カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、8

2016-07-24 04:56:19 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

◆ 人はなんのために生まれたか

 キリスト教によれば、人は神の光栄と来世の幸福のためにつくられたと申します。神の光栄とは、わたしたちの生活を通して神の限りない知恵、限りない力、限りない美、限りない愛などをあかし、そのみ名をほめたたえることです。つまり、わたしたちが持って生まれた才能をできるだけ発揮して文化を高め、幸福な社会をつくり、神のみ心にしたがって生きることです。学者が研究によって真理を発見し、それを生活に生かすことは、神の光栄になります。芸術家が音楽や彫刻を通して自然の美をたたえることも、神の光栄になります。農夫か農作物をよくつくって人々の生活に供することも、神の光栄になります。ことに、神か定められた人の道をわきまえてそれを実行し、神がよみせられるようなよい生活を送ることは、すべての人に負わされた神の光栄のわざというべきでしょう。

 来世の幸福は、神がわたしたちをつくられた神の最終の目的であって、わたしたちがこの世の使命をはたした後に、その報いとして与えられる神と共に生きる無限の喜びです。来世の幸福は、善行の報いですから、功績の大小によって幸福にも大小があります。以上のような神の計画や人の大きな使命が理解できたら、だれでも最善を尽して、生き甲斐のある人生を送るように励まされるでしょう。

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、9

2016-07-24 04:55:46 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

◆ 人間の罪と死の結果

 人間の不幸は、すべて罪の結果です。人は神の光栄をあげ、来世の幸福を求めてこの世に生を受けたはずですが、罪の結果、神から離れて、知恵が暗み、心が弱く、あやまちを犯しやすくなって、不幸や災難に苦しむようになりました。聖書によれば、はじめに神からつくられた人は、神の超自然の恵みを受けて、知恵は明らかに心は.正しく、苦しむことも死ぬこともないはずでした。ところが、悪魔の誘惑に負けて神に背いたので、それらの恵みを失って神から離れ、不幸や災難を招き、死をもまぬがれぬようになりました。人祖が犯した罪は、その子孫にも伝わり、人は生まれながらその罪と罰を負っているのです。

 神は、そのような人間の堕落をごらんになって心を痛められたにちがいありません。そこで、人間をあわれんで、これを救うために救い主をつかわす約束をしてくださいました。そして、その準備として、遠い昔から予言者をつかわし、いろいろの方法で、人々が神に立ち帰るようにお導きになりました。とくに今からおよそ四千年前に、アブラハムを選んで、その子孫をご自分の民として育て、神への信仰と救い主への希望をはぐくむように、計らわれました。その長い期間を旧約時代といいます。

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、10

2016-07-24 04:55:24 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

3、救い主イエズス・キリスト

◆ イエズス・キリストの生涯

 人間の救いを計画された神は、時がみちるのを待って、おん子イエズス・キリストを救い主として、この世へおつかわしになりました。キリストは、西暦紀元前六年ごろ、今のイスラエル王国ベトレヘムにお生まれになりました。ご誕生のとき、東の国から三人の賢人が拝みに来て、キリストがユダヤ人の王であり、人類の救いであることを認めました。その後、ヘロデ王の迫害をさけてエジプトにのがれ、ガリラヤのナザレトヘおもむき、両親のもとで生活なさいました。そして、およそ三十歳に達したころ、救い主としての活動をはじめられました。

 キリストはまず、ヨルダン川へ行って、洗者ヨハネから洗礼をうけ、荒野へ退いて断食し、そののち十二人の使徒を選んでかれらといっしょに、パレスチナ地方をめぐり、神の国の福音をお説きになりました。福音とは神の国についてのよい知らせで、キリストによる救いの教えであります。すなわち、神がキリストを通して人々を罪から救い、超自然の恵みを与えて、永遠の幸福にあずからせることであります。キリストは、およそ三年間、宣教に従事して、人々を改心に導き、ひじょうに大きな成果をおさめられました。そして.不正な権力を正し、しいたげられている人々を助け、正義と愛を実行させるためにファリザイ派の人々の専横や偽善を強く責められました。それがために、かれらの激しい怒りをかって、社会の撹乱として総督に訴えられ、かれらの偽証によって死刑を宣告され、十字架にかけられて殺されました。それから、三日目に復活し、使徒たちや多くの人々に現われて復活を証明し、四日日にオリベト山から天にのぼられました。復活は、もとの体に生き返ることではなく、霊的体を以って正しく生きることであります。いま、キリストは、目に見える体では地上ににおいでになりませんが、聖霊を通して、つねに私達の心にお住いになります。そして、この世の終わり際して、すべての人をさばくために、ふたたびこの世に来られます。

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、11

2016-07-24 04:54:21 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

3、救い主イエズス・キリスト

◆ キリストは神である

 イエズス・キリストは、神は一体であるか、おん父とおん子と聖霊というお三方の人格をもっておられるとお教えになりました。おん父は、おん子と聖霊の源であり、おん子はおん父から生まれ、おん父の完全な姿であって、人々の救いのために人となられたイエズス・キリストであります。ですから、一体の神から見ても、人として生まれた点から見ても、キリストは、真の神ということができます。

 キリストが神の子であり、まことの救い主であることは、キリストご自身の言葉によるばかりでなく、予言や奇跡によって証明されます。予言とは神のしめしによって将来のことを予告することで、キリストに関する予言は、ご誕生をはじめ、いろいろの出来事について、数百年も前から述べられておりました。また奇跡は、神の全能によって行なわれる自然の力をこえた不思議な出来事で、キリストは一言でらい病や盲人をいやし、足なえを立たせ、死人をよみがえらせるなどして、神のおん力をお示しになられました。ことに奇跡中の奇跡は、死後三日目によみがえられたことであります。キリストにまつわる予言や奇跡は、使徒たちによって証明され、また使徒たちをはじめ多くの人々が、いのちをかけてその信仰をあかししたことによって証明されます。

 キリストが人々の罪のつぐないとして献げられた「いけにえ」は、おもに最後のご苦難とご死去です。そのいけにえによって、神と人間との和解がなり立ち、人は神の子としてふたたび神に受け入れられるようになりました。キリストは、このすばらしい恵みを、教会を通して人々に分ち与えるようにはからわれました。

志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』、12

2016-07-24 04:53:45 | キリスト教入門
志村辰弥神父『キリスト教について - 神の示しによる人の道』

4、イエズス・キリストの教え

 イエズス・キリストの教えの根本は、愛であります。神が人々の救いのためにおん子をこの世におつかわしになり、そのおん子は、神でありながら身をひくくして人となり、苦しみを受け、十字架にかけられて、いのちまでも献げられたことは、全く考えも及ばない限りない愛からでした。そこで、キリストか説かれた愛とはどんなものか、聖書の言葉を借りて紹介しましょう。

◆ 愛は最大のおきて

「ひとりの律法学士がイエズスを試みるために、”先生、律法のうちでどのおきてが一番大切ですか?”と尋ねた。そこでイエズスは、”あなたはすべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて主なる神を愛せよ。これが第一のおきてである。第二のものも、これに似ている。隣人を自分のように愛せよ"とお答えになった」(マタイ22.36-40)。