昨日のブログ記事は批判だけで終わってしまったので、もう少し付け加えます。
まず、地方自治体の議会はそれまで信頼されていたのか?多分、信頼されてはいなかったと思います。ただ、個人的な利権を実現するためには、議員は必要だったのではないでしょうか。しかし、これだけ財政的に厳しくなって、市民の目も厳しくなる中で、個人的な利権を実現できなくなったので、利権請負議員の役割も無くなってきたのではないでしょうか。
そして、大口しかこれまで相手にしなかった首長が自由に出来るお金や特権の幅が狭まった分、小さな利権をこまめに実現することにより、小回りがきく首長として評価されている気がします。
一方で、国政やマスコミは「地方分権」をスローガンにして、地域主権がこれからの時代といわえれる中で、市民の関心も地方政治に向きます。これまでの利権や既得権を得ていた人が得れなくなり、世の中全体の不景気の中で、景気の影響を受けにくい公務員や議員に矛先が向いていきます。
インターネットの発達も便乗して、これまで無関心だった地方自治体の議会が関心ごとになります。そういう意味でいえば、世の中は進歩したと言ってもいいのではないでしょうか。
三木の話になりますが、議会がどういう役割を果たしているのか?あらためて見ると何もしていないことが分かるのです。加古市長の時代は共産党以外は市長提案にほとんど賛成していたのではないでしょうか。市長さんは議会に相談をしてお伺いを立てていたようです。そういう意味では、昨日の記事でいう首長提案の99%が可決される状況があったのでしょう。
それが薮本市長になって、議会へのお伺いを立てなくなったようです。だから、それまで相談を受けていた議員は面白くないでしょう。それで、市長提案が通りにくくなったと思います。
そこで、前回の市議会選挙以降では市長派が誕生し、それ以外の新人も当選しました。様相がガラッと変わってきました。会派も現在6会派もあります。それぞれの立場で正しいと思うときは賛成するし、違うなと思えば反対するという正常な議会になったんだと思います。
私はこういう流れの先駆けとして薮本市長は大事な役割を果たしたと思います。しかし、今回の選挙で、市長の言うことがいつでも通る議会にしようとする動きにはやはりおかしいと言わざるをえません。
これは噂の範囲ですが、前回の市議選の後、政志会は政志会であり市長派ではないと市長についていた選挙のプロの人が言ったとか言わなかったとか。この人が言うのがまともだと思います。
薮本市長は三木市の議会の在り方を変えた先駆けだと思います。しかし、新しく生まれ変わりつつある(まだ不十分だという意味を込めて)三木市議会に違う形で首長提案99%が可決される状況に元に戻そうとすることは、彼自身の功績を自ら殺してしまうのではないでしょうか?