昨日だったか、みんなで翻刻で「温泉考」(序に寛政六年とある)を読んでいたら、次のような一節があった。
「惣身(そうしん)のほつこりとあたゝまりたる以後静かに湯壺の内へひたりて」
「ほっこり」というのはここ数年間で流行り出した表現のように思っていて、テレビで言われると、異質というか耳障りにさえ感じていた。だから江戸時代の文献に出て来たのは意外だった。ネットで検索すると京ことばに「ほっこり」という表現があり、極度の疲労を意味する言葉のようだ。この京ことばを身近に使って来られた人にとっても今の「ほっこり」の使い方は快いものではなくて、誤用という指摘もちらほら見える。
しかし、さらに調べてみると江戸時代には、ほっこり暖まるという表現が普通にあって、転じてふかした芋、という用例もあるようだ。目にした用例では江戸時代は物理的に加熱した場合が目につくのに対して、今は「ほっこりする話」のように心温まるという意味が多いようだ。
そして、現代の用例は今世紀に集中していて、二十年を遡るのは難しい。十五年か二十年前に何かで流行って復活した言葉のように思われる。私の本棚でも古語辞典にほっこりは出ているが、国語辞典には載っていない。最近のには出ているのかな。京ことばのほっこりが長い年月途切れずに使われ続けたのに対して、暖かい意味のほっこりは長い眠りについていたのを最近誰かが掘り起こしたということになる。このあたりが違和感の原因だろうか。
というわけで、暖かいさまという意味でのほっこりは江戸時代に用例があって間違いとは言えないようだ。でも、それでも、耳障りであることに変わりはなくてテレビのレポーターがにっこり笑ってほっこりと言ったらムッとしてしまう。誤用ではないことは理解した。だがしかし、チャンネルを替える権利を行使しない訳ではない・・・
【追記1】「狂歌かゝみやま」にほっこりが出てきた。書き出しておこう。
琉球のいもにはあらぬ里いもの名月ゆへかほつこりとせぬ (華産)
上述のように江戸時代の用例には「心温まる」みたいなものは見られなくて物理的に温度が高い状態ばかり出てくる。しかしこれは心情的なほっこりでも通用しそうな歌とも言えるし、ただ単にサツマイモではないからほっこりしないというだけの歌にも見える。まあ、タイトルのように否定形ということで貴重な用例なのかもしれない。
【追記2】同じく「狂歌かゝみやま」に、
淡路町の辻にて甘藷(サツマイモ)をうるを見て 紫笛
さかほこかいやほこほこのさつまいも荷をさしおろしうる淡路町
ほこほこのサツマイモ、と詠んでいる。考えてみると、ほかほか、ぽかぽか、ほくほく、ほこほこ、皆あたたかいさまを表現している。このあたりも引き続き探してみたい。
【追記3】「守貞謾稿」の蒸芋売の項に、
「売詞に「ホツコリホツコリ」ト云意ハ温ノ貌也」
とあり、京阪では蒸したサツマイモを「ホツコリホツコリ」の掛け声とともに売り歩いていたことがわかる。そして、ほつこりの意味を書いてあるところをみると、なじみの薄い言葉だったのかもしれない。江戸では焼芋売が主流だったとの記述もある。「ほっこり」は主に蒸芋で焼芋の用例はまだ見つけていない。すると最初の温泉の例もあり、湯気が重要なポイントなのかもしれない。語源を考える時に火の気ではなくて湯気という意味の火気(ほけ)が考えられるだろうか。また、この守貞謾稿の著者の喜田川守貞は京都には住んだことがなく、京坂にてとあっても主に大阪のことが書かれているという。すると大阪では蒸し芋売りがホツコリと言い、京都では別の意味のほっこりが使われていたということなのか、そこは少し不思議な気がする。京ことばのほっこりはどれぐらい時代を遡れるのか知りたいところだ。
【追記4】「狂歌ならひの岡」に芋売の歌、
冬夜 栗洞
風あらく吹たつる夜は芋売のほこほこといふ声も寒けき
とあり、追記3では大阪の芋売は「ホツコリホツコリ」とあったけれど、ここでは「ほこほこ」と聞いている。追記2でも声とは書いてないが「ほこほこ」とあり、狂歌では芋売のかけ声は「ほこほこ」のようだ。しかしこれは文字数の制約もあるのかもしれない。