40 ~岸辺~
固いベッドに横たわったインスは薄暗い天井を見詰めていた。
ビジネスホテルのような広さしかない部屋は調度品も照明の明るさもいい加減で、
それでもどこか都会を意識しているといった自己満足のような部屋だった
こんな部屋に一人で過ごしているとさらに気が重くなりそうだ。
体を起こした僕は、何か飲もうと冷蔵庫をあけて缶ビールを1本取った。
冷えたビールがいつもなら美味しく感じるのに、さすがに今夜は味気がない。
時間を持て余すばかりのインスは、ただ喉を潤すことだけに集中しようとしていた。
隣の部屋にあなたがいる。
・・・手を伸ばせば届くだろう。
だけど、今夜のあなたの心にまで届くかはわからなかった。
死んだ人間は、永遠に生き続ける。
勝てる相手じゃない。
缶ビールの滴がインスの指を濡らし、味のしない液体がインスの唇を濡らした。
そしてずっと胸の中に宿っていた溜息をひとつ、吐き出してみた。
ベッドサイドテーブルに置かれている、少しは洒落た目覚し時計から
コチ・・コチ・・と時を刻む音が大きくなってくる。
・・・・コン・・コン・・・・
遠慮がちに叩かれたその音は、彼女だとすぐにインスはわかった。
僕はビールをテーブルに置いてドアの前に立った。
・・・このドアを開けることの意味を僕だけじゃなく、あなたも知っているんですか?
薄いドアを挟んで男と女が立っている。
ドアの向こうを見詰めるインスと、ためらいがちにノックしたソヨン。
インスはドアノブに手を掛けると、ゆっくりと手前に引いた。
「ソヨンssi・・・」
現れた姿は、目を赤くしてあなたがさっきと同じ格好で立っていた。
「・・あの・・休んでいるところを・・・ごめんなさい。」
「いいえ・・・起きていました。」
・・・・・・・
「あの・・」
「あの・・」
二人の声が重なった。
「ソヨンssiからどうぞ。」
「・・・よかったら・・・少し話がしたくて・・・」
「もちろん、いいですよ。」
よかったら僕の部屋で・・・と体を少し開いたが、あなたはゆっくり首を横に振った。
このモーテルにはロビーと呼べるほどのものがない。
じゃあ・・外に行きましょうと、僕は椅子に掛けてあった上着を取って
部屋のドアを閉めた。
腕時計を見たら夜中の1時を差していた。
ソウルと違ってネオンがほとんどないこの田舎町だ。
こんな時間に散歩する人間なんか、この町にはきっといないだろう。
僕たちだけが、よそ者だ。
「真夜中に喪服着た人間が散歩している姿なんて、奇妙に見えるでしょうね。」
僕がそんな事を言うと、あなたの赤い目元が緩んだ。。
静かで平和なこの夜に、町中の人は夢の中を彷徨ってるんだろうか。
先ほどまで輝いていた星たちはどこかに隠れてしまって、かわりに古めかしい街灯が主役を張っている。
二人の足音が和音になって夜に響かせていくと、僕を心地よくさせていき、
この静けさをありがたくさえ思えた。
僕たちは会話してるね。
隣にいるあなたは、うつむき加減に微笑んでいるようだ。
インスの視線に気付いたソヨンは、答えるかのように口元をさらに緩めて白い歯をみせた。
そして、あなたが少しずつ話し始めていった。
「本・・贈ってくれてありがとう。読みました。すごい賞を頂いたんですね。おめでとうございます。」
「よかった。ちゃんとソヨンssiの所に届いていたんですね。」
随分、昔の出来事のようだ。
懐かしくもあったが、辛い思い出でもあったな・・。
本には載っていない受賞時の様子を話すと、あなたは楽しそうに聞いていた。
・・・こんなふうに話せる時間を持てる時が来るなんて・・・
少し前では思えなかったよ。
二人で笑いあったりして、それでもどこか核心を避けていたことはお互いわかっていたが、
「ソヨンssiの家にあれから行った」と話すと、途端にあなたの表情が翳りを見せ、重い口を開くように話し始めた。
最初はあなたへ贖罪の気持ちでキョンホssiの方から家を出て行ったこと。
僕が本を送る少し前からキョンホssiからの電話に悩まされたこと。
やはりあなたを忘れることが出来ない彼から復縁を迫られたこと。
それが出来ずにあなたがあの家を離れたこと。
「僕が込めたメッセージはあなたに届いていたんですね・・・。」
だから、引っ越したともあなたは言った。
キョンホssiはあなたの学校や、同僚にまで連絡してあなたを探していた。
彼のそのときの様子がどこか常軌を逸脱していているようだと感じたあなたは、僕と彼を会わせたくなかった・・と。
ようやく静かに暮らし始めたある日、再びキョンホssiから電話があり、
それが事故の数日前だという。
「一度は愛した人です。あんな姿を見たくなかった・・・。可哀想な気もしました。
私は残酷なことをしているんじゃないかって・・。
・・・・でも、どうしてもキョンホssiを受け入れられなかった。・・・」
それは僕を愛しているからだと・・?
最後の電話で何を言ったのか・・・よくは思いだせないあなたは、そのせいで彼が死んだかもしれないと自責の念を抱いていた。
まるで行き場のない彼の恋情が追いかけてくるようだった。
彼の死はあなたを永遠に捕まえてしまったんだろうか・・。
忘れることなんてこれからずっと出来ない・・。
わかっている。だが・・だからこそ!
「・・ソヨンssi・・同情のような気持ちで彼の愛に応えてもいつかは偽物だと気付くでしょう。そのときは優しさも、その温かさも刃を持って突き刺さしてしまうかもしれない。愛は時に残酷です。あなたはそれをしなかっただけだ。
・・誰も悪くはありません。だからあなたは傷ついているんです・・・。」
あなたの手を握った。
僕の手の中にある現実と真実はゆるぎなく、確かなのだと僕に教えて欲しい。
「キョンホssiを忘れる必要はありません。
だけど、僕たちはこれから生きていかなくてはいけない。
未来を・・僕たちの未来を彼に預けないでください・・・・・。」
立ち止まって、僕の言葉を聞いていたあなたが切なげな顔をした。
僕の眼鏡の奥が熱くなってくる。
小さく頷いたあなたが僕の手を強く握り返して、愛していると言った。
「ソヨンssi・・聞こえません・・・」
・・・そんな顔をしないでくれ・・・もう一度、その声で僕の心に届けてほしい。
朝が来ない夜はない。
「インスssi、あなたを愛しています。 心からずっと・・愛してました。」
見えない夜明けに向かって信じることしか出来なかったあの日。
輝く星も月もない夜から、僕たちの未来が始まった。
オールを失くした船は波間に残され、弄ばれるように照らされた月明かりだけを頼りに航路を重ねてきた。
恋しさもこの愛しさも明日の光となるよう・・道を見失わないように・・僕らは手探りで突き進んできた。
数多くの言葉では伝えられない気持ちが、僕たちにはあった。
一言で伝わる想いが、ここにはある。
僕たちの鼓動はもう誰にも止められない。
朧月夜のような街灯の明かりは、この夜の岸辺へと導くかのように優しく注がれていた。
ようやくたどり着いた今、切なさを喜びに変えて、僕たちの唇が触れあった。