前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房
9、ハンダクの役
六二七年から二九年までのあいだマホメットは、さらに五人の女性を妻に迎えたので、都合一〇人の妻がかれを囲んで暮すことになった。新しく迎えた五人のうち、いちばん早くきたのは、メディナにいた有力なユダヤ教徒の部族たるナディール族の出のライハーナとよぶ美女で、同じユダヤ教徒のクライザ族のひとりと結婚したが、マホメットはこの一族を滅ぼし、そのさい寡婦となっていたこの女人をめとったのである。
もうひとりは、サフィーヤとよぷ一七歳の美少女。これもユダヤ教徒で、同じくマホメットのため滅ぼされたメッカの北方ハイバルの町のキナーナ族のひとり。その戦いでまえの夫を失ったのを、マホメットに拾われたというわけであった。
三番目は名をマリーアどいい、コプト派のクリスチャンて、東ローマ帝国のエジプト総督が、贈物としてとどけてきた金髪の女奴隷のひとりであった。このおとめとライハーナとは異教徒であったから、正妻とはされず、女奴隷の身分のままにおかれた。ただしサアィーヤは、イスラムに改宗して正妻になったらしい。マリーアはメディナにきて、つぎの年にイブラーヒームという男児を生み、マホメットよりも五年おくれて世を去っている。
右の三人のほか、マホメットは前述したごとく、ウマイや家のアブー・スフヤーンの娘ラムラと結婚している。父親の方はメッカの有力者で、イスラム討伐の大将としてオホドで戦い、六二七年三月末には、ふたたび一万の軍を率いてメディナを包囲した。マホメットは、これにたいし3000の兵を動員し、塹壕(ハンダク)を掘りめぐらしてよく防いだので、二週間ののちメッカ軍は退却した。
この戦いをハンダク(暫壕)の役とよび、これを転機として、こんどはイスラム教徒がわが攻勢に出て、メッカは守勢に立つことになった。そうして六三〇年の一月には、メッカを征服する。その一一日、マホメットはアル・カスワという名のラクダにまたがって聖域に入り、カアバの東角の黒石に杖をあてて敬意をあらわし、カアバを左へ左へと七周したのち、そこに祀られた数十の神像を打倒せよと命じた。主神フバルの巨像が、地ひびきをたてて倒れたとき
真理(ハック)はきた。
そして虚偽(ハーティル)は滅びた。
まことに虚偽は滅び去ったのだ。.(コーラン、筑二七章八三節)
と叫んだといわれる。これこそかれの生涯の最高潮に達したときといえるであろう。
アブー・スフヤーンが降服したのは、メッカ降服の直前で、そこから二駅をへだてたところまで、マホメットが大軍をひきいて迫ったときのことであった。しかし、アブー・スフヤーンの娘のラムラは、一族中での変りもので、マホメットがまだメッカで迫害のうちにあったころ、周囲の反対をおし切ってイスラムに帰依している。そのころ、マホメットは、率先してアッラーの教えに帰依したひとたちを迫害から守るため、しばらくのあいだアビシニアに移住させたことがあったが、ラムラもその夫とともに海を渡ってかの高原の国に移り、そこで夫と死別したとのことである。この女性がマホメットと結ばれたのは六二八年の春ころで、三五歳のときであった。
かれの最後の結婚は、六二九年の春、二六歳の美女マイムーナとのものである。この女性はマホメットの叔父アッバース(のちのアッバース王朝の祖)の義妹であり、また.勇将ハーリド・イブヌル・ワリードの叔母でもあった。ハーリドはメッカの驕将として、しばしばイスラム軍を苦しめ、オホドの戦いやハンダクの役などで、いつも騎馬隊を率いて勇猛果敢な戦いぶりをみせてきたひとであるが、そののちイスラムに帰依し、六二八年ころからは、こんどはマホメットの旗下について戦うようになった。そして預言者から「アッラーの剣」という美称をもってよばれたことでも有名である。
こうして、メッカ時代にはハディージャのほかには妻をもたなかったのに、メディナ時代には都合十一人の妻をめとったことになり、たびたびの出征にも、これらを順番にひとりかふたり同伴するのが常であったという。
六三〇年の夏、六〇歳のマホメットは、そのうえにさらにアスマーという少女を妻に迎えようとした。これはネジド高原のキンダ王家の血統をひく姫君で訪った。キンダ族は五世紀末から六世紀はじめにかけ、中央アラピアー帯を征服し、線香花火のように短時間だが、華やかな全盛期を示したが、すぐ瓦解してしまった。
しかしその王統からはイムル・ウル・カイスのような古代アラビアのもっとも偉大な詩人(五四〇ころ死)も出たし、九世紀後半にバグダードに住んでいた大哲学者アルーキンディーも、やはりキンダ族の付庸民のひとりだったとのことである。この雄族キンダが、メディナに使節を送ってイスラムに帰依したとき、マホメットとの縁談がもちあがった。マホメットはよろこび、とくに警護のものを派遣して姫をメディナに迎えとらせた。だが、婚礼があげられるばかりになったとき、急にとりやめとなって、姫は故里に送りかえされてしまった。なぜ、破談になったかについては二、三の臆説がある。
「わたくしはアッラーとともに、あなたさまを避けさせていただきます」
ということばは、マホメットをめぐる女性たちのあいだにだけ知られたふしぎな文句であった。このことばをいいさえずれば、かればもうその女を求めようとはしなかったという。それでキンダ族の美姫がハレームに入って、夫の愛をもっぱらにしては、と妬んだ妻たちのうちのだれかが、ひそかに姫をあざむき、右のような文句をいえば、ことさらの寵愛を受けるであろうとだましたので、そうとは知らぬ姫は、まんまとこの罠に陥ってしまったらしいというのである。それで、あとになって陥穿にかかったことを覚り、姫は身の薄幸を嘆いてやまなかったという所伝がある。
9、ハンダクの役
六二七年から二九年までのあいだマホメットは、さらに五人の女性を妻に迎えたので、都合一〇人の妻がかれを囲んで暮すことになった。新しく迎えた五人のうち、いちばん早くきたのは、メディナにいた有力なユダヤ教徒の部族たるナディール族の出のライハーナとよぶ美女で、同じユダヤ教徒のクライザ族のひとりと結婚したが、マホメットはこの一族を滅ぼし、そのさい寡婦となっていたこの女人をめとったのである。
もうひとりは、サフィーヤとよぷ一七歳の美少女。これもユダヤ教徒で、同じくマホメットのため滅ぼされたメッカの北方ハイバルの町のキナーナ族のひとり。その戦いでまえの夫を失ったのを、マホメットに拾われたというわけであった。
三番目は名をマリーアどいい、コプト派のクリスチャンて、東ローマ帝国のエジプト総督が、贈物としてとどけてきた金髪の女奴隷のひとりであった。このおとめとライハーナとは異教徒であったから、正妻とはされず、女奴隷の身分のままにおかれた。ただしサアィーヤは、イスラムに改宗して正妻になったらしい。マリーアはメディナにきて、つぎの年にイブラーヒームという男児を生み、マホメットよりも五年おくれて世を去っている。
右の三人のほか、マホメットは前述したごとく、ウマイや家のアブー・スフヤーンの娘ラムラと結婚している。父親の方はメッカの有力者で、イスラム討伐の大将としてオホドで戦い、六二七年三月末には、ふたたび一万の軍を率いてメディナを包囲した。マホメットは、これにたいし3000の兵を動員し、塹壕(ハンダク)を掘りめぐらしてよく防いだので、二週間ののちメッカ軍は退却した。
この戦いをハンダク(暫壕)の役とよび、これを転機として、こんどはイスラム教徒がわが攻勢に出て、メッカは守勢に立つことになった。そうして六三〇年の一月には、メッカを征服する。その一一日、マホメットはアル・カスワという名のラクダにまたがって聖域に入り、カアバの東角の黒石に杖をあてて敬意をあらわし、カアバを左へ左へと七周したのち、そこに祀られた数十の神像を打倒せよと命じた。主神フバルの巨像が、地ひびきをたてて倒れたとき
真理(ハック)はきた。
そして虚偽(ハーティル)は滅びた。
まことに虚偽は滅び去ったのだ。.(コーラン、筑二七章八三節)
と叫んだといわれる。これこそかれの生涯の最高潮に達したときといえるであろう。
アブー・スフヤーンが降服したのは、メッカ降服の直前で、そこから二駅をへだてたところまで、マホメットが大軍をひきいて迫ったときのことであった。しかし、アブー・スフヤーンの娘のラムラは、一族中での変りもので、マホメットがまだメッカで迫害のうちにあったころ、周囲の反対をおし切ってイスラムに帰依している。そのころ、マホメットは、率先してアッラーの教えに帰依したひとたちを迫害から守るため、しばらくのあいだアビシニアに移住させたことがあったが、ラムラもその夫とともに海を渡ってかの高原の国に移り、そこで夫と死別したとのことである。この女性がマホメットと結ばれたのは六二八年の春ころで、三五歳のときであった。
かれの最後の結婚は、六二九年の春、二六歳の美女マイムーナとのものである。この女性はマホメットの叔父アッバース(のちのアッバース王朝の祖)の義妹であり、また.勇将ハーリド・イブヌル・ワリードの叔母でもあった。ハーリドはメッカの驕将として、しばしばイスラム軍を苦しめ、オホドの戦いやハンダクの役などで、いつも騎馬隊を率いて勇猛果敢な戦いぶりをみせてきたひとであるが、そののちイスラムに帰依し、六二八年ころからは、こんどはマホメットの旗下について戦うようになった。そして預言者から「アッラーの剣」という美称をもってよばれたことでも有名である。
こうして、メッカ時代にはハディージャのほかには妻をもたなかったのに、メディナ時代には都合十一人の妻をめとったことになり、たびたびの出征にも、これらを順番にひとりかふたり同伴するのが常であったという。
六三〇年の夏、六〇歳のマホメットは、そのうえにさらにアスマーという少女を妻に迎えようとした。これはネジド高原のキンダ王家の血統をひく姫君で訪った。キンダ族は五世紀末から六世紀はじめにかけ、中央アラピアー帯を征服し、線香花火のように短時間だが、華やかな全盛期を示したが、すぐ瓦解してしまった。
しかしその王統からはイムル・ウル・カイスのような古代アラビアのもっとも偉大な詩人(五四〇ころ死)も出たし、九世紀後半にバグダードに住んでいた大哲学者アルーキンディーも、やはりキンダ族の付庸民のひとりだったとのことである。この雄族キンダが、メディナに使節を送ってイスラムに帰依したとき、マホメットとの縁談がもちあがった。マホメットはよろこび、とくに警護のものを派遣して姫をメディナに迎えとらせた。だが、婚礼があげられるばかりになったとき、急にとりやめとなって、姫は故里に送りかえされてしまった。なぜ、破談になったかについては二、三の臆説がある。
「わたくしはアッラーとともに、あなたさまを避けさせていただきます」
ということばは、マホメットをめぐる女性たちのあいだにだけ知られたふしぎな文句であった。このことばをいいさえずれば、かればもうその女を求めようとはしなかったという。それでキンダ族の美姫がハレームに入って、夫の愛をもっぱらにしては、と妬んだ妻たちのうちのだれかが、ひそかに姫をあざむき、右のような文句をいえば、ことさらの寵愛を受けるであろうとだましたので、そうとは知らぬ姫は、まんまとこの罠に陥ってしまったらしいというのである。それで、あとになって陥穿にかかったことを覚り、姫は身の薄幸を嘆いてやまなかったという所伝がある。