パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「自由からの逃走」と「大審問官」が頭に浮かんだ

2024年11月26日 09時59分37秒 | あれこれ考えること

オールドメディアは情報を一方的に流しているが
SNSはコメント欄に変なことを書くと炎上し
両論が併記されるから公平で信じられるという人がいる

でもそうかな?
SNSあるいはYoutubeで広がりやすい情報というものを
再生回数の数で測ってみると、そこにはある種の特徴がある
それは逆張りとか刺激的な内容を想像させるタイトルとか内容になっている
先日の兵庫知事選では立花氏のYoutubeはあっという間に何十万回の再生数になっていた

香川1区でボランティアで勝手に小川さんの動画をアップしている人の再生回数は
そんなに多くない
もう少し見てくれる人がいればいいのに!
と思いながらも、こうした数字は現実なんだろうなとも思う

動画の内容の魅力度が違いがその再生回数の違いになっているかもしれないとしても
再生回数の多い動画の中身にはちょいと違和感を覚える物が少なくない

今回の騒ぎの中で自分が不思議に思うのは、都知事選でポスター掲示板で
とんでもないことをしでかした人物(立花氏)の言ってることを
真実を語っていると信じてしまう人の多いことだ

自分は動画が目の前にあっても、またあの人が良からぬこと口にしている
聞くにに値しないと即断して、パスしてしまうのだが
世の中はどうもそうではないらしい

SNSやオールドメディアには嘘と本当が混じっているとしても
伝わりやすいのはどちらかといえば残念ながら真実ではない方のような気がする
なぜ否定的な、人格否定をするようなものに人は惹かれしまうのか?
これは社会問題と言うよりは、個人の心理的な問題かもしれないとも思う

ナチスが正当な選挙によって選ばれ、結果的にあのような事になってしまったのは
社会的な問題だけでなく心理的な問題ではないか?と考えたのがフロムで
「自由からの逃走」で自説を展開している

人は自由を求めているとされるが、本当に自由を欲しているのか?
実は自由から逃げたくなっているのではないか
自由に伴う自己責任は重荷になって、むしろ誰かが「こうせよ!」
と言ってくれたことをするだけのほうが生きやすいと思っているのではないか

それどころか、必要なのは現在の問題解決をしてくれる人こそで
それは宗教ではなく、解決者としているのはカラマーゾフの兄弟の「大審問官」の問題提起だ
「人はパンのみにて生きるならず」と高邁なことを言っても
欲しているのは健康とか眼の前のこと、それを制度的に実践している大審問官は
中世の時代にやってきたキリストに「お前の出番はない」と断言する
これは政治は、一人ひとりが個を確立して主体的に覚悟を持って行うというより
誰か別の人が上手い具合にやってくれないかな、、と言う希望を
大審問官が行っているということだ

大審問官に向かってキリストと思しき人物はずっと無口で反論はしない
しないが、そっと口づけをする
その行為の雄弁なこと、、
大審問官に起きた心理的経過はこの小説では描写されない、
ただ彼を追放することだけにした

自分は時々このカラマーゾフの兄弟の「大審問官」の部分だけ読み返す
そして現代人はこの大審問官の言うような世界に生きているのではないか
と思ったりする

例のごとくまとまらない話



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