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前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 9

2016-07-09 22:27:25 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房
9、ハンダクの役

 六二七年から二九年までのあいだマホメットは、さらに五人の女性を妻に迎えたので、都合一〇人の妻がかれを囲んで暮すことになった。新しく迎えた五人のうち、いちばん早くきたのは、メディナにいた有力なユダヤ教徒の部族たるナディール族の出のライハーナとよぶ美女で、同じユダヤ教徒のクライザ族のひとりと結婚したが、マホメットはこの一族を滅ぼし、そのさい寡婦となっていたこの女人をめとったのである。

 もうひとりは、サフィーヤとよぷ一七歳の美少女。これもユダヤ教徒で、同じくマホメットのため滅ぼされたメッカの北方ハイバルの町のキナーナ族のひとり。その戦いでまえの夫を失ったのを、マホメットに拾われたというわけであった。

 三番目は名をマリーアどいい、コプト派のクリスチャンて、東ローマ帝国のエジプト総督が、贈物としてとどけてきた金髪の女奴隷のひとりであった。このおとめとライハーナとは異教徒であったから、正妻とはされず、女奴隷の身分のままにおかれた。ただしサアィーヤは、イスラムに改宗して正妻になったらしい。マリーアはメディナにきて、つぎの年にイブラーヒームという男児を生み、マホメットよりも五年おくれて世を去っている。

 右の三人のほか、マホメットは前述したごとく、ウマイや家のアブー・スフヤーンの娘ラムラと結婚している。父親の方はメッカの有力者で、イスラム討伐の大将としてオホドで戦い、六二七年三月末には、ふたたび一万の軍を率いてメディナを包囲した。マホメットは、これにたいし3000の兵を動員し、塹壕(ハンダク)を掘りめぐらしてよく防いだので、二週間ののちメッカ軍は退却した。

 この戦いをハンダク(暫壕)の役とよび、これを転機として、こんどはイスラム教徒がわが攻勢に出て、メッカは守勢に立つことになった。そうして六三〇年の一月には、メッカを征服する。その一一日、マホメットはアル・カスワという名のラクダにまたがって聖域に入り、カアバの東角の黒石に杖をあてて敬意をあらわし、カアバを左へ左へと七周したのち、そこに祀られた数十の神像を打倒せよと命じた。主神フバルの巨像が、地ひびきをたてて倒れたとき

真理(ハック)はきた。
そして虚偽(ハーティル)は滅びた。
まことに虚偽は滅び去ったのだ。.(コーラン、筑二七章八三節)
と叫んだといわれる。これこそかれの生涯の最高潮に達したときといえるであろう。

 アブー・スフヤーンが降服したのは、メッカ降服の直前で、そこから二駅をへだてたところまで、マホメットが大軍をひきいて迫ったときのことであった。しかし、アブー・スフヤーンの娘のラムラは、一族中での変りもので、マホメットがまだメッカで迫害のうちにあったころ、周囲の反対をおし切ってイスラムに帰依している。そのころ、マホメットは、率先してアッラーの教えに帰依したひとたちを迫害から守るため、しばらくのあいだアビシニアに移住させたことがあったが、ラムラもその夫とともに海を渡ってかの高原の国に移り、そこで夫と死別したとのことである。この女性がマホメットと結ばれたのは六二八年の春ころで、三五歳のときであった。

 かれの最後の結婚は、六二九年の春、二六歳の美女マイムーナとのものである。この女性はマホメットの叔父アッバース(のちのアッバース王朝の祖)の義妹であり、また.勇将ハーリド・イブヌル・ワリードの叔母でもあった。ハーリドはメッカの驕将として、しばしばイスラム軍を苦しめ、オホドの戦いやハンダクの役などで、いつも騎馬隊を率いて勇猛果敢な戦いぶりをみせてきたひとであるが、そののちイスラムに帰依し、六二八年ころからは、こんどはマホメットの旗下について戦うようになった。そして預言者から「アッラーの剣」という美称をもってよばれたことでも有名である。

 こうして、メッカ時代にはハディージャのほかには妻をもたなかったのに、メディナ時代には都合十一人の妻をめとったことになり、たびたびの出征にも、これらを順番にひとりかふたり同伴するのが常であったという。

 六三〇年の夏、六〇歳のマホメットは、そのうえにさらにアスマーという少女を妻に迎えようとした。これはネジド高原のキンダ王家の血統をひく姫君で訪った。キンダ族は五世紀末から六世紀はじめにかけ、中央アラピアー帯を征服し、線香花火のように短時間だが、華やかな全盛期を示したが、すぐ瓦解してしまった。

 しかしその王統からはイムル・ウル・カイスのような古代アラビアのもっとも偉大な詩人(五四〇ころ死)も出たし、九世紀後半にバグダードに住んでいた大哲学者アルーキンディーも、やはりキンダ族の付庸民のひとりだったとのことである。この雄族キンダが、メディナに使節を送ってイスラムに帰依したとき、マホメットとの縁談がもちあがった。マホメットはよろこび、とくに警護のものを派遣して姫をメディナに迎えとらせた。だが、婚礼があげられるばかりになったとき、急にとりやめとなって、姫は故里に送りかえされてしまった。なぜ、破談になったかについては二、三の臆説がある。

 「わたくしはアッラーとともに、あなたさまを避けさせていただきます」

 ということばは、マホメットをめぐる女性たちのあいだにだけ知られたふしぎな文句であった。このことばをいいさえずれば、かればもうその女を求めようとはしなかったという。それでキンダ族の美姫がハレームに入って、夫の愛をもっぱらにしては、と妬んだ妻たちのうちのだれかが、ひそかに姫をあざむき、右のような文句をいえば、ことさらの寵愛を受けるであろうとだましたので、そうとは知らぬ姫は、まんまとこの罠に陥ってしまったらしいというのである。それで、あとになって陥穿にかかったことを覚り、姫は身の薄幸を嘆いてやまなかったという所伝がある。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 10

2016-07-09 22:23:27 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

10、預言者の最期

 六三二年の二月に行なわれたメッカの大祭には、マホメットは自ら指揮をとり、ミナーの谷間で大衆にむかい、ラクダの町上から一場の説教を行なったが、その中に

「皆の衆よ、よくわがいうところを聞きたまえ。こののち、ふたたびあなたたちとともにここにくることができるとも期しがたいゆえに……
皆の衆よ、すべてのムスリム(イスラム信者)はみな兄弟である。あなたたちはすべて等しいものである……」

ということばもあった。これを告別の巡礼というが、これを終えてメディナに帰ると、その健康は急速に衰えていった。妻のひとりマイムーナのところにいたときに気分が悪くなったが、いまや一通りの病いではないことを覚った。それで妻たちの同意を得て、とくにアーイシャの部屋で静養することにし、六三二年六月八日(一説に六月十一日)の日の出から正午までのあいだのある時刻に、苦痛にたえぬままに、この最愛の妻にうしろからささえられ、半身を起こしたままで、英雄は天に昇り去ったといわれている。

・『聖書』と『コーラン』

2016-07-09 22:14:48 | イスラム教
・『聖書』と『コーラン』

聖書とコーランのイエズス様に関する記述を比較すると
1、『聖書』

ヨハネの手紙一 / 2章 22節
偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。

ヨハネの手紙一 / 4章 3節
イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。

2、『コーラン』

第19章「マルヤム」
19-35これがマルヤムの子イーサー。みながいろいろ言っている事の真相はこうである。もともとアッラーにお子ができたりするわけがない。ああ、恐れ多い。何事でも、こうとお決めになったら、「在れ」と仰しゃるだけで、そうなるほどのお方ではないか。

第4章「女」
4-169これ啓典の民よ、汝ら、宗教上のことで度を過してはならぬぞ。アッラーに関しては真理ならぬことを一ことも言うてはならぬぞ。よくきけ、救主イーサー、マルヤムの息子はただのアッラーの使徒であるにすぎぬ。また(アッラー)がマルヤムに託された御言葉であり、(アッラー)から発した霊力にすぎぬ。されば汝ら、アッラーとその(遣わし給うた)使徒たちを信ぜよ。決して「三」などと言うてはならぬぞ。差し控えよ。その方が身のためにもなる。アッラーはただ独りの神にましますぞ。ああ勿体ない、神に息子があるとは何事ぞ。天にあるもの地にあるものすべてを所有し給うお方ではないか。保護者はアッラーお独りで沢山ではないか。

4-155彼らは信仰に背きマルヤムについても大変なたわごとを言った。そればかりか「わしらは救世主、神の使徒、マルヤムの子イーサーを殺したぞ」などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと。もともと(啓典の民の中で)この点について論争している人々は彼について疑問をもっている。彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけでなし、だたいかげんに憶測しているだけのこと。いや、彼らは断じて彼を殺しはしなかった。

・イエズス様の神性も、それが神の子であることも、十字架での贖罪も否定します。

白取春彦『この一冊で「キリスト教」がわかる』三笠書房、1999年、pp.172-173

2016-07-09 22:06:39 | イスラム教
白取春彦『この一冊で「キリスト教」がわかる』三笠書房、1999年、pp.172-173

・キリストは神の子ではなく預言者の一人?

 マホメットはヤスリブのユダヤ人を除く全市民をイスラム教に改宗させ、独裁者となります。そして、宗教教育と軍隊教育を徹底させると、今度はメッカからの隊商と戦い、メッカを無血で占領します。

メッカにあったあらゆる偶像を破壊し、ユダヤ教徒を迫害し、キリスト教徒をもイスラム教に改宗させようとします。やがては、エジプト、シリア、ペルシャ、アビシニアを征服し、アラビアを統一してしまうのです。

 六三二年にマホメットは病死しますが、前項で述べたように、この時天使に連れられて、イェルサレムにある神殿に飛んで行ったとされます。

 こういうイスラム教とキリスト教の接点は、マホメットが旧約聖書の一部、すなわちモーゼ五書とダビデの詩篇を、新約聖書では福音書を聖典としていることです。マホメットによれば、イエス・キリストは神の子ではなく預言者の一人であり、自分自身こそこの世での最後で最高の預言者だといいます。これゆえに、イスラム教がもっとも正しく伝えているというのです。また、旧約聖書に出てくる神の本当の名前はヤーヴェーではなくアッラーだというわけです。
 聖書を聖典としていながらも、実質的な正典はコーランです。コーランとは、天使ジィブリールを通して伝えられたアッラーの啓示全一七〇章をまとめて記録したものです。これはマホメットの死後、七世紀後半に完成されました。

 イスラム教が現代においてもたびたびのように問題を起こすのは、彼らがイスラム教こそ絶対真正なる宗教だという独善を貫くことにあります。他宗の者はみな不信の徒として軽蔑されるのです。

 イスラム教からすれば、ユダヤ教もキリスト教も大きなあやまちを犯しており、アッラーの律法こそ全世界が絶対に服従しなければならないものだという確信があるわけです。

 聖書の一部を聖典として認めてはいるものの、それよりも信頼性が高い物として普段から読まれているコーランの中では、イエス・キリストはイスラム教徒として描かれています。

 つまり、人々がイエスに過度の愛情を注いだがために、イエスは自分を神の子であると考えるようになったというのです。そして、コーランの中で神はイエスにこう詰問しています。「おまえを神としてあがめよと人間に命じたのか」これに対してイエスは、「そんなことはありません。わたしはあなたから人間に告げるように命じたことしか言っておりません」と弁明しています。

 こういう点を見ると、キリスト教側から考えれば、コーランは聖書を安易に書き換えたつごうのいいフィクションでしかないわけです。旧約聖書の失楽園の場面もコーランではまったく見当違いの方向で描かれています。原典をこのように書き換えられ、これこそ正しいのだと主張されては、キリスト教もユダヤ教もイスラム教と鋭く対立するしかなくなるわけです。