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第7章 封建時代と聖会

2018-07-03 04:08:23 | 教会史
「第7章 封建時代と聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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鉄の世紀とは、いつごろを指すのですか

9世紀の半ばごろから10世紀にかけて、カール大帝の築いた帝国はくずれおち、国王の勢力は衰えて、外敵を防ぐこともできなくなりましたので、地主も農民も、有力な諸侯の城下に避難して、その保護を願うより外はなかったのです。
そのために諸侯は次第に勢力を得、兵馬の大権をにぎって独立の姿となり、このようにして政治上、社会上の組織が一変して、封建制度の確立を見るに至りました。

そして、諸侯はお互いに攻めたり、攻められたり、撃ったり、撃たれたりして、為に世は暗黒時代となり、罪悪は時を得、顔にはびこるに至りました。
よって後の歴史家は、第10世紀を「鉄の世紀」とよびます。

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第10世紀の聖会は何をなしましたか

第10世紀は鉄の世紀で、諸侯はたがいに戦争を事とし、寧(やす)き日とてもなき有様となりました。こうした乱世に当たって、聖会は2個の奉仕をしました。
まず、悩ましい涙の谷の向こうに存在する別種の輝かしい世界をほのみせて、世の苦しみをたえ忍ぶ勇気を与えました。次に、暴力以外に尊重すべき物のあることを教えました。傲慢不遜な諸侯も、司教や修道院長の前にはおのずと頭があがらず、その道義的、超自然的な力を感じ、謹んでこれに従わざるを得ないのでした。

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聖会はどのように諸侯を教育しましたか

毎日毎日戦争の絶えることのない当時の社会は、常に敵を前にしている軍隊のような組織になっていました。農民は、諸侯の保護の下に土地を耕し、種をまき、牧畜を営むことができました。封建制度はこのような乱れた世の中には最も適したものであったのです。

その間にも、聖会は無学な諸侯に学問を奨励し、暴虐な領主の心を和らげて慈悲、温良にならせるようにつとめ、彼らに平和的施設、博愛事業、学芸などの趣味を見出させることに成功しました。

(1)平和的施設--
当時水車を建て、パン釜を築き、圧搾機を作り、橋を架け、道路を敷くなどの資本を持ったものは諸侯だけでした。聖会は彼らを指導して、こうした平和的施設に力を致させました。なお、彼らは領民に所有権を尊重せしめました。
ノルマンディ公ロロは、自分の金の腕輪をカシの木にぶらさげておきましたが、3年の間もそれに手を触れる者はなかったくらいでした。

(2)博愛事業--
諸侯は、慈善事業の為に物を惜しまず、病院などを増設しました。病院を見て領主の支配権を認めるという程でした。

(3)学芸--
諸侯の中には、有名な美術家、著作家、詩人となった人も少なくはありません。
シャンパーニュのチバウが書いた唱歌集、ウィルハルドゥエンやジョンヴィルの筆になった記録は今に残っています。

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聖会は人民の為に何をしましたか

聖会が諸侯を強化、善導したのは、つまり人民の為に働いたのです。
為に彼らの生活状態は日にまし工場し、賃金は高く払われ、生活は安価となりました。特に聖会は作業を自由にし、福音的正義の観念をあまねく広めるために働きました。

我が国の西洋史家の中には、「紀元1000年には世界が終わると信じて、今はあらゆる事業を中止し、ただ信心三昧にふけるのであった」等とたわごとを言う人があります。
それこそ全く根もない作り話で、古い記録をあさって見ますと、一千年前後にも人々は戦争をしたり、聖堂や修道院を建てたり、土地の開墾に従事したり、平生どおりの生活を続け、何らことなる所はないのでした。

結び--
聖会はただ来世の幸福を約束するだけに満足しません。
こうした不幸のどん底に居る人々も、また聖会の御陰で信仰を得、天主の御旨におまかせをして、幸福を見出すのでありました。


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第6章 カール大帝と聖会

2018-06-24 01:57:10 | 教会史
「第6章 カール大帝と聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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聖会は蛮族を改宗させてから何をしましたか

蛮族を改宗させてから、聖会はフランス王と手を携えて、その使命の達成に邁進しました。
ローマ皇帝はローマを去って都をコンスタンチノープルに移しましたので、教皇がその後を引き受け、蛮族に対してローマを防ぎ守ると共に、また貧者の救済をも担当しました。
教皇はずっと以前から信者たちの寄進により、各地に「聖ペトロの遺産」と称する広大な土地を所有していましたので、ローマ及びイタリア住民の為に、惜しげも無く、救いの手を伸ばすことができたのであります。

さて、クローヴィス王の後継者は有名無実の「ぐうたら王」となって、
一切の権力は宮宰の手に帰してしまいました。
751年、宮宰ピピンは、国王を廃して自ら王位につき、教皇ステファヌス2世の手より祝聖式を受けました。
時に、北イタリアのロンバルド王が侵略をたくましくし、ローマが脅かしましたので、ピピンは教皇の要請を容れて、兵をイタリアに出すこと2回、ロンバルド王を降して、その征服した22の都市を教皇に贈呈して、「聖ペトロの遺産」に加えました。
教皇の俗領は、ここに始まったのであります。

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それからどうなりましたか

ピピンに継いで、その子カール大帝(シャルルマーニュ)が立ちました。
ロンバルド国を滅ぼし、その王を捕えてフランスに送り、父王の贈呈した教皇領を確認したのみならず、更にこれを加増しました。

紀元800年、カールは教皇レオ3世から帝冠を加えられて、西ローマ皇帝となり、その英才を発揮して、領土を広める一方、また、広く福音を宣伝し、大に文化を進めました。
国内にはキリスト教精神にしっくりはまった法律を発布し、聖職者を助けて、各地に修道院や病院、療養所などを新設しました。
都のアーヘンには有名な学者を招いて、宮廷学校を創立し、各司教館、及び各修道院には、附属事業として必ず学校を設けさせ、後では都市村落の別なく、聖堂の傍らには、それぞれ学校を開き、民間の子弟を無料入学させました。

帝はまた、聖地の保護者となり、バグダッドのイスラム教主は、帝にキリストの御墓の鍵を贈りました。
近東地方におけるフランスの保護権は、ここに始まったのであります。

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その後聖会はどのような試練にもまれましたか

カール大帝の死後、その国はフランスとドイツとイタリアとに分かれて相争い、為に国勢が次第に衰えはてたのに乗じて、北方からはノルマン族、南の地中海放免からはサラセン人(イスラム教徒)、東からはハンガリア人が侵入して、家を焼き、財をかすめ、人を殺し、乱暴の限りを尽くしました。

聖会は彼らを改宗させて文化に導くため、以前に劣らぬ努力を重ねねばなりませんでした。

しかし、聖会の為に最も耐えがたい試練は、東教会の分離でした。
コンスタンチノープルの総司教は、東ローマ皇帝の支持をたのんで、東教会の教皇になろうとし、信徒をひきつれて、カトリック教会から離れてしまったのです。(859年と1053年)この離教は、不幸にして今日までも続いているのであります。

結び--
西ローマ皇帝の権力は全く宗教的で、教皇を助けてキリスト教を保護し、特に教皇領の防衛に当たり、キリスト教の発展、拡張、異教徒の改宗を図らねばならないのでした。

(戦いの絵は、トゥール・ポワティエの戦い)
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「第5章 蛮族と聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

2018-06-21 01:35:13 | 教会史
「第5章 蛮族と聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

22
その後、ローマ帝国はどのような運命に見舞われましたか。

ローマ帝国は、北の方から侵入してきた蛮族に踏みつぶされ、滅ぼされてしまいました。ただ残ったのは聖会だけで、次から次へと流れ込む蛮族を食い止め、ギリシア、ローマの文芸を保護して、その命脈を保ったのは、実に聖会の力でした。

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どのような蛮族が侵入してきたのですか。

ローマ帝国は、ライン河、ドナウ川を境としていましたが、それらの川の向こうには、ゲルマン族が住んでいまして、しばしばローマ帝国内に侵入を試みたものでした。
5世紀のころ、ローマの勢力が衰えるに乗じ、西ゴート族、東ゴート族は相次いでイタリアになだれ込み、西ゴート族は進んでイスパニアを取り、フランク族はガリアを、アングロサクソン族はイギリスを占領し、ブルゴンド族は東フランスに、ロンバルド族は北イタリアに国を建てました。
そして、それらの蛮族の中で、フランク族と、アングロサクソン族とは、偶像教徒でしたが、その他はすべてアリウス派の異端を奉じていて、随分とカトリックを迫害しました。

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蛮族に抵抗を試みたものはいなかったのですか

ローマ帝国は、十分の兵力を有せず、官吏は敵兵が近づくや、おそれて逃亡しましたので、民衆を励まして防戦につとめたのは、ただ、カトリックの司教たちだけでした。
聖アウグスチヌスは、ワンダル族がヒッポの城を囲んだときに、城兵を励まして、最後まで抵抗させ、オルレアンの司教、聖ユニアンも、市民を引き立てて、アッチラの大軍を食い止めさせました。

彼らは百計尽きて、また、どうすることもできなくなるに至るや、十字架を先頭に立て、敵前に進んで説諭を試みました。
こうして、トロイの司教聖ルー、教皇聖大レオは、アッチラに説いて退軍させ、
聖女ジュヌヴィエ-ヴはパリを救いました。

それにしても蛮族の通過した後は、ただ一面の荒野原で、家は焼かれ、耕地は荒らされ、商業は中絶し、警察は跡をたち、世はこぞって野蛮の状態に逆戻りしました。
このときに当たって、社会の公益を図り、弱きをたすけ、悩めるを慰め、物質上、道徳上の再興を指導したものは、ただ、司教たちのみでした。
彼らこそ、実に都市村落の首領、かつ保護者であったのであります。

25
蛮族はどのようにして改宗しましたか

フランク族のクローヴィス王は、聖女クロチルダというカトリック婦人を妃としていましたので、その勧めにより、また、ひとつは戦いに臨んで負けそうになったとき、「クロチルダの神よ、我を助け給え」と祈って、大勝利を得たために改宗し、紀元496年、部下3000人と、レンスの天主堂で洗礼を受けました。
蛮族中で真っ先にカトリックに改宗したのは、このクローヴィスでしたから、
フランスは「聖会の長女」と呼ばれるに至りました。

26
聖会はどのようにして、これらの蛮族を文化に導きましたか

ヨーロッパの諸民族を改宗させ、これに文化を導き入れる為に働いたのは、ベネディクト会の修道士たちでした。
一体、ローマ帝国を滅ぼして、その跡に国を建てた蛮族は、血に渇くトラ、血に渇くオオカミのような荒々しい野蛮人でした。
たとえ洗礼は受けても、なかなか以てその野性を失わず、相変わらず戦闘、略奪、殺戮をこれ事としたものです。
でも、ベネディクト会の修道士たちは、いたるところに学校を建て、養育院、病院などを設け、戦好きの武人等に謙遜、柔和を説き、次第に戦争の悲惨な状況を厭わせ、そのかわりに、文芸や科学の研究に心を向かわせるように努めました。
なお、一般民衆には、定住と労働の鑑を垂れるいっぽう、また、山林を開墾し、沼沢を干し、鋤を操り、ぶどうを栽培し、果樹を接ぎ木し、道路を開き、水路を設けて感慨の便を図るように教えました。

要するにベネディクト会の修道士は、蛮族の侵略によって踏み倒され、瓦や石のごろごろした廃墟からヨーロッパを再興したのです。
文芸と農耕と青年教育とをもって、この復興事業を完成したのでありました。

27
古代の名著、大作が今日まで伝わったのは、誰のおかげでしたか

宗教に関すると否とを問わず、古代の名著大作が今日まで遺ったのは、かれら修道士のおかげでした。
当時、活版術は発見されていなかったので、彼らは余暇を利用して、古い書物の写本に従事し、聖書は申すまでもなく、ギリシア、ローマの詩歌、文学、哲学書などをこつこつと筆写し、これを広く世にわかち、当世の文運を助けると共に、またそれを後世に伝えてくれました。

28
ベネディクト会からどのような人物が輩出しましたか

ベネディクト会の修道院は、最も盛大に赴いたときには、3万7千を数え、それから24名の教皇、幾千名の司教、5000人以上の聖人を輩出しました。

29
教育事業に対する功績はどうでしたか

各修道院には、2種の学校が附属していました。
ひとつは、院内にあって、修道志願者を教育し、一つは院外にあって、世俗の青少年を収容したものでした。

修道院学校の外に、小教区には小学校があり、司教座下の都市には司教学校があり、文法、修辞学、幾何、天文、算数、詩文、音楽などを教授したものです。

結び--
聖パウロは「信心は万事に益あり」と申しましたが、実際宗教は、霊魂の救いを第一に志しているのですけれども、しかし、それによってまた国家、社会も多大の恩恵をこうむるに至りました。
「ミツバチが巣を作るように、司教達はフランスを築きあげた」
と、イギリスの有名な歴史家、ギボンは言っています。


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第4章 異端と教父たち

2018-05-22 11:42:12 | 教会史
「第4章 異端と教父たち」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

16
教会は迫害を免れてから、長らく平和を楽しむことができましたか

いいえ。
外からの敵がいなくなりますと、間もなく恐るべき敵が内から起こってきました。内からの敵とは、異端者と離教者であります。
キリストの授け給うた教理の中から勝手な選択をし、その欲する所を知り、他はこれを投げ棄てるか、変更するか、するものが異端者で、離教者とは、正当な牧者である教皇の権威を認めず、これに従わない人々であります。

17
その頃発生した、おもな異端を挙げなさい

その頃発生した、おもな異端は、アリウス、ネストリウス、ヨウチケス、マケドニウス等の異端でした。

(1)アリウス(280-336)は、アレクサンドリアの司祭で、
イエズスキリストは天主ではないが、また、ただの人間でもない、実は、両者の中間に位置し、すぐれた被造物だ、と主張しました。

(2)ネストリウス(440年死亡)は、コンスタンチノープルの司教で、イエズスキリストは、天主のペルソナと人のペルソナとの2つのペルソナを有し給うといい、(天主のペルソナのみを有し給うというのがカトリックの正説)したがって、聖マリアは人のペルソナのみを生み給うたので、「天主の御母」ではないと唱えて、世の中を騒がせました。

(3)ヨウチケスは、コンスタンチノープルの修道院長でしたが、ネストリウスに反対してキリストの天主性をあまりにも強く主張した結果、正反対の誤りに陥り、キリストんは天主性のみがあって、人性はないと言い出しました。

(4)マケドニウス(370年)はコンスタンチノープルの司教で、
聖霊は聖三位の一ではない、ただの天使たるに過ぎない、
という途方も無い異端を唱えたものであります。

(5)そのほかにも、善悪2神の存在を主張し、悪魔も天主と同じく永遠であると唱えたマネス派、原罪の存在を否み、聖寵は救霊に必要ではないと言い立てたペラジウスの異端、アフリカ教会のほとんど半分を味方として、盛んに混ぜっ返しをやったドナトゥス派の離教などを数えることができます。

18
聖会はどのようにしてこのような異端と戦いましたか。

聖会は世界の司教達を召集して、公会議を開き、議長席には常に教皇使節がついて、これらの異説を取り調べ、信仰箇条を確定しました。
そして聖会は、イエズスキリストの御約束により、信仰道徳の問題を定義するとき、誤ることができないのですから、公会議の定義したことは、必ずこれを信じなければなりません。
それを信じないとあっては、どうしても異端の罪を免れません。

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公会議の外にも、異端と花々しい戦を交えたものがいましたか

はい、教父たちがいました。
教父とは、
古代教会においてカトリックの真理を擁護した学徳兼ね備わった偉大なる人物を申すのであります。
そして、教父の中で最も有名なのは、東教会に4人、西教会に4人、都合8人が数えられます。

東教会とは、ヨーロッパの東の方から、小アジア、シリア、アフリカのエジプトなど、主としてギリシア語を話す地方を指すのです。

西教会とは、イタリア、ガリア(フランス)、イスパニア、ブリタニア(イギリス)、北アフリカなど、主としてラテン語を使う地方を総称したものであります。

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東教会の4人の教父とは、誰々ですか

東教会の4人の教父とは、
聖アタナシウス、ナジャンゾの聖グレゴリウス、聖バジリウス、金口聖ヨハネであります。

(1)聖アタナシウス(296-373)は、アレクサンドリアの総司教で、アリウスに対して、
キリストの天主性をあくまで勇敢に、あくまで根気づよく擁護し、その為に幾度も司教座を逐われながら、最後までがんばり通した人です。

(2)ナジャンゾの聖グレゴリウス(328-389)は、コンスタンチノープルの大司教で、その説くところが確実であったため、特に「神学者」と呼ばれ、やはりアリウスの異端に対して勇敢奮闘した人であります。

(3)聖バジリウス(329-379)は、小アジア、ポント州のセザレアという町の司教、貧者に対する尽きせぬ慈善心、迫害者におどかされても微動だにもしない剛胆など、当時まれにみる大聖人でした。

(4)聖ヨハネ(347-407)は、コンスタンチノープルの大司教で、
その滔々と流れるような雄弁のために「金口(きんこう)」とあざなされていたほどでした。
聖人は貧困、窮乏な人を恵む一方には、コンスタンチノープルの宮廷や大官などの腐敗、乱行、暴虐をビシビシと遠慮なく攻撃しました。
そのために彼らの怨みを買い、司教座を逐われて遠国に流され、そのまま終に死亡しました。
聖人の遺された著作中、特に有名なものは説教集であり、また、「司祭職について」と題する名作もあります。

21
西教会の4人の教父とは誰々ですか

西教会の4人の教父とは、聖アンブロジウス、聖ヒエロニムス、聖アウグスチヌス、聖大グレゴリウスです。
大グレゴリウスのかわりに、聖ヒラリウスを数えることもあります。

(1)聖アンブロジウス(340-397)は、ミラノの大司教で、ただ教会の為に尽くしたのみならず、また、ローマ皇帝の厚い信任を得て、その顧問に備わり、有益な助言を与えました。
テオドシウス帝が怒りに任せてテサロニケの住民7,000人を虐殺したときはどは、極力帝を諌めてその非を認めさせ、公の償いに服させました。

(2)聖ヒエロニウス(340-420)は、司祭かつ隠修士で、ラテン語はもちろんギリシア語、ヘブライ語、カルデア語などに通じ、新約聖書のラテン訳を訂正し、旧約聖書の大部分をヘブライ文からラテン文に翻訳しました。
今日カトリック教会で使用する聖書の「通俗訳」というのは、聖人の手になったものです。

(3)聖アウグスチヌス(354-430)は、北アフリカ、ヒッポの司教で、
その優れたる雄弁と非凡な学徳により、古今独歩の大聖人と仰がれている人です。
当時のあらゆる異端、離教と戦い、幾百巻もの著書を公にし、特に、ペラジウスの異端に対して大いに聖寵論を戦わせ、為に「聖寵博士」と呼ばれるに至りました。
「神の都」と「告白」とは、その傑作中の傑作であります。

(4)聖大グレゴリウス(540-604)は、590年に教皇となり、604年に世を去られたのですが、その間に多くの民族をカトリックに帰依させるとともに、ローマ及びイタリアを餓えと蛮族の侵略とより救い、たくさんの説教を作り、多くの親書を各地へ送り、不朽の作品をも公にし、また、音楽学校を設け、いわゆる「グレゴリアン聖歌」を制定するなど、それこそ驚くべき大業を全うされました。
しかも、その身は病弱で、歩行すら自由でなかったといいますから、いよいよ以て驚かざるを得ません。

結び--
キリスト教は、第4世紀を教会史上の黄金時代となしました。
博識な学者、深奥な哲学者、傑出した文豪、滔々たる雄弁家が雲のように起こって、蛮族にふみつぶされる直前のローマ帝国に、異彩を放ったのであります。
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第3章 キリスト教帝国内における聖会(紀元313年-476年)

2018-05-18 00:33:46 | 教会史
「第3章 キリスト教帝国内における聖会(紀元313年-476年)」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

11
迫害の幕を閉じたのは誰でしたか。

迫害の幕を閉じたのは、コンスタンチヌス大帝でした。
時にコンスタンチヌスはガリア(今のフランス)におり、ローマにはマクセンチウス帝がおりまして、互いに天下を争いました。
紀元312年、コンスタンチヌスは兵をひきつれてローマに進軍しました。

その途中、燦然たる十字架が太陽面に顕われ、その下に「汝この旗印(はたじるし)もて勝つべし」という文字が読まれました。
よって、コンスタンチヌスは、軍旗にキリストの略字であるPとXを組み合わせた文字を縫い付けさせ、それに心から信頼をかけて進軍し、ローマを隔たること3キロメートル、ミルウィウスという橋のたもとで、敵と会戦して圧倒的大勝利を得、マクセンチウスは逃げて行くうち、川に落ちて溺死をしました。

翌年313年、コンスタンチヌス帝は、ミラノ市において勅令を発し、国民に信教の自由を許し、自分も率先してキリスト教徒となりました。
このようにして、250年の久しきにわたった迫害も、キリスト教側の大勝利をもって、めでたく幕となったのであります。

12
異教はそのまま滅びましたかコンスタンチヌス帝はキリスト教を異教と対等の地位におきました。

その子、コンスタンチヌスは、異教の祭りを禁じ、多少の圧迫を加えました。

その後を承けたのが、ユリアヌス背教帝で、熱心に異教の復興をはかり、いろいろと煩わしい法令を発して、キリスト教徒を苦しめました。
幸い、彼は即位2年目の紀元363年、パルチアと戦って重傷を負い、「ガリレア人(キリスト)よ、汝は終に勝ったなあ!」と叫んで死にました。
そのために、彼の企ては全く水の泡となりました。

391年、テオドシウス大帝は、異教の祭礼及び神社参拝を禁じ、394年には
「今からローマ市において異教を全廃す」という法令を発布しました。
そのために都市は全くキリスト教化し、異教の神々は村落に避難し、なお暫くは命脈を保つことができました。

13
聖会はコンスタンテヌスの与えた自由と保護をどのように利用しましたか

聖会はコンスタンチヌスの与えた自由と保護とを利用して、外に向かっては大いに福音を宣伝し、異教徒を改宗させるように努め、内にあっては天主の為に荘厳な聖堂を建設するかたわら、至るところに慈善事業を興し、病院を建て、孤児院、養老院などを設け、奴隷を解放するなど、目覚ましい活躍ぶりを見せました。

14
熱心な信者は、どのような生活を営むに至りましたか

新たに修道生活を始め、天主の掟はもちろん、その勧めたる清貧、貞潔、従順をも守るべしと誓願を立て、感ずべき聖徳の光を輝かすに至りました。
もとより修道生活はイエズス キリストの教え給うたもので、聖会の初めから心ある人々が実行してきたものではありましたが、しかし、それが歴史上に現れ出たのは、4世紀の頃で、場所は、上エジプトのテバイド地方でした。独修士聖パウルス、聖アントニウス、聖パコムス、聖バジリウス、聖アウグスチヌス、聖マルチヌスなどは、特に有名な修道士でありました。

15
修道士は、どのような修養に従事したのですか

これらの修道士は、祈祷、苦行、手工に従事し、大に聖徳の香を四隣に放ちました。
彼らの中から博学にして有徳な司教が多く輩出して、進んでは異端、異教の撲滅、聖教の伝播に当たり、退いては信者の教養、博愛事業に従事し、もって社会の面目を一新させました。

結び--
コンスタンチヌス大帝は、十字架によって勝利を得ましたので、以後、十字架を刑罰の道具に用いることを禁じました。
この時から、十字架は名誉の印となり、いたるところに装飾として用いられるようになりました。
天主の御摂理ばかりは、感ずるに余りありませんか。
ユダヤ人がキリストをはずかしめ、その御教を滅ぼすために用いた十字架が、かえって名誉の印となるに至ったということは。



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