ディックを読み直して考える「我が生涯の弁明」
「フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明」“In Pursuit of Valis”
ローレンス・スーチン編 大瀧啓裕訳 アスペクト 2001年発行
「ヴァリス」ですでに我々は「釈義」の一部に触れている
1974年の体験を、彼は体験としてだけではなく
普遍的尺度に照らして書き下すことで
自らに証明しようと没頭した
「私は狂っているのではない」
「私が狂っているのならば、世界がすべて狂っているのである」
「世界が狂っているのであれば、私は狂っていはいない」
「釈義」をもとにしたサーガとして「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」を書きあげたのだと我々は後から知ることになる
彼の知的解明は面白いが
「ヴァリス」を解体し再構成しても我々という別の回路を経た後には
この本にある「Pursuit(追求)」には展開されない
「情報」は「完全」さを実現できないがために常に曖昧さを宿し
一瞬たりとも同質ではありえない
彼が求めていた「小説」のそれが宿命であり、それが存在意義なのであろう
ここまででディック作品の邦訳、解説本で手元にあるものは
SFマガジンなどの雑誌掲載のものを除いてほぼ紹介し終えた
ディックを体験して30年を経て
改めてディック的な世界への接近のあり方が私に与えた影響を感じることができた
一方で、あきらかにディックが全体から一部に移行する情報量の蓄積も経て
ディックを「理解」し、そこから何かを描き直すことができる年齢になった
ただ、歳を重ねただけのことで
むしろ情報を欠落させてきたことで、その向こうに何かが見えるのかもしれない
無駄なことに意味を見出す努力は
生きることと同価であると
「フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明」“In Pursuit of Valis”
ローレンス・スーチン編 大瀧啓裕訳 アスペクト 2001年発行
「ヴァリス」ですでに我々は「釈義」の一部に触れている
1974年の体験を、彼は体験としてだけではなく
普遍的尺度に照らして書き下すことで
自らに証明しようと没頭した
「私は狂っているのではない」
「私が狂っているのならば、世界がすべて狂っているのである」
「世界が狂っているのであれば、私は狂っていはいない」
「釈義」をもとにしたサーガとして「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」を書きあげたのだと我々は後から知ることになる
彼の知的解明は面白いが
「ヴァリス」を解体し再構成しても我々という別の回路を経た後には
この本にある「Pursuit(追求)」には展開されない
「情報」は「完全」さを実現できないがために常に曖昧さを宿し
一瞬たりとも同質ではありえない
彼が求めていた「小説」のそれが宿命であり、それが存在意義なのであろう
ここまででディック作品の邦訳、解説本で手元にあるものは
SFマガジンなどの雑誌掲載のものを除いてほぼ紹介し終えた
ディックを体験して30年を経て
改めてディック的な世界への接近のあり方が私に与えた影響を感じることができた
一方で、あきらかにディックが全体から一部に移行する情報量の蓄積も経て
ディックを「理解」し、そこから何かを描き直すことができる年齢になった
ただ、歳を重ねただけのことで
むしろ情報を欠落させてきたことで、その向こうに何かが見えるのかもしれない
無駄なことに意味を見出す努力は
生きることと同価であると
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