城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第十三回・お礼参り・後編>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
前回12回の引き続き、今回は善光寺さんのお礼参りになります

今回でいよいよ最終回となりました。
満願致しましたので、信州信濃の「善光寺」さんへお礼参りに行って来ました
無事に巡礼でき、めでたく今日の日を迎えられましたことに感謝してお参りにお付き合い下さい
 
第13回、前編に続き後編になります
 
 

ホテルに宿泊の朝、気が付けば、流石善光寺お膝元、ホテルの南側はお寺です。曹洞宗黄梅山「栽松院

「嶋の天神」と「栗田街道(しまんりょ小路)
名主、造り酒屋の菊屋が建てた如意輪観音堂、尾上出世不動尊を祀る栽松院は、南北を川に挟まれた中洲で、島の寮(しまんりょ)と呼ばれ、南の道・しまんりょ小路は、くしくもこれから向かう善光寺への、栗田街道だったのです

こちらは善光寺さんの境内案内図です。ご参考に・・

この南の中央通りから北へやってきた所です

振り返るとそこはもう善光寺の入り口参道で、常夜燈が迎えてくれます

左手は法然上人を宗祖とする浄土宗の「大本願」です
『一光三尊像を招来した際に、大臣蘇我馬子の姫君を天皇御杖代として遣わされて守護にあたらせたのが大本願の起こりで、この方が開基尊光上人であります。尼公上人をもって住職とし、代々皇室関係の方々が入山されています。今日では大本願の上人様のみが法灯を継承されております。大勧進の貫主(かんす)と共に善光寺住職を兼ねており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕されます。』(善光寺大本願HPより引用させて頂きました)

その先に「仁王門
『宝暦二年(1752年)に建立されましたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、現在のものは大正七年(1918年)に再建されました。この門には善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられています』

  

「仁王」様

『仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に高村光雲・米原雲海の作であり、その原型は善光寺史料館に展示されています』

 

門の裏側には「三面大黒天」   「三宝荒神」もお寺を守っています

仁王門を潜ると仲見世がずらりと並びます。仏具やさん、お菓子屋さん、お土産屋さんなどお店が両側に沢山、山門近くの境内入り口まで続きます

信州名物蕎麦、おやき、お漬物など様々なお店屋さんに混じって、途中左手に「如来堂旧地」という石碑があり、「延命地蔵菩薩」もお祀りされています

仲見世が切れると境内になりその入り口に「駒返り橋」の札があります
「石橋は、建久八年(1197年)源頼朝が善光寺を参詣した時に、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという話から「駒返り橋」と呼ばれています』

『その馬蹄の凹みは現在も「駒返り橋」の左側に見ることができます』

境内右手には「六地蔵」さま
『宝暦九年(1759年)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されましたが、昭和十九年に金物供出に出されてしまいました。現在の六地蔵は昭和二十九年に再興されたものです』

『六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界で我々衆生を救ってくださる菩薩様です』

続いて「ぬれ仏」(延命地蔵)が現れます
『享保七年(1722年)に善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊です
江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれています』

そして左手には伝教大師・最澄を宗祖とする天台宗「大勧進
『大勧進の住職は貫主(かんす)と呼ばれ、大本願の上人(しょうにん)と共に善光寺住職を兼ねています。
貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕されます。』
『勧進とは人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進することであり、この名を寺名にした大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました 
 弘仁8年伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております 
 大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねております。』(本坊大勧進HPより

大きな「山門(三門)」です
『寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門です。屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなりましたが、平成十四年から十九年にかけて行われた平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されました』



『楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っています』
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『山門は従来の檜皮葺屋根から建立当初の栩葺屋根に復原され、国内に現存する最大の栩葺建造物として甦りました』

見事な獅子の彫り物が施された物とこれまた美しい蟇股

山門を潜りやっとたどり着きました「善光寺本堂」です
どの宗派にも属さないお寺で、浄土宗「大本願」と、天台宗「大勧進」により護持されています

『「善光寺縁起」によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました』

『7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期・12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました』

『戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされましたが、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き、一生に一度は善光寺詣りをと、多くの人々が参詣されました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴でした』

『現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。(中略)(戦国時代をへて)最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました』



『現在の本堂は宝永四年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。間口約24メートル、奥行き約54メートル、高さ約26メートルという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。屋根は総檜皮(ひわだ)葺きです』

『善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっています。しかし、御本尊様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません

『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと語られています』

 

ご開帳のときに立てられる「回向柱
ご本尊様のご開帳は絶対秘仏のため拝見は出来ませんが、数え年で7年に一度、前立本尊御開帳が行われ、この回向柱と前立御本尊の右の御手に結ばれた金糸が善の綱となって結ばれることは出来、柱に触れる人々に、み仏のお慈悲を伝えてくれます
御本尊と糸で結ばれるといえば本道の地下に「お階段巡りと」云うものがあり、『お戒壇巡りとは、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場です』

幸いにも今年がご開帳の年、(丑年・未年の未年になり)その数え年で7年に一度の年に当っております
4月5日から5月31まで57日間盛大にご開帳法要が催されますので皆様方においても、ご先祖の供養に是非ご参拝されましたら如何かと思います

回向柱の向こうに何か見えています。

 

爪彫如来像

『親鸞聖人が当山へ滞在(100日間)された折に残された爪彫りの阿弥陀如来と伝えられており、古来より眼の病を救ってくださると人々に信仰されています』

親鸞さんに まつわるものは他に『びんずる尊者像の脇に、一本の松が生けられています。これを親鸞聖人お花松とよんでいます。
鎌倉時代、親鸞聖人は、配流先の越後から関東へ向かう途中、善光寺に参拝され、百日間逗流され、その折り善光寺本尊に松の木を奉納されました。松は常緑樹ですので、一年中ご本尊をお祀りしたいとの思いが込められたのでしょう。お花松は聖人が奉納されたこの松に由来しているといわれています』

「爪彫如来像」の東のほうに建つ「経堂」です
『宝暦九年(1759年)に建立された宝形造りのお堂です。内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められています』

『輪蔵に付属している腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれています。また、経蔵内には輪蔵を考案した傅大士、並びに伝教・慈覚の両大師像が祀られています。』残念ながら現在修理中でその様子は拝見できません

経堂の西斜め向かいにの「聖徳太子碑
仏教伝来の祖として信仰を集めると共に、大工・左官などの職人の守護神としても篤く祀られてきました。善光寺は聖徳太子とのご縁は深く、善光寺縁起には善光寺如来と太子が文を交わした話が説かれています(案内板より)

赤門
「大勧進」の一部大勧進には本堂の万善堂の他、無量寿殿・不動堂・地蔵八角円堂・紫雲閣・宝物殿・僧侶が修行をする聖天堂などがあります。

厄除け不動尊
立派な現代建築でした。御真言「ノーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカロシャーナソワタヤオンタラタカンマン」と長いですね

こちらは「地蔵八角円堂」八角堂はあまり見かけないですね

大勧進内より眺めた眺望

同じく「山門」・雪景色が何んとも趣がありますね

こちらは境内の「鐘楼と梵鐘
『嘉永六年(1853年)に再建された檜皮葺の建物で、南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられています。
梵鐘は寛文七年(1667年)鋳造の名鐘であり、重要美術品に指定されています。毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として、更に長野オリンピックの開会を告げた鐘として親しまれています』

境内でもっとも北に建つ「日本忠霊殿・善光寺史料館
『戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟です。御本尊は秘仏の善光寺如来様の分身仏です。(高村光雲門下 関野聖雲作)』

『1階には善光寺所蔵の什物を展示する「善光寺史料館」が併設され、絵馬などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができます』

バスツアーではこちらで講話をお聞きし先祖回向などの供養の申込をして、本堂で一人一人の供養者の名前を読み上げて頂き、回向のお経を上げて頂きました

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チョット変わったところで善光寺と謡曲のつながりを語る「供養搭」がありました

「土車」のお話が紹介されていました

善光寺さん参拝は巡礼のお礼と先祖供養のお参りでした
ツアーでよかったのは日本忠霊殿での仏教伝来から一光三尊阿弥陀如来がお祀りされるようになった由来や、三十三カ所を巡礼するのではなく「順拝」する意味などの講話を聞かせて頂いたことが有難かったですね
尚、説明文『』については善光寺さんのHPより引用させて頂きました

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明治までは満願お礼参りの参拝者は善光寺本堂で宿泊されておりましたが、今では沢山の坊が出来ており、宿坊に泊まるようになりました。ツアーでは宿坊泊もあり、こちらの「常智院」で半数の方が泊まられ、「朝事(あさじ)」といって朝の読経に参拝でき、お数珠頂戴も受けられます



宿坊の二軒隣は「釈迦堂」でした



重要文化財の天延年間に漁師が引き上げた「釈迦涅槃像」と市文化財の「毘沙門天像」がお祀りされていました

と云うところで、

善光寺さんのお礼参りもここまでです。そして西国三十三ヶ所巡礼満願お礼参りも純白の雪景色を眺めながら清清しい気分で無事終わりました

今回のお礼参り、三十三ヶ所順拝は先祖を供養し、又、これからの自分を見つめ直し生きて行く上に大切なものを学んだ気がします。文章には書き表せませんでしたが、何か心に残るものがありました
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と弥陀の称号を唱えてお終いとしましょう

1年間お付き合い戴きお疲れ様でした
有難う御座いました
また機会がありましたら巡礼の旅をUPできれば良いかと思っています

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