『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
11 悲劇の朝鮮半島
4 属国の運命
高麗にくらべて、モンゴルは平和でなかった。
フビライは大汗になったとはいうものの、モンゴル全帝国の代表たちによって承認されたものではない。
フビライはその本拠として建設した上都(シャンド)において、みずからクリルタイを召集し、フビライ党だけの議決によって、大汗の位についたのである。王族や重臣のなかで、招かれない者も多かった。
反対党はアリクブカのもとに結集した。
カラコルムでもクリルタイがひらかれ、アリクブカを大汗に推戴した。
それは正式の手続きをふんだクリルタイであり、キプチャク汗国もチャガタイ汗国もオゴタイ汗国も、みなアリクブカを支持したのである。
西方でフビライの味方といえば、イル汗国を建てたプラグのみであった。モンゴル帝国は、ふたつにわかれた。
フビライとアリクブカとの争いは、これから四年にわたってつづけられる。しかしフビライは中国大陸をおさえて、強力であった。
西方の諸汗国も、アリクブカを支持したものの、とくに兵を出して援助することはなかった。
フビライは、じりじりとアリクブカを圧していった。
モンゴルに抗争がつづいているかぎり、高麗は安泰であった。
やがて一三六四年になった。ついにアリクブカは、兄の軍門にくだる。
モンゴルはふたたび一人の大汗のもとに統一された。
さきにフビライは、その即位とともに中国ふうの元号をさだめて「中統」と袮していたが、ここに(中統五年)国内の平定をいわって「至元」とあらためた。
そして諸汗国や属国に対してフビライのもとに入朝することを命じた。
高麗の国王にも、入朝すべしとの命令がくだった。
国王みずから入朝するということは、高麗の歴史にその前例はない。
しかし元宗は、入朝することにふみきった。モンゴルとの和親を第一とかんがえたからであった。
五年前に太子として入朝した同じ道を、元宗は燕京(北京)におもむいた。そして大汗に謁見し、好遇をうけて帰った。
しかし西方の諸汗国の君主たちは、その領内の事情などがあって、いずれも入朝しなかった。
オゴタイ汗国のバイスに至っては、はっきりと入朝をことわった。
バイスこそは、オゴタイの直系の孫として、本来ならばみずから大汗となるべきことを自認していたのであった。
いまや、フビライに反旗をひるがえす。
オゴタイ汗国をひきいて、チャガタイ汗国をも勢力のもとにおさめ、さらにキプチャク汗国とも回盟した。
フビライは、ふたたび強力な敵を西方にむかえねばならなくなった。
バイスの反乱は、これより二十余年にわたって、フビライをなやます。
たしかにフビライにとって、バイスは大敵であった。
しかしフビライが目ざしていたのは、南方の中国大陸である。
そこには衰えたりといえ、宋帝国があって、ながい間のモンゴルの圧力にも屈せず、抵抗をこころみている。
フビライは、南宋の実力を過大に評価していた。
したがって南方に兵を進めるにあたっては、きわめて慎重であった。
宋と、しきりに貿易をおこなっているのが、日本である。
その日本は、黄金を産した。真珠を産した。
とにかく宋と貿易するにあたって、日本の商人は黄金や真珠を、それも大量に持ちこんだのである。
こういう貴重なものを、どしどし持ちこむのであれば、日本という国には、黄金や真珠がみちみちているに違いない、とまで想像された。
日本が「黄金の国」とかんがえられたことは、のちにマルコ・ボーロも記している。そして。マルコは述べた。
「この莫大な財宝について耳にした大汗、すなわち今の皇帝フビライは、この島を征服しようと思いたった。」
それはどうか、わからない。
しかしフビライが、宋としたしく通交している日本に、大きな関心をむけたことは事実であった。
この際、日本を自分の陣営に引きいれ、宋との関係を絶たせることができるならば、たにより好都合であろう。
ただ日本は、海のかなたにある。
モンゴル軍にとって、海をこえての遠征は、にがてであった。
モンゴルの騎馬は、長江(揚子江)をわたれないのである。
漢江さえもわたれず、江華島に攻めいることができなかったのである。
しかし日本に通ずるには、高麗という国がある。高麗に道案内をさせればよい。
かねてから高麗は、日本と隣好をむすんでいるという。
まず使者を発し、高麗をへて日本におもむかせ、通交してくるようにさそってみよう。
方針はさだまった。日本を招諭するための国使は、大汗の詔言をもって、高麗の国都へおもむいた。
一行が江都についたのは、至元三年(一二六六)十一月のことである。
11 悲劇の朝鮮半島
4 属国の運命
高麗にくらべて、モンゴルは平和でなかった。
フビライは大汗になったとはいうものの、モンゴル全帝国の代表たちによって承認されたものではない。
フビライはその本拠として建設した上都(シャンド)において、みずからクリルタイを召集し、フビライ党だけの議決によって、大汗の位についたのである。王族や重臣のなかで、招かれない者も多かった。
反対党はアリクブカのもとに結集した。
カラコルムでもクリルタイがひらかれ、アリクブカを大汗に推戴した。
それは正式の手続きをふんだクリルタイであり、キプチャク汗国もチャガタイ汗国もオゴタイ汗国も、みなアリクブカを支持したのである。
西方でフビライの味方といえば、イル汗国を建てたプラグのみであった。モンゴル帝国は、ふたつにわかれた。
フビライとアリクブカとの争いは、これから四年にわたってつづけられる。しかしフビライは中国大陸をおさえて、強力であった。
西方の諸汗国も、アリクブカを支持したものの、とくに兵を出して援助することはなかった。
フビライは、じりじりとアリクブカを圧していった。
モンゴルに抗争がつづいているかぎり、高麗は安泰であった。
やがて一三六四年になった。ついにアリクブカは、兄の軍門にくだる。
モンゴルはふたたび一人の大汗のもとに統一された。
さきにフビライは、その即位とともに中国ふうの元号をさだめて「中統」と袮していたが、ここに(中統五年)国内の平定をいわって「至元」とあらためた。
そして諸汗国や属国に対してフビライのもとに入朝することを命じた。
高麗の国王にも、入朝すべしとの命令がくだった。
国王みずから入朝するということは、高麗の歴史にその前例はない。
しかし元宗は、入朝することにふみきった。モンゴルとの和親を第一とかんがえたからであった。
五年前に太子として入朝した同じ道を、元宗は燕京(北京)におもむいた。そして大汗に謁見し、好遇をうけて帰った。
しかし西方の諸汗国の君主たちは、その領内の事情などがあって、いずれも入朝しなかった。
オゴタイ汗国のバイスに至っては、はっきりと入朝をことわった。
バイスこそは、オゴタイの直系の孫として、本来ならばみずから大汗となるべきことを自認していたのであった。
いまや、フビライに反旗をひるがえす。
オゴタイ汗国をひきいて、チャガタイ汗国をも勢力のもとにおさめ、さらにキプチャク汗国とも回盟した。
フビライは、ふたたび強力な敵を西方にむかえねばならなくなった。
バイスの反乱は、これより二十余年にわたって、フビライをなやます。
たしかにフビライにとって、バイスは大敵であった。
しかしフビライが目ざしていたのは、南方の中国大陸である。
そこには衰えたりといえ、宋帝国があって、ながい間のモンゴルの圧力にも屈せず、抵抗をこころみている。
フビライは、南宋の実力を過大に評価していた。
したがって南方に兵を進めるにあたっては、きわめて慎重であった。
宋と、しきりに貿易をおこなっているのが、日本である。
その日本は、黄金を産した。真珠を産した。
とにかく宋と貿易するにあたって、日本の商人は黄金や真珠を、それも大量に持ちこんだのである。
こういう貴重なものを、どしどし持ちこむのであれば、日本という国には、黄金や真珠がみちみちているに違いない、とまで想像された。
日本が「黄金の国」とかんがえられたことは、のちにマルコ・ボーロも記している。そして。マルコは述べた。
「この莫大な財宝について耳にした大汗、すなわち今の皇帝フビライは、この島を征服しようと思いたった。」
それはどうか、わからない。
しかしフビライが、宋としたしく通交している日本に、大きな関心をむけたことは事実であった。
この際、日本を自分の陣営に引きいれ、宋との関係を絶たせることができるならば、たにより好都合であろう。
ただ日本は、海のかなたにある。
モンゴル軍にとって、海をこえての遠征は、にがてであった。
モンゴルの騎馬は、長江(揚子江)をわたれないのである。
漢江さえもわたれず、江華島に攻めいることができなかったのである。
しかし日本に通ずるには、高麗という国がある。高麗に道案内をさせればよい。
かねてから高麗は、日本と隣好をむすんでいるという。
まず使者を発し、高麗をへて日本におもむかせ、通交してくるようにさそってみよう。
方針はさだまった。日本を招諭するための国使は、大汗の詔言をもって、高麗の国都へおもむいた。
一行が江都についたのは、至元三年(一二六六)十一月のことである。