では第12回を2014年12月11日に行ってきました。
え!11回が抜けているって・・
いいえ、順序が前後しただけで5回目に行っております
今回で目出度く満願になります。なにやかやともたもたしていましたが、1年間はあっという間でした。先ず無事に巡礼できたことに感謝しましょう
ここ近江八幡の433mの繖山(きぬがさやま)の山頂近くに「観音正寺」はあります
麓からの参道は三十三ヶ所中の難所として知られています
この立て札の下に曲輪があったようです
この観音寺山(繖山)に中世の頃立てられた、近江守護佐々木六角氏の居城跡だから屋敷跡もあったのですねです
・虎口になっていたようです
どうやら形が似ているらしのですが、私には見えませんでした
鐘楼が見えました。観音正寺に着いたようです。生憎の雨、山の中なのか霞んでもやっています
驟雨に霞んだいい佇まいですね
樽に茅葺屋根、風流と云うのですかね
「大日如来」と「子授け地蔵」
一名濡れ仏「釈迦如来坐像」・法界定印のお姿
またまた出てきました、観音寺城表門への道のようです
道標がままたまた判読できません
この杉は「白龍大明神」のご神木でお姿は白蛇です。21日、37日と日を限って祈念すれば成就すると云われます。後ろ側にはお地蔵様がおられます
「観音堂」・びわ湖百八霊場70番札所でもあるようです
「護摩堂」
『このお堂は繖山修験道の根本道場で、如来や不動尊が祀られている。当山の完?成?十五年に亘り、江戸末期から途絶えていた繖山回峰行の行法を整理復元した。その後、平成十三年繖山を毎日百日間回峰し回峰行を?満行した?当山の修験道を復興した。現在??三月の山開や11月の山閉めと年二回雪山の修験者はこの霊場に参集し回峰行を行っている。回峰行は歩くことが目的ではなく二百数十箇所に及ぶ祈願所を回る巡礼の行である。このお堂には修験道の開祖役行者も祀られており毎月二十八日には菩?薩?法要厳修されます』(案内板より)
中世には修験道場だったようです
境内一番奥(西)こちらが「第三十二番繖山観音正寺」本堂です
1400年前に聖徳太子により開創されました。
寺伝には人魚にまつわる伝説が残ります
『推古天皇の御代、近江国を遍歴していた聖徳太子は湖水から浮かび出てきた人魚と出会います。人魚は「私は前世漁師であり、殺生を業としていたため、このような姿になりました。繖山にお寺を建て、どうか私を成仏させてください」と懇願しました』
太子近江国創建の十二箇寺の一つです
ぎっしりと並ぶ千の手が光背を形作っております(お姿はポスターより)
『鎌倉・室町時代には、近江国守護職佐々木六角氏らの庇護を受け、おおいに隆盛し、三十三の塔頭を擁したといわれています』「ところが応仁・文明の乱以降、寺は兵乱に罹ったり、守備上の障害として移設されるなど、一転して苦難の路を辿ります』
「抱きつき柱」
台風で倒れたヒノキの木を調べてみたら、節がちょうど33ヶ所あるということで、本堂再建の際に使用されたのだそうです。これに抱きついて祈れば、33ヶ所分の功徳があるのだとか
『そして永禄11年(1568)織田信長により六角氏が滅ぼされたのちは、慶長11年(1606)に教林坊の僧、宗徳法橋の尽力で現在地に復興されるまで長らく荒廃することとなります』
本堂裏に立つ「紫雲殿」・永代供養納骨堂
『明治期、彦根城の欅御殿を拝領して本堂としましたが、平成5年(1993)その本堂を焼失するという憂き目を見ることとなりました。平成16年ようやく新しい本堂が落慶しました。』(観音正寺の説明は何れも観音正寺HPより)
中国天台山国清寺・「不滅の法灯」国土安穏法灯を分灯され守り続けていらっしゃいます
本堂東脇には大きな石を積み上げた山があります
「縁結びの地蔵尊」
私達は、お地蔵様や仏様たちにお願いをしますが、ともすれば忘れがちになるのを、縁結びの紐を身につけることにより、祈願をしている事を忘れず、願っていることに気付くのが、縁結びの紐だそうです
その縁結びの紐を受け、祈願するお地蔵様です
石の上には幾体かの観音様がお立ちです
「聖観音」でしょうか
蓮の花弁にお立ちです
おや!これはもしかして「人魚」ではないですか
聖徳太子観音正寺起こり縁起に登場するあの人魚ですね
それでは人魚にお別れをしていよいよ西国三十三ヶ所巡礼の満願の聖地、三十三番札所に向かいましょう
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