『日本語ぽこりぽこり』(小学館・講談社エッセイ賞)、
『釣り上げては』(思潮社・中原中也賞)、
『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社・日本絵本賞)、
『亜米利加ニモ負ケズ』(日本経済新聞出版社)など、
文学ジャンルで魅力的な作品を次々と発表しているアーサー・ビナードさん。
堺市で講演会があったので、寒い夜、ちょっと遠いけど行ってきました。
下はビナードさんの講演前のパフォーマンスです。
府立泉陽高校出身、平均21歳の男声合唱グループ「コール・ドラフト」の面々ですが、
男声合唱と言えばグリークラブを想起します。
しかし、彼らはそこから伸び伸びとはみ出た合唱団でした。
このパフォーマンスの後に登場したアーサー・ビナードさん、
「さすが晶子の故郷、堺ですね。」と開口一番に与謝野晶子の話に入り、
「コール・ドラフト」が金子みすゞの作品「みんな違ってみんないい」も歌ったので、
「晶子とみすゞとアーサーと」とか、すぐに口から出てくる人でした。
私は、ビナードさんの飾らず、分かり易い語り口に、
すぐに、ずっと前からの親しい友達のような気持ちになりました。
アメリカ出身のビナードさんが日本に来たきっかけがまた面白いです。
彼はニューヨークのコルゲート大学で英米文学を専攻し卒業も近づいたとき、
日本語を学び始めました。
アルファベットが26文字であるのに対して、
日本語の漢字は日本人もいくつ在るのか分からない、多分一万字くらいだと言われ、
たいへん驚き、どんどん惹かれていったそうです。
なぜならばビナードさんは大の昆虫好きで、昆虫は数が多く、漢字も数が多かったからと。
1990年に来日して日本語学校で
ジャポニカノートに日本語を書き、むさぼるように勉強していた彼は、
日本人が「戦後40年」、「戦後45年」と戦後何年経ったかをキチンと言えることに気がつきました。
アメリカ人は言えません。
一体、いつの戦争の後なのかわからないほど、アメリカは戦争ばかりしているからです。
ビナードさんは1967年生まれですが、
彼は自分をベトナム戦争の戦中派だと言います。
今回の講演テーマは「言葉と政治、そして日本の未来」でした。
以下、私が面白く感じたところをメモから抜き書きしてみました。
(できるだけ正確な文言を心がけましたがもし違う箇所があったら御免なすって)。
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「表現者の大きな仕事に、
娯楽として笑ったり、楽しんだりできない、でも大切なことを伝えるということがある。
それに対して、メディア、マスコミはどうか。
ある人が「新聞は大事なことを伝えてくれない」と文句を言う。
でも、「新聞が大事なことを伝えてくれない」と文句を言うのは変じゃない?
なぜなら、新聞は「新しいこと」を伝えるから「新」聞なのであり、「大事」聞じゃないんだから。
新聞の伝えることは時間が経てば値打ちがなくなり、古新聞として捨てられる運命だが、
本当の文学表現、例えば、与謝野晶子の文学は百年経っても古くならない。
文学者の言葉は時間軸の幅が違う。百年経っても新鮮だ。
宮沢賢治もそうだ。
「駆け付け警護」の過ちを、賢治は『雨ニモマケズ』で今の私たちに教えてくれている。
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ(駆け付け看護)
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ(駆け付け収穫)
南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ(駆け付け見送り)
北ニケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ(駆け付けない・距離を取る)
東・西・南へは「ガ」という助詞を付ける時間もないほど大急ぎで行くから、「駆け付け」だ。
しかし、北のケンカや訴訟(戦争)には、賢治は行かない。距離を取る。
大急ぎで駆け付けないのでケンカヤ訴訟「ガ」アレバ、と助詞もつく。
つまり、冷静に話し合いをするべきだと言っているのだ。
「駆け付け警護」という変な言葉は、英語にすると
「rush to guard」だが、そんなこと言うと変過ぎて、アメリカ人は笑ってしまう。
「rush to rescue」なら意味が通じる。
日本語では「駆け付け救出」だが、救出には戦闘行為が伴う可能性が当然ある。
「駆け付け警護」はウソの言葉でごまかしている。
僕らは政府の時間軸で物事を考えていると全てを失う。
いい例が東芝だ。東芝は潰れるだろう。
2006年、東芝はアメリカのならず者企業「Westing House」
(世界のどこも買わない、イスラエルさえも)を
ライバル社の2倍の価格6400億円で買収したが、
現在原発事業に絡む借金が6800億円もあるのだ。
小出裕章さんや広瀬隆さんなど、
ちょっと違う時間軸で物事を考えている人はいっぱいいる。
時間の幅を伸ばせば伸ばすほどいいものになる。
文学とはそういうものだ。
日本が劣化し、日本人が日本語を理解できなくならない限り、
日本の文学は百年経っても、その輝きを失うことはない。
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ボブ・ディランの「FOREVER YOUNG」を「始まりの日」とした名訳本については
明日に続きます。
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