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聖アウグスティヌス 『エンキリディオン』3-4

2016-08-02 02:41:00 | 格言・みことば
 人か悪と呼ぶものは、善の喪失以外の何ものであろうか。生きている体にとって、病と傷は、健康を奪われること以外の何ごとであろうか。これらの悪-すなわち病と傷-に手当てを加えるのは、それらを追い出して他所へ移すためではなくて、それらを完全に消滅させるためである。病と傷は、実体ではなくて、ある肉体的実体の欠如である。なぜなら体は実体であり、したがって一つの善であり、その実体に対してこれらの悪が事故として突発したのであって、これらの悪は、実のところ、健康と呼ばれる善の欠如だからである。同様に、魂のあらゆる悪徳は、それちか何であれ、自然な善の欠如である。それらが癒えるとき、人はそれちを他所に移すのではない。今までそこに存在していたとしても、それらが健康の基体を離れるや否や、それらはもはやどこにも存在しなくなる。

 したがって、あらゆる存在は善である。なぜならあらゆるものの創造者は、例外のない至上の善だからである。しかし、あらゆる存在は創造者のような至上にして不易の善ではなく、それらにおける善は増減しうる。さて善の減少は悪であるーとは言え、いかに善が減少しても、それが存在であるかぎりは、それを存在せしめるものが少量といえども必ず残っている。この存在が実際に何であるにせよ、またいかに小さいにせよ、それを存在せしめている善を自分自身で破壊するのでなければ破壊することはできないであろう。

 ゆえにあらゆる存在は善である。自分を損壊することができなければ大きな善であり、損壊することができれば小さな善である。いずれにしても、それが一つの善であることは、錯乱者か愚人でなければ完全に否定することは不可能である。もし損壊によって善が無に帰したら、損壊そのものも持続しないであろう。なぜなら損壊を存続せしめる存在が欠如するからである。

 したがって、もしいかなる善も存在しなければ、人が悪と呼ぶものは存在しない。しかし、あらゆる悪を免れた善は完全な善であり、一方、いくらか悪を閉じ込めている善は、汚染した、または欠陥のある善である。

聖アウグスティヌス 『エンキリディオン』3-4

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