2007/07/14 記
文化その地域性と新たなる文化創出
「壱岐と対馬」・・・その風土と文化
※壱岐島は、福岡県糸島半島の高台から天気の良い日は望むことができる。 全体的に平べったい形である。 芦辺浦・郷ノ浦・勝本浦等「壱岐八浦」という漁港には、商人(貿易等)が集まり賑わっている。 昔は、壱岐の集落は農家が集合せず、一軒一軒離れ点在しているのは、数年ごとにくじ引きで土地の割り替えが行われた為という。 農村は村でなく触(ふれ)と呼び、その数99、触を数個まとめて在(ざい)いい、凡そ24個あった。
※対馬は、「山険しく、深林多く、道路は禽鹿(キンロク)の径(コミチ)の如し」(倭人伝)とあるとおり海からいきなり急激な山が立ちはだかって岩肌であり、山林も多く茂っている。したがって、農業には不向きで漁業を生業の中心とし、江戸幕府時代以前から中国・朝鮮・日本との貿易出入り拠点としての商業も盛んであった。
『水田農耕は清算の場であり共同体の社交の場であった。 家々との付き合いは・・・子猫の毛のように柔らかでなければならない。・・・皮膚が他人からの批判に極度に敏感になり、物笑い、噂を恐れ、人の言葉が刃物のようにかんじられてくる。・・・したがって付き合いと呼ばれる仲間内や村社会の習慣を出来るだけ律儀に守らねばならない。』
『漁村文化は、農村と違い一攫千金の可能性をもっている。 豊漁の時に貯蓄する気風がなく、沖へでれば魚がいる。 宵越しの金を持つことをいさぎよしとしなかった江戸の大工の精神に似通うところがある。 ・・・又板子一枚下は地獄という波間にあって魚を獲る時くそ丁寧な敬語など使いあっていられない。・・・明治の国定教科書に接するまで、紀州や泉州沿岸では、方言に敬語がなかった。』
『基層文化や人事文化(言葉遣いや鄭重さや他人への気配り等)は、農が濃いか、漁が濃いかという事につながる。 漁業は太古以来ごく最近まで命がけの仕事で、技術も難しいが、個々の才能で獲れ高が違うことは農の比でない。 農業は個々人の才能もあるが、勤勉であれば有る程度成り立つ。 この中で漠然とした倫理観念(つつましさ)が生まれた。 気候に反映され手間も掛かるが基本的に人間が作るというより自然が農作物を育てていく。 後は村内の人間関係に多くの時間と神経をつかう。』以上、街道をゆく13・「壱岐・対馬の道」(司馬遼太郎)より少々荒っぽく一部要約を抜粋し表示。
なるままに記
以前、 職場の友人 I さんのヨットで台風の様な暴風雨の中を対馬~壱岐~岐志まで航海したことを思いだす。 凡そ5m以上は有るかと思える波間に揺れる船上で友人の指揮のまま帆を操り舵を取る中で、沈むかも知れないという恐怖と波浪に身体を向かわせる爽快さとが入り混じった複雑な心境と共に、正に少年の様な冒険と勇気のアドベンチャー的な興奮に包まれた。 漸く唐津沖を過ぎ、糸島富士・可也山を望んだ時は、本当にホットした事を思いだす。
農村部と漁村部を中心とする地域性には、永年培われた独特の風土ともいうべき違いがあると思える。 糸島半島周辺においても、やはり農村部・漁村部・商業部のいずれを基盤として文化がそだったかにより、そのその指向性・地域性も暫時違っているのかも?
他から見ると、それぞれに善し悪し、長所短所がある様に思えるかも知れないが、その個性ともいうべきものも大切にし、愛すべきものかも知れない。
最近は、「地元もんと新参もん」との習慣や考え方の違いから問題や課題が発生することもあると聞き及んでいる。 地域創りの難しい側面かも知れないが、何れにせよ永年培われてきた文化を大切にし育みながらも、新たなる文化創造への取り組みに挑戦を開始すべきではないだろうか?
一市二町合併についても、その善し悪しは兎も角、伝統文化の違いや町んもん、村んもんとかの習慣の違い等もお互い理解しあう必要性が有ると思える。
『やろうとすれば方法は見つかる。 路というものは、人が歩けばできるもの。
歩こうとさえすれば、路は自ずから開ける。』
(中国文豪・科学技術大学初代学長:郭末若 カクマツジャク)
『飛び込まない者は、海を渡れない。』 (ベネズエラの格言)・・・とか。
今後とも、善意の人々の結集による時代・社会変革への取り組みに挑戦し続けて参りたい。・・・ッテカ! チョット格好付けすぎたかなぁ~。
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