関門トンネル 概要
関門間をトンネルで結ぶ構想は、古くは明治まで遡るそうです。
調査の結果、困難は伴うが不可能ではないとして、トンネル案と橋梁案が比較検討され、国防上の観点からも、トンネルが有利となりました。
その後、トンネルのルートについても種々検討された結果、現在のルートに落ち着いたと言われています。工事は初めてづくしであり、特にシールド工法は、全て国産の技術で賄うなど、その後の国鉄技術の発展には大きく寄与することとなりました。
太平洋戦争中の昭和17年7月から貨物がトンネルを通過し、11月からは旅客車もトンネルを通過することとなりました。
関門トンネルは、明治時代に 計画されていた?
下関と門司を結ぶ関門トンネルは、昭和17年7月に下り線が、昭和19年8月には上り線が開通していますが、関門トンネルの構想は古くは、明治29年第5回全国商業会議所連合会が博多で開催されたときに、本州と九州を海底トンネルで結んだら軍事上も商業上にも有益だとして、帝国議会に請願したのが始まりと言われています。
この時は、具体化されませんでしたが、積極的にこの案を取り上げたのは後藤新平で、明治45年、鉄道院技師岡野昇により、彦島を経て大瀬戸海峡をトンネルで横断する経路が調査されたそうです。
大正2年1月には、トンネル断面を単線として、シールド工法または沈埋工法であれば建設は可能という結論に達したそうです。
ただ、東大教授神保小虎の調査によれば、トンネル通過地点は地盤が軟弱であるという報告がなされ、鉄道院内でもその結論は中々出せなかったっといいます。
京都帝国大学理工科大学教授、田邊朔郎(画像wikipedia)
そこで、鉄道院では、京都帝国大学理工科大学教授であった、田邊朔郎を欧米に出張させて地質調査や海底トンネルの工法などを調査させることとし、帰国後関門区間は地質に困難はあるが工事は可能という判断に至ったそうです。(敬称は全て省略させていただきます)
橋梁かトンネルか?
田邊朔郎の報告では、建設は可能で工費は約1300万円(大正時代の1円が4000円程度だそうですので、現在の価値で520億円程度)とされています。
また、小樽港外洋防波堤等数多くの土木建築で名を残した東京大学教授の、廣井勇(ひろいいさみ)に橋梁の場合の調査を依頼、その結果、下記のような橋梁で工費は2200万円(880億円程度)と言う報告があったそうです。
東京大学教授廣井勇 画像 wikipedia
比較検討の結果、費用の点並びに国防上の点で有利であるとして、トンネル案が採用されることとなりました。
大正8年6月~9月にかけて、連絡路線の実地調査を行い、大正9年7月~10月まで関門海峡の海底地質調査が行われ、着工間近かと思われましたが、大正12年9月1日の関東大震災復旧の資金を割かねばならず工事はいったん中止となったが、関門間の輸送は増大して、昭和10年、当時の鉄道大臣内田信也により現地の視察が行われた同年6月には関門隧道技術委員会を設置、翌昭和11年7月15日には下関改良事務所が設けられたそうで。9月19日には、門司側小森江で起工式が行われたそうです。
鉄道大臣内田信也 画像 wikipedia
関門トンネル起工式 画像 wikipedia
困難を乗り越えて
シールド工法も国産のものを使用するなどして、工事を進めたそうですがかなりの苦労はあったようです、当時のシールド工法では、シールドを構築する前に水がトンネルに入ってこないようにシールド全体に圧力をかけながら行うのですが、地盤が軟弱(貝殻層)では、空気が地表に吹き出していたと言われています。また、覆工が不足して漏水も多いといった問題等もあったようです。
このような苦労を重ねた、トンネルは戦時中と言うこともあり、突貫工事で行われ。
国民勤労報国協力令に基づく、勤労報国隊の青年、更に昭和19年には学徒動員による工事の応援を行ったそうですが、戦時中だけにそうした話が表に出ることは無かったとも言われています。
待望の上り線も開通
関門トンネルの下り線が開通したのは、昭和17年6月11日から試運転が開始され、7月1日から正式に使用が開始されたそうです。
画像 wikipedia
旅客営業は、同年11月15日から開始されたそうです。
関門トンネルは、貨物輸送がメインですので先行して、昭和17年7月1日から貨物が営業運転を開始しています。 同年、11月15日には、旅客営業が開始されます。
注:特急富士は、関門トンネル開通に伴い昭和17年11月15日から運転区間を東京~長崎に延長します。
その後戦争の激化により、昭和19年4月1日、特急富士は運行を中止に追いやられます。
昭和19年には、上りトンネルも完成するのですが、戦時中と言うこともあり、人員が不足しており、工事末期には、勤労報国隊の出動を仰ぐとともに、昭和19年4月からは、決戦非常措置要綱ニ基ク学徒勤労動員ニ関スル件により、学生報国隊も工事に携わることとなりました。 こうした懸命の努力により、6月15日にレール締結、7月に電気関連の工事を完了させたと記録されています。同年、年8月8日についに上り線トンネルも開通。
その後、不具合が多かった下り線トンネルの改修工事を行うこととなり、すべての列車の運転を上り線トンネルに移しておよそ1か月にわたって下り線の運転を休止、補修作業を行ったそうで、9月9日に複線での運転が開始されたそうです。
参考記事 戦時中に発令された、学徒動員令
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