『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
5 五胡十六国
2 石勒(せきろく)と慕容廆(ぼようかい)
さて匈奴が中国の内地へうつったのち、モンゴル高原に活躍したのは、鮮卑(せんぴ)とよばれる民族であった。
モンゴル系の民族である。
晋の王朝が建てられた直後のこと、この鮮卑の慕容(ぼよう)部の酋長の家に、ひとりの子供が生まれた。
その名を廆(かい)という。それから二十年あまり、慕容廆の名を中国に知らせるような事件がおこった。
永嘉元年(三〇七)、鮮卑の人びとが遼東の地方に反乱をおこした。
おりから晋の朝廷では、八王の乱や、劉淵らの独立などの事件があって、この鮮卑の反乱をどうすることもできない。
それに乗じて慕容廆は、勤王を名として立ちあがり、遼東地方の乱を平定したのであった。
おなじころ、石勒(せきろく)も山東において、勢力をひろげつつある。石勒の前半生は、苦難にみちたものであった。
その生まれは慕容廆の五年ほどあと、その属する羯(けつ)族は、流亡(るぼう)の境涯にある。
石勒は、一族の人びとと共に、ときには行商をおこない、二十歳のころには枷(かせ)をはめられて、奴隷にまで売られた。
それからのち、馬をぬすんで群盗のなかまにはいる。
やがて劉淵が立つや、その部将となって、ようやく自立の道をたどりはじめた。
そして西晋がほろびると、匈奴の劉氏からわかれて、山東の地方を根拠として独立した。
ときに東晋の大興二年(三一九)であった。この年、まず劉氏が、国号の「漢」を「趙(ちょう)」とあらためる。
ついで、石勒も国号を「趙」と称した。よって劉氏の趙を前趙、石氏の趙を後趙とよんで区別する。
石勒の成功は、そのすぐれた軍事能力に負うところが大きいが、またするどい政治感覚によるものでもあった。
永嘉の乱ののち、多くの人が南にのがれたが、北に残存しているものも少なくない。
石勒は、これらの漢人を積極的にじぶんの陣中に吸収していった。
後趙の都には、ひとつの区画をつくって、そこに漢人の名士たちを住まわせた。
また漢人と北方民族、この異なった文化と伝統をもつ両民族をおさめるために、二重の体制をとった。
さらに石勒は、中国の古典、とくに歴史書に、たえざる関心をいだいていた。
漢の高祖が理想の人物であったが、いつも史記の高祖本紀を読ませて、興味ぶかげにこれを聞くのをつねとした。
いっぽう慕容廆(ぼようかい)も、中国の文化に関心を持つようになっている。
その三男たる慕容皝(こう)には、おさないときから経学や天文学を勉強させた。
そこで皝は、中国の古典にふかい理解をよせ、父親の廆にも、そうした立場から意見を述べている。
永嘉の乱ののち、慕容氏をたよって移住してきた漢人もあった。
廆はかれらに土地をあたえ、そのなかから賢才をえらんで、政治の顧問とした。
石勒が後趙を建国した年(三一九)、鮮卑のなかの宇文(うぶん)氏や段(だん)氏が、高句麗と連合して、慕容氏に攻撃をかけた。
これは慕容廆にとって大きな危機であった。
しかし廆はたくみな外交術によって、この連合をきりくずし、かえって北方における地位をかためることに成功した。
こうした事情は、ただちに中国内地に反映する。東晋は彼に「使持節都督(しじせっととく)幽州(ゆうしゅう)東夷諸軍(とういしょぐん)事車騎(じしゃき)将軍平州牧(ぼく)遼東郡公」という長い肩書をあたえた。これは要するに、中国の東北部における民政や軍政の責任者として、その地位をみとめるというものである。
つまり夷をもって夷を制するという考えかたに立ったもので、慕容氏に北辺の防備をまかせたわけである。
慕容氏にとっても、まわりの競争者に勝つためには、晋の王朝とむすんでおくのが便利なので、これをうけいれた。
しかし両者の蜜月(みつげつ)は、そう永続するものでない。
慕容氏の勢力がいっそう拡大すると、やがて晋に対する勤王や、形のうえでの服従は、必要としなくなる。
このとき慕容氏は、晋への侵入者にかわる。
さて石勒と慕容廆と、このほぼ同年齢の両英雄は、おそらく生涯をつうじて顔をあわすことはなかった。
ただ一度だけ、石勒からの使者が慕容廆のもとをおとずれて、和平を申しでている。
両者は直接にたたかっていたわけではない。
しかし東晋と後趙は敵対していたので、慕容氏が東晋と親しくしていることは、石勒にとって不安であった。
そこで、この申しこみになったのであろう。
廆は拒絶し、使者をとらえて東晋におくった。石勒はおこり、廆を攻めたが、やぶれた。
5 五胡十六国
2 石勒(せきろく)と慕容廆(ぼようかい)
さて匈奴が中国の内地へうつったのち、モンゴル高原に活躍したのは、鮮卑(せんぴ)とよばれる民族であった。
モンゴル系の民族である。
晋の王朝が建てられた直後のこと、この鮮卑の慕容(ぼよう)部の酋長の家に、ひとりの子供が生まれた。
その名を廆(かい)という。それから二十年あまり、慕容廆の名を中国に知らせるような事件がおこった。
永嘉元年(三〇七)、鮮卑の人びとが遼東の地方に反乱をおこした。
おりから晋の朝廷では、八王の乱や、劉淵らの独立などの事件があって、この鮮卑の反乱をどうすることもできない。
それに乗じて慕容廆は、勤王を名として立ちあがり、遼東地方の乱を平定したのであった。
おなじころ、石勒(せきろく)も山東において、勢力をひろげつつある。石勒の前半生は、苦難にみちたものであった。
その生まれは慕容廆の五年ほどあと、その属する羯(けつ)族は、流亡(るぼう)の境涯にある。
石勒は、一族の人びとと共に、ときには行商をおこない、二十歳のころには枷(かせ)をはめられて、奴隷にまで売られた。
それからのち、馬をぬすんで群盗のなかまにはいる。
やがて劉淵が立つや、その部将となって、ようやく自立の道をたどりはじめた。
そして西晋がほろびると、匈奴の劉氏からわかれて、山東の地方を根拠として独立した。
ときに東晋の大興二年(三一九)であった。この年、まず劉氏が、国号の「漢」を「趙(ちょう)」とあらためる。
ついで、石勒も国号を「趙」と称した。よって劉氏の趙を前趙、石氏の趙を後趙とよんで区別する。
石勒の成功は、そのすぐれた軍事能力に負うところが大きいが、またするどい政治感覚によるものでもあった。
永嘉の乱ののち、多くの人が南にのがれたが、北に残存しているものも少なくない。
石勒は、これらの漢人を積極的にじぶんの陣中に吸収していった。
後趙の都には、ひとつの区画をつくって、そこに漢人の名士たちを住まわせた。
また漢人と北方民族、この異なった文化と伝統をもつ両民族をおさめるために、二重の体制をとった。
さらに石勒は、中国の古典、とくに歴史書に、たえざる関心をいだいていた。
漢の高祖が理想の人物であったが、いつも史記の高祖本紀を読ませて、興味ぶかげにこれを聞くのをつねとした。
いっぽう慕容廆(ぼようかい)も、中国の文化に関心を持つようになっている。
その三男たる慕容皝(こう)には、おさないときから経学や天文学を勉強させた。
そこで皝は、中国の古典にふかい理解をよせ、父親の廆にも、そうした立場から意見を述べている。
永嘉の乱ののち、慕容氏をたよって移住してきた漢人もあった。
廆はかれらに土地をあたえ、そのなかから賢才をえらんで、政治の顧問とした。
石勒が後趙を建国した年(三一九)、鮮卑のなかの宇文(うぶん)氏や段(だん)氏が、高句麗と連合して、慕容氏に攻撃をかけた。
これは慕容廆にとって大きな危機であった。
しかし廆はたくみな外交術によって、この連合をきりくずし、かえって北方における地位をかためることに成功した。
こうした事情は、ただちに中国内地に反映する。東晋は彼に「使持節都督(しじせっととく)幽州(ゆうしゅう)東夷諸軍(とういしょぐん)事車騎(じしゃき)将軍平州牧(ぼく)遼東郡公」という長い肩書をあたえた。これは要するに、中国の東北部における民政や軍政の責任者として、その地位をみとめるというものである。
つまり夷をもって夷を制するという考えかたに立ったもので、慕容氏に北辺の防備をまかせたわけである。
慕容氏にとっても、まわりの競争者に勝つためには、晋の王朝とむすんでおくのが便利なので、これをうけいれた。
しかし両者の蜜月(みつげつ)は、そう永続するものでない。
慕容氏の勢力がいっそう拡大すると、やがて晋に対する勤王や、形のうえでの服従は、必要としなくなる。
このとき慕容氏は、晋への侵入者にかわる。
さて石勒と慕容廆と、このほぼ同年齢の両英雄は、おそらく生涯をつうじて顔をあわすことはなかった。
ただ一度だけ、石勒からの使者が慕容廆のもとをおとずれて、和平を申しでている。
両者は直接にたたかっていたわけではない。
しかし東晋と後趙は敵対していたので、慕容氏が東晋と親しくしていることは、石勒にとって不安であった。
そこで、この申しこみになったのであろう。
廆は拒絶し、使者をとらえて東晋におくった。石勒はおこり、廆を攻めたが、やぶれた。