ブルキナファソは今日中45度、毎日乾いた埃混じりの熱風が、より肌を焦がします。毎年この時期になると親爺の思考力は無くなり、頭の中は熱眠状態になります。しかし、このようなことは自然界のことなので、それをどのように受け止めるかで大部分のフラストレーションは解消されるのですが、しかし人間誰しもわがままですな、まぁこれがあるからこそ適当に良い刺激となって成長していけるのかとも思いますが。
ブルキナファソにいると息が白いことや、コタツや氷柱などがとても恋しくなります。日本にいるときは寒い冬など早く暖かくならないかと春の訪れを心待ちにしていることがとても懐かしいのです。
親爺はなぜこんなクソ熱い埃だらけのブルキナファソに居るのかというとただ単にブルキナファソが好きだから、というだけではありません、「自分に対しての挑戦」、などというとカッコ良過ぎてしまいますが、一言で言うとこうなってしまいます。
親爺は4年前からブルキナファソの拘りもう5年近くになりますが、今まで何一つ満足に出来なくて、というのは何をするにも日本とは環境が大きく違うのです。
たとえば一番違うことは水です。日本では1年中雨が降り水はいつも身近にあるもので、ある意味では空気みたいなものですが、ブルキナファソでは1年に3ヶ月しか雨は降らないので水はとても貴重なのです。ですから水を如何に確保するかというところから物事は始まるといっても過言ではないでしょう。
それから、2番目に日本ではあまり公共設備のことは考えませんが、何をするにしても公共設備が必要です。日本では電気やガス、乗り物があるのは当たり前でしょ、でもブルキナファソではこのようなものはとても高くて一般の人々は使えないのです。何しろ一人の人は平均1日2ドル以下で過ごしているのですから。
そして3番目は教育です。日本では小学校から大学まで行くのは今では当たり前のことですがブルキナファソでは小学校に行く子供は約60%中学校高等学校は約20%、大学に行くのは1.5%なので、平均識字率も22%なので良い仕事につけることや、物事を改善することや様々な情報を得ることがなかなか出来ないのです。
このようなことから、ひとつ何かをするにしても日本に比べて何倍もの労力がかかるのです。
このような状況からブルキナファソで親爺はいったい何が出来るのか。
というより何かしてみたいという衝動に駆られて色々とやってはみますが自分が思っているような結果には至らず満足出来ないのです。
しかし、ブルキナファソの人はある意味ですごいと思うことがあります。それはフラストレーションがあまり無いのです。日本みたいに整った環境から、無い無い尽くしのこの国に住むと、とても不便さを感じるわけで、無い国の中でいくら望んでもそれは所詮無理というものですが、無い国に居ると時間をかければ何とかなるとか、あればあったほうが良いけど、とか、まぁどうにかなるよ、とフラストレーションをうまく処理しているのです。すなわち、結果はあまり重要でないことがすごいことだとつくづく思います。たとえば建物で言えば間取りや階段の寸法、壁の高さなどが違っているのですがあまり気にしないのです。つまり結果が悪くてもそれで自分を追い込まないわけで、それを称してフランス語で「sava aller」モレ語で「nanjyemsame」日本語で言うと「まぁ、いいじゃない」と軽く流してしまいます。この辺が日本のように「なければならない」国と「まぁ、良いじゃない」国にはメンタリティーの面でも大きな違いがあるようです。
ブルキナファソにいると息が白いことや、コタツや氷柱などがとても恋しくなります。日本にいるときは寒い冬など早く暖かくならないかと春の訪れを心待ちにしていることがとても懐かしいのです。
親爺はなぜこんなクソ熱い埃だらけのブルキナファソに居るのかというとただ単にブルキナファソが好きだから、というだけではありません、「自分に対しての挑戦」、などというとカッコ良過ぎてしまいますが、一言で言うとこうなってしまいます。
親爺は4年前からブルキナファソの拘りもう5年近くになりますが、今まで何一つ満足に出来なくて、というのは何をするにも日本とは環境が大きく違うのです。
たとえば一番違うことは水です。日本では1年中雨が降り水はいつも身近にあるもので、ある意味では空気みたいなものですが、ブルキナファソでは1年に3ヶ月しか雨は降らないので水はとても貴重なのです。ですから水を如何に確保するかというところから物事は始まるといっても過言ではないでしょう。
それから、2番目に日本ではあまり公共設備のことは考えませんが、何をするにしても公共設備が必要です。日本では電気やガス、乗り物があるのは当たり前でしょ、でもブルキナファソではこのようなものはとても高くて一般の人々は使えないのです。何しろ一人の人は平均1日2ドル以下で過ごしているのですから。
そして3番目は教育です。日本では小学校から大学まで行くのは今では当たり前のことですがブルキナファソでは小学校に行く子供は約60%中学校高等学校は約20%、大学に行くのは1.5%なので、平均識字率も22%なので良い仕事につけることや、物事を改善することや様々な情報を得ることがなかなか出来ないのです。
このようなことから、ひとつ何かをするにしても日本に比べて何倍もの労力がかかるのです。
このような状況からブルキナファソで親爺はいったい何が出来るのか。
というより何かしてみたいという衝動に駆られて色々とやってはみますが自分が思っているような結果には至らず満足出来ないのです。
しかし、ブルキナファソの人はある意味ですごいと思うことがあります。それはフラストレーションがあまり無いのです。日本みたいに整った環境から、無い無い尽くしのこの国に住むと、とても不便さを感じるわけで、無い国の中でいくら望んでもそれは所詮無理というものですが、無い国に居ると時間をかければ何とかなるとか、あればあったほうが良いけど、とか、まぁどうにかなるよ、とフラストレーションをうまく処理しているのです。すなわち、結果はあまり重要でないことがすごいことだとつくづく思います。たとえば建物で言えば間取りや階段の寸法、壁の高さなどが違っているのですがあまり気にしないのです。つまり結果が悪くてもそれで自分を追い込まないわけで、それを称してフランス語で「sava aller」モレ語で「nanjyemsame」日本語で言うと「まぁ、いいじゃない」と軽く流してしまいます。この辺が日本のように「なければならない」国と「まぁ、良いじゃない」国にはメンタリティーの面でも大きな違いがあるようです。
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