「なんでもかでも人のことをうらやみ、自分のことについては泣き言を言い、
人の噂話ばかりし、ほかのちょっとしたつまらぬことでも根掘り葉掘り知りたがって、
しつこく話をせがみ、話してやらないと、うらんだり悪口を言ったりし、
またほんの聞きかじった程度の話を、自分がもともと知っていることのように、
他の人にも得得として受け売りしたりする。このような人も実にいやだ。」
これらは「その通りだ!」浮かべることができて、一体誰の話か?
と興味が沸くところだが、実は清少納言の「枕草子」25の「にくらしいもの」
の中の一部分だ
(最近、きっかけがあって枕草子の現代語訳を読んでいて、そこで見つけた)
現代の芸能人のスキャンダルを根掘り葉掘り知りたがっている様や
聞きかじった程度の話を確かめもせずに(フェイクニュースとして)拡散する様を
想像することができるだろう
だが、思うに昔からこのようなことがあったということは
人間がつい持ってしまう傾向のようなもので、「そうあってははいけない!」
と理性でコントロールしうるのは思いのほか難しいということかしれない
こういうことは恥ずかしいこと、みっともないこと、、と理性で考えるのではなく
感情的に嫌えるようになることが、一番無理なくていいことだと思うが
それは個人の持つ美意識、あるいは教養につながるかもしれない
現在は専門分野、特に文言の解釈の専門家による、半ば掟破りのようなことが
いたるところで起きている
それは真に総合的・俯瞰的な視点にたった解釈というより、その場しのぎの
言い訳に過ぎない(政治家・官僚)
この言い訳を可能にしているのが個人の人としての生き方の突き詰め方不足ではないか
それはハンナ・アーレントのいう「思考停止」なのかもしれない
この思考停止が進んでいるのではないかと思われるのが、官僚の世界とメディアの世界
それらは外から見ると単に、長いものには巻かれろを実践しているだけに見える(いろいろ言い分はあろうが)
話は飛んで、こうして枕草子にこうした文章を見つけて、今も同じだな!と感じたりすることは、
そしてそれらが数多く蓄積されるということは、知らず知らずその人の判断力に影響を与えると思う
その意味で、過去を知るということは大事なのかもしれない
話はまたまた飛んで、清少納言を例に挙げたのでライバルの紫式部の印象的な考察も一つ取り上げると
源氏物語の乙女の帖にある以下の著述で、光源氏が息子の夕霧に容易に官位を与えなかった理由
「貴族の子に生まれまして、官職が想いのままに進んでまいり、
自家の勢力に慢心した青年になりましては、学問などに身を
苦しめたりすることはきっとばかばかしいと思われるでしょう。
遊び事の中に浸っていながら、位だけはずんずん上がるようなことが
ありましても、家に権勢のある間は、心で嘲笑はしながらも追従をして
苦言を人が損ねまいとしてくれますから、ちょっと見はそれで立派に見えましょうが
家の権力が失墜するとか、保護者に死に別れるとかしました際に、人から軽蔑されましても
なんらみずからたのむことのないみじめな者になります。やはり学問が第一でございます。
日本魂をいかに活かせて使うかは学問の根底があってできることと存じます。
ただ今目前に六位しか持たないものを見まして、たよりない気はいたしましても、
将来の国家の柱石たる教養を受けておきます方が、死後までも私の安心できることかと存じます。」
結局のところ、みんな同じようなことを感じて考えているものだということ