである。
知らない人でも、日本でもよく知られた「摩訶般若波羅蜜経」をサンスクリット語から漢語に翻訳した人と言えば、肯首するかもしれない。
いわゆる般若心経である。
鳩摩羅什は、初代、三蔵法師とも言われている。
四世紀の人である。
良く知られた三蔵法師は、七世紀に唐からインドへ渡った玄奘だろう。
つまり、三蔵法師というのは複数いたのだ。
三蔵とは、仏典である経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことである。
というわけで、どういうわけか50歳で私は陀来鳩摩となった。
最初はカタカナで書いていたのだが、仏教哲学の先生に叱られてしまった。
彼は北海道大学文学部の教授で、私の高校時代の同級生だった。
偶然、ネットでダライ・ラマの文献を検索していて、なんとダライ・クマをヒットしたのだ。
それが私だと知った彼は、親切にも不遜であると忠告してくれた。
そこで私はダライ・クマから陀来鳩摩になった。
特に、使用前と使用後で変わったところもないが、何となく今の名前を気に入っている。
とかく、西域という言葉には、ロマンがある。
いつの日か、鳩摩羅什が生まれ育った場所に、行ってみたいものだ。
新型コロナウィルスのおかげで、海外へ行きにくい日が続いている。
早く収束して欲しいものだ。
というわけで「#検察庁法改正案に抗議します」を応援することにした。
特に意味はない
ただどんな生き方をするにしても、姑息でありたくないと思っている。
人間は弱い動物で、失敗もするし、成功もする。
間違ったら、素直に謝ればよい。
自分のミスを他人のせいにしないことだ。
誤りを正していくと、やがて大きな成果という果実がなる。
これは鳩摩羅什の時代からの真理だ。
マイナスをできるだけ少なくし、プラスをできるだけ多くする。
こうして人間は生きている価値を持つことができる。
他人からの信頼を得ることができる。
そうしないと、墓場までみじめな人生になってしまう。
だから残り少ない人生を後悔しないために、他人を欺くような馬鹿なことはしない方が良い。
懲りない政治家への忠告でもある。
正々堂々と生きたいものである。
「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」(鳩摩羅什)
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