関西線は、平野駅の事故がかなりショックだったようです。
運転士は非常に優秀な運転士であったそうで、当時の資料などでは、運転士の運転ミスではなく他の要因が有ったのではないかと言った記述も見られました。
ただ、天鉄局としても事故後の対応を考える必要があり、事故以降は113系は快速電車、101系(電化当初は101系が導入されました。)は原則的には113系が普通運用に入ることはなかったようです。普通電車による運転に完全に分けられることとなりました。【この点は、私の調査不足であり、夜間帯等は113系の普通電車がはしっていたとのことですので、訂正させていただきます。2019/6/9 追記、コメントありがとうございました。】
その後は比較的平穏な時期が続きましたが、転機があったのは、昭和57年8月でした。
台風10号の影響で8月1日から3日にかけて降った記録的な豪雨により大和川水系の葛下川が氾濫、王寺の電留線が水没する羽目となりました。
留置中の101系10編成60両と113系40両で、113系は全車復旧させたものの101系は60両全車廃車となっています。
当時の新聞記事を参照しますと、水没したポイント28か所を交換したものの、再び3日の日の集中豪雨で電車が被災。ポイントも交換せざるを得なくなったのそうですが、ポイントの予備が無くなり全国から調達する羽目になったそうです。
関西線に導入されていた101系は初期車両が多かったので、修理工事はせずに廃車に、その振替に廃車予定だった首都圏の101系54両が急遽西下して、関西線で活躍することに。
自由契約通知を受けた1軍選手が大挙して他の球団の2軍に拾われたようなもので、元々の2軍選手が全員自由契約になったみたいなイメージでしょうか。苦笑
ということで、101系は大挙押し寄せた関東から来た101系で埋め尽くされたそうです。
急いで転入させたので色がまちまち、総武線緩行の101系などのカナリヤ色など、ウグイス色かオレンジ色しか知らない関西人には格好の被写体だったのではないかと思います。
当時のピクトリアルの記事を見てみますと、水没した113系は、8/6~9/8にかけて吹田・鷹取・名古屋の各工場で緊急修理されたと記録されており、9/27までに全車修理工事が行われたそうです。
他にも、網干電車区から113系電車20両が8/7~8/10まで借り入れられ、湘南色のまま運用開始、8/25~8/31までに所属復帰したらしいです。
101系に関しては、8/8に第一陣が関東から到着したと書かれています。
ちなみに、関西線に101系が入ったのは、比較的駅間距離が長かったことが適切だったのでしょう。
その後は、関西線は103系で置き換えられていく訳ですが、一般の人にしてみれば101系から103系に代わったとしてもあまり意識は無かったでしょうね。
画像は、鉄道ピクトリアル1982年12月号 38Pから引用させていただきました。
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運転士は非常に優秀な運転士であったそうで、当時の資料などでは、運転士の運転ミスではなく他の要因が有ったのではないかと言った記述も見られました。
ただ、天鉄局としても事故後の対応を考える必要があり、事故以降は113系は快速電車、101系(電化当初は101系が導入されました。)は原則的には113系が普通運用に入ることはなかったようです。
その後は比較的平穏な時期が続きましたが、転機があったのは、昭和57年8月でした。
台風10号の影響で8月1日から3日にかけて降った記録的な豪雨により大和川水系の葛下川が氾濫、王寺の電留線が水没する羽目となりました。
留置中の101系10編成60両と113系40両で、113系は全車復旧させたものの101系は60両全車廃車となっています。
当時の新聞記事を参照しますと、水没したポイント28か所を交換したものの、再び3日の日の集中豪雨で電車が被災。ポイントも交換せざるを得なくなったのそうですが、ポイントの予備が無くなり全国から調達する羽目になったそうです。
関西線に導入されていた101系は初期車両が多かったので、修理工事はせずに廃車に、その振替に廃車予定だった首都圏の101系54両が急遽西下して、関西線で活躍することに。
自由契約通知を受けた1軍選手が大挙して他の球団の2軍に拾われたようなもので、元々の2軍選手が全員自由契約になったみたいなイメージでしょうか。苦笑
ということで、101系は大挙押し寄せた関東から来た101系で埋め尽くされたそうです。
急いで転入させたので色がまちまち、総武線緩行の101系などのカナリヤ色など、ウグイス色かオレンジ色しか知らない関西人には格好の被写体だったのではないかと思います。
当時のピクトリアルの記事を見てみますと、水没した113系は、8/6~9/8にかけて吹田・鷹取・名古屋の各工場で緊急修理されたと記録されており、9/27までに全車修理工事が行われたそうです。
他にも、網干電車区から113系電車20両が8/7~8/10まで借り入れられ、湘南色のまま運用開始、8/25~8/31までに所属復帰したらしいです。
101系に関しては、8/8に第一陣が関東から到着したと書かれています。
ちなみに、関西線に101系が入ったのは、比較的駅間距離が長かったことが適切だったのでしょう。
その後は、関西線は103系で置き換えられていく訳ですが、一般の人にしてみれば101系から103系に代わったとしてもあまり意識は無かったでしょうね。
画像は、鉄道ピクトリアル1982年12月号 38Pから引用させていただきました。
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25年ほど前まで、JR平野駅の近くに住んでおりました。記事を見て懐かしい思い出です。
王寺水没の時は高校生で、電車通学していましたので、発生時は夏休みでしたが、夏休み明けもまだダイヤが混乱していたような思い出があります。
書かれているように、カナリア色の101系はある意味新鮮でした。誤乗防止の為、緑地に白文字の、関西線というステッカーが、運転台窓下と、乗降扉上に貼ってありましたね。
製造番号一桁の、超中古車も何台かあり、廃車のはずだったと見えて内装がボロボロになっていた車もありました。
その後、やはりお古の103系に変わっていきますが、一般の人になんの意識もない訳はなく、冷房車が来ましたので、ついに各駅停車も冷房化されたという、画期的な出来事でした。
なお、自分は平野駅脱線事故の頃は別の場所に住んでおり、直接は知らないのですが、その後各駅停車は101系、快速は113系と限定された、とよくいろんなところに書いてありますが、僕が平野に来た昭和55年ごろには、夜遅くの何本かは、113系で各停が運転されていました。
113系の普通運用ですが、他の方からもご指摘をいただいておりますので、修整すると共に確認をさせていただきます。
ご指摘ありがとうございます。
「関西国電50年」という書籍によると、101系が全てアウトになったのは床材にコルクを使ってたとかで、浸水したさい水をタップリ吸ってしまい床がボコボコになったのが、加えて絶縁破壊と相まり致命的だったとの事です。
以上をもちまして、失礼します。