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現在JR東海のリニア鉄道館に保存されているクモハ52こと流電ですがもう1両はJR西日本の吹田工場で保存されています。
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実は、今日は阪和線をこの電車が走ったというお話をさせて頂こうと思います。
阪和線にモハ52が転属したのは昭和25年10月1日の改正だそうで、ここで阪和線の目玉商品?として天王寺~和歌山間を55分で走る特急電車として導入されたそうです。
戦前の45分運転にはかないませんが、それでも明るい話題であることには間違いありませんでした。
阪和線時代には4編成が配備され、80系に準じた金太郎の腹掛け塗装のマルーンとクリームで塗り分けたタイプも2編成あったそうで、編成は中間車を1両除いた3両編成で。
当時の資料を見ますと、以下のようになっています。
天王寺方 52001+66018+52002 青色塗装【通称アイスキャンデー色】
52003+48034+52004 関西湘南色
52005+66019+43039 ブドウ色
43041+48036+43040 関西湘南色
予備車 48035 【関西湘南色】
先頭車には特急の行き先表示を取り付けて朝夕のラッシュ時のみ運転されたそうで、朝東和歌山発6:38 7:38 の上り2本、夕方は天王寺発17:20 18:20であり停車駅は、紀伊中ノ島駅のみだったそうです。
今では紀州路快速以外停車しない紀伊中ノ島駅ですが、当時は和歌山線との接続駅でした。
関西急電時代は運転席窓に急行と書いていましたが、今度はこの場所に「特急」と表示され、特急料金不要の特急電車として活躍しました。
その後、特急の表示は急行や団体列車にも使われることから消されてしまったそうですが記録をお持ちの方おられましたら是非ご教示願います。
昭和27年11月からは特急電車は鳳・和泉砂川にも停車するようになりその魅力は薄らいでいったそうです。
そして、昭和33年11月、国鉄特急「こだま」が走り出すに及んで(ダイヤ改正自体は33年10月ですが、あ車両の落成が遅れたことや線路側の準備が遅れた【最高速度が当時では最大の110㎞/h】利したのが主な理由)特急の名称は「快速」に急行は「直行」に変更され国鉄初の無料特急電車の歴史に幕を下ろすこととなりました。
しかし、阪和線が元々南海山手線それ以前は阪和鉄道という私鉄であったという伝統があったとはいえ、快速とせずに特急としたあたりに、阪和線の出自を見ることが出来そうです。笑
吹田工場で保存されているモハ52狭窓車 画像 wikipedia
なお、南海電車の11001系に対抗すべく70系電車が阪和線に新製投入されたことから、昭和32年4月から飯田線に転出、華やかな東海道線時代と比べるとかなりの都落ちで、飯田線を終焉の土地として20年以上活躍したのは皮肉と言えましょう。
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