7年前。
もう、7年も経ったのかと驚く。
あの日の事は一生忘れないよ。
今この時に、助け合わなければ人間として生まれてきた意味などないじゃない、そう思い衝動に駆られた。
あの日、駅前にいた私は慌てて家に戻り、小学校に娘たちを迎えに行った。
娘たちは涙目で抱きついてきた。
寒空の下、怯えるような目で子どもたちは保護者の迎えを待っていた。
交通機関は大混乱だった。
きっと迎えに来られない親がいるだろう。
そう思い、家中のひざ掛けや毛布を学校に届けたのが、私の最初の支援活動だった。
了くんのブログを見つけ、物資を彼に託そうと必要なものを送り始めたのが3月の終わりの頃だった。
私が送ったチョコレートを「もう2度と食べられないと思ってた」と言って、子どもが泣いて喜んでいたよと教えてくれた時も、私は東京でひっそり涙を流すしか出来なかった。
私にも子どもがいる。
娘たちを守らなければならない。
この先どうなるか分からない状況で、支援を続けることに葛藤がなかったわけではない。
でも、今この時に人助けをしなければ、この子たちの親として自信を持って生きていけるのだろうかと思った。
自分たちさえ良ければいいって、そんな風には生きたくなかった。
始めて宮城に足を踏み入れたのは、5月の事だった。
今、思い出しても胸が痛む。
何を思い出しても胸が傷む。
支援だ、人助けだ、ボランティア活動だ、と言ったって、何一つ助けてあげることなど出来なかった。
その場を離れてしまえば、ただの他人。
東京に戻れば普通に生きていける。
何もできない自分が情けなかった。
あの日。
初めて津波で泥だらけになったお家の片付けを手伝った日。
お家のお母さんが、どこで買ってきたのか、休憩の時にお菓子をいっぱい振舞ってくれた。
お茶を飲みながら、お母さんも交えてみんなで笑った。
すごいよ。
人間って強いんだ。
生きてることが奇跡という状況の中で、こんなにも笑顔でいられるって、本当にすごい事だと思った。
でも被災された方の中で誰一人として、自分は助かって良かったって、ただただそう思ってる人はいなかった。
あるお婆ちゃんは、自分は助かったけど誰も助けられなかったと、涙ながらに話してくれた。
足が悪くて、水が邪魔して、助けてあげる事が出来なかったと、涙を流していた。
毎日後悔し、苦しんでいる。
そんな姿に胸が締め付けられた。
家を失い、食べるものも着るものも失い、長年積み重ねてきた大切な思い出の品も失い、穏やかな日々を失い、それでもなお、後悔し苦しみながらの毎日を過ごしている。
自分を責めて続けている。
私がかけられる言葉など、何一つ見つからなかった。
黙ったまま、一緒に涙を流すしかなかった。
何もできなくてごめんなさいと、心の中で呟くしか、できなかった。
もうあれから7年。
明日生きてるとは限らない。
本当にそうなんだ。
何もできない自分に疑問を感じ、一体私は何をしたらいいのだろうと問うた時。
彼は私に「学んで下さい」と言った。
いま俺たちに出来るのは、学ぶことだけだと。
私は学んだ。
だから私は知っている。
今日、娘たちに愛してると伝えた。
急にどうした?と聞かれたけど、今日は3月10日だからねと伝えたら「あ、そうだったね」と答えた。
そして、愛してるよって言ってくれた。
娘たちもわかってるんだ。
3月10日は。
兵庫にとっての1月16日。
熊本にとっての4月15日。
今日生きてることは、当たり前なんかじゃない。
やりたいことをやろう。
やりたくないことはやらない。
楽しいことをたくさんしたい。
嬉しいことをたくさんしたい。
喜んでくれるかなってワクワクしたい。
ありがとうっていっぱい言いたい。
明日また、お月様綺麗だねって言いたい。
青空を見上げて、気持ちいいねって言いたいな。
亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、皆様の幸せを心よりお祈り申し上げます。
もう、7年も経ったのかと驚く。
あの日の事は一生忘れないよ。
今この時に、助け合わなければ人間として生まれてきた意味などないじゃない、そう思い衝動に駆られた。
あの日、駅前にいた私は慌てて家に戻り、小学校に娘たちを迎えに行った。
娘たちは涙目で抱きついてきた。
寒空の下、怯えるような目で子どもたちは保護者の迎えを待っていた。
交通機関は大混乱だった。
きっと迎えに来られない親がいるだろう。
そう思い、家中のひざ掛けや毛布を学校に届けたのが、私の最初の支援活動だった。
了くんのブログを見つけ、物資を彼に託そうと必要なものを送り始めたのが3月の終わりの頃だった。
私が送ったチョコレートを「もう2度と食べられないと思ってた」と言って、子どもが泣いて喜んでいたよと教えてくれた時も、私は東京でひっそり涙を流すしか出来なかった。
私にも子どもがいる。
娘たちを守らなければならない。
この先どうなるか分からない状況で、支援を続けることに葛藤がなかったわけではない。
でも、今この時に人助けをしなければ、この子たちの親として自信を持って生きていけるのだろうかと思った。
自分たちさえ良ければいいって、そんな風には生きたくなかった。
始めて宮城に足を踏み入れたのは、5月の事だった。
今、思い出しても胸が痛む。
何を思い出しても胸が傷む。
支援だ、人助けだ、ボランティア活動だ、と言ったって、何一つ助けてあげることなど出来なかった。
その場を離れてしまえば、ただの他人。
東京に戻れば普通に生きていける。
何もできない自分が情けなかった。
あの日。
初めて津波で泥だらけになったお家の片付けを手伝った日。
お家のお母さんが、どこで買ってきたのか、休憩の時にお菓子をいっぱい振舞ってくれた。
お茶を飲みながら、お母さんも交えてみんなで笑った。
すごいよ。
人間って強いんだ。
生きてることが奇跡という状況の中で、こんなにも笑顔でいられるって、本当にすごい事だと思った。
でも被災された方の中で誰一人として、自分は助かって良かったって、ただただそう思ってる人はいなかった。
あるお婆ちゃんは、自分は助かったけど誰も助けられなかったと、涙ながらに話してくれた。
足が悪くて、水が邪魔して、助けてあげる事が出来なかったと、涙を流していた。
毎日後悔し、苦しんでいる。
そんな姿に胸が締め付けられた。
家を失い、食べるものも着るものも失い、長年積み重ねてきた大切な思い出の品も失い、穏やかな日々を失い、それでもなお、後悔し苦しみながらの毎日を過ごしている。
自分を責めて続けている。
私がかけられる言葉など、何一つ見つからなかった。
黙ったまま、一緒に涙を流すしかなかった。
何もできなくてごめんなさいと、心の中で呟くしか、できなかった。
もうあれから7年。
明日生きてるとは限らない。
本当にそうなんだ。
何もできない自分に疑問を感じ、一体私は何をしたらいいのだろうと問うた時。
彼は私に「学んで下さい」と言った。
いま俺たちに出来るのは、学ぶことだけだと。
私は学んだ。
だから私は知っている。
今日、娘たちに愛してると伝えた。
急にどうした?と聞かれたけど、今日は3月10日だからねと伝えたら「あ、そうだったね」と答えた。
そして、愛してるよって言ってくれた。
娘たちもわかってるんだ。
3月10日は。
兵庫にとっての1月16日。
熊本にとっての4月15日。
今日生きてることは、当たり前なんかじゃない。
やりたいことをやろう。
やりたくないことはやらない。
楽しいことをたくさんしたい。
嬉しいことをたくさんしたい。
喜んでくれるかなってワクワクしたい。
ありがとうっていっぱい言いたい。
明日また、お月様綺麗だねって言いたい。
青空を見上げて、気持ちいいねって言いたいな。
亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、皆様の幸せを心よりお祈り申し上げます。