
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
2 曹氏の一家
3 曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)
曹操には二十五人の男子があったという。女子の数はわからない。
この二十五人のなかで、皇后の卞(べん)氏がうんだのは四人であり、曹丕(文帝)と曹植は卞氏の子である。
そしてこのふたりが、いちばんできがよかった。
それともうひとり十三歳で死んだ曹冲(そうちゅう)が、操の自慢の子であった。
曹冲は、呉の国から象がおくられてきたとき、その体重をはかる方法を考えだした。
船に象をのせ、船が沈んだところにしるしをつけておく、ついで象のかわりにそのところまで石をつみこみ、あとで石の重さを合計すればよい、というのである。
五~六歳の子供がこう言ったのである。曹操はこの子が死んだとき、曹丕らをまえにして、
「これは、わたしにとって不幸であり、おまえたちには幸福である」といって泣いたという。
曹丕と曹植のふたりは、あらゆる面でライバルであった。
政治面では、父の後継者の地位をめぐってあらそった。
父の心は、いったんは弟にかたむいたが、結局のところ曹丕があとをつぎ、魏の初代皇帝になった。
また、かれらは文学の上でも、よき競争者であった。しかし詩作の面では、弟が兄をしのいだ。それだけではない。曹植は父をもふくめて、この時代の文人の最高峰であった。
植の詩人としての才能をしめすエピソードに「七歩の詩」がある。
ある日、兄が言った。七歩あるくあいだに、ひとつの詩をつくれ、と。弟はたちどころに詩をつくった。
「豆を煮て、もって羹(あつもの)となし、豉(みそ)をこして、もって汁となす。
萁(まめがら)は釜の下にありて燃え、豆は釜の中にありて泣く、もとこれ同根より生ずるに、相煮るのなんとはなはだ急なる。」
兄弟なかの悪いことをも諷刺しているといわれる。
それで兄は、これをみて恥じたという。また兄弟は、ある女性をなかにしてあらそった。
その女性は袁紹(えんしょう)の息子の嫁で、甄(しん)氏という。
絶世の美女で、じつは父の曹操もひそかに目をつけていた。
最後に甄氏は曹丕の妃となり、やがてなくなった。
曹植の「洛神の賦」は、洛水の女神にことよせて、いまは亡き女性へ、永遠(とわ)のあこがれと思慕をうたったとされている。「洛神の賦」は、漢代の賦の形式によったものであった。
五言詩としても、風に吹かれてころがり飛ばされてゆく蓬(よもぎ)にたとえて、自分が兄によってつぎつぎに領地をうつされることをうたった「吁嗟(うさ)篇」、子ができないためにすてられた妻の心をよんだ「棄婦(きふ)篇」、流浪の作者が故郷をおもう情をうたった「情詩」、旅にでた夫をおもう「七哀(しちあい)」など、かずかずの名作をのこしている。
ただ、曹植の詩には、言葉の表面だけの意味では解釈できないものが多い。
そこにはかならず比喩があり、かれの本心がかくされているとされるので、きわめてむずかしい。
とくに兄との関係にひっかけての作が多いから、やっかいである。
「南国によき人あり、容華は桃李のごとし、朝(あした)に江北の岸にあそび、夕(ゆうべ)に瀟湘(しょうしょう)のなぎさにやどる。時俗は朱顔をかろんず、誰(た)がためにか皓歯(こうし)をひらかん、俛仰(ふぎょう)して歳まさに暮れなんとす、栄耀は久しく恃(たの)みがたし。」(雑詩)
この詩は、美人がひとに見むきもされず、老いてゆくのをなげいた詩なのだが、美人こそ実は曹植であり、兄と合わずに不遇にあるのをなげく、というたぐいである。
いっぽう曹丕は、詩作においてこそ弟に一歩をゆずったが、中国における最初の文学評論たる『典論(てんろん)』の作者として、やはり文学史の上に欠くことはできない。
詩も父より上というのが、のちの六朝(りくちょう)時代の評価である。『典論』論文篇に、
「文章は経国の大業、不朽の盛事なり、年寿は時あってつき、栄華はその身にとどまる。二者必至の常期あり、いまだ文章の無窮になるにしかず」
と述べているのは、文学の独立宣言などといわれる。
ところで、この典論の自序は曹丕の自叙伝でもある。
それによると曹操は、曹丕に五~六歳のころから武芸をならわせて、また詩経と論語を暗誦させ、五経・史記・漢書(かんじょ)・諸子百家の書にいたるまで、勉強するように命じていたのであった。
2 曹氏の一家
3 曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)
曹操には二十五人の男子があったという。女子の数はわからない。
この二十五人のなかで、皇后の卞(べん)氏がうんだのは四人であり、曹丕(文帝)と曹植は卞氏の子である。
そしてこのふたりが、いちばんできがよかった。
それともうひとり十三歳で死んだ曹冲(そうちゅう)が、操の自慢の子であった。
曹冲は、呉の国から象がおくられてきたとき、その体重をはかる方法を考えだした。
船に象をのせ、船が沈んだところにしるしをつけておく、ついで象のかわりにそのところまで石をつみこみ、あとで石の重さを合計すればよい、というのである。
五~六歳の子供がこう言ったのである。曹操はこの子が死んだとき、曹丕らをまえにして、
「これは、わたしにとって不幸であり、おまえたちには幸福である」といって泣いたという。
曹丕と曹植のふたりは、あらゆる面でライバルであった。
政治面では、父の後継者の地位をめぐってあらそった。
父の心は、いったんは弟にかたむいたが、結局のところ曹丕があとをつぎ、魏の初代皇帝になった。
また、かれらは文学の上でも、よき競争者であった。しかし詩作の面では、弟が兄をしのいだ。それだけではない。曹植は父をもふくめて、この時代の文人の最高峰であった。
植の詩人としての才能をしめすエピソードに「七歩の詩」がある。
ある日、兄が言った。七歩あるくあいだに、ひとつの詩をつくれ、と。弟はたちどころに詩をつくった。
「豆を煮て、もって羹(あつもの)となし、豉(みそ)をこして、もって汁となす。
萁(まめがら)は釜の下にありて燃え、豆は釜の中にありて泣く、もとこれ同根より生ずるに、相煮るのなんとはなはだ急なる。」
兄弟なかの悪いことをも諷刺しているといわれる。
それで兄は、これをみて恥じたという。また兄弟は、ある女性をなかにしてあらそった。
その女性は袁紹(えんしょう)の息子の嫁で、甄(しん)氏という。
絶世の美女で、じつは父の曹操もひそかに目をつけていた。
最後に甄氏は曹丕の妃となり、やがてなくなった。
曹植の「洛神の賦」は、洛水の女神にことよせて、いまは亡き女性へ、永遠(とわ)のあこがれと思慕をうたったとされている。「洛神の賦」は、漢代の賦の形式によったものであった。
五言詩としても、風に吹かれてころがり飛ばされてゆく蓬(よもぎ)にたとえて、自分が兄によってつぎつぎに領地をうつされることをうたった「吁嗟(うさ)篇」、子ができないためにすてられた妻の心をよんだ「棄婦(きふ)篇」、流浪の作者が故郷をおもう情をうたった「情詩」、旅にでた夫をおもう「七哀(しちあい)」など、かずかずの名作をのこしている。
ただ、曹植の詩には、言葉の表面だけの意味では解釈できないものが多い。
そこにはかならず比喩があり、かれの本心がかくされているとされるので、きわめてむずかしい。
とくに兄との関係にひっかけての作が多いから、やっかいである。
「南国によき人あり、容華は桃李のごとし、朝(あした)に江北の岸にあそび、夕(ゆうべ)に瀟湘(しょうしょう)のなぎさにやどる。時俗は朱顔をかろんず、誰(た)がためにか皓歯(こうし)をひらかん、俛仰(ふぎょう)して歳まさに暮れなんとす、栄耀は久しく恃(たの)みがたし。」(雑詩)
この詩は、美人がひとに見むきもされず、老いてゆくのをなげいた詩なのだが、美人こそ実は曹植であり、兄と合わずに不遇にあるのをなげく、というたぐいである。
いっぽう曹丕は、詩作においてこそ弟に一歩をゆずったが、中国における最初の文学評論たる『典論(てんろん)』の作者として、やはり文学史の上に欠くことはできない。
詩も父より上というのが、のちの六朝(りくちょう)時代の評価である。『典論』論文篇に、
「文章は経国の大業、不朽の盛事なり、年寿は時あってつき、栄華はその身にとどまる。二者必至の常期あり、いまだ文章の無窮になるにしかず」
と述べているのは、文学の独立宣言などといわれる。
ところで、この典論の自序は曹丕の自叙伝でもある。
それによると曹操は、曹丕に五~六歳のころから武芸をならわせて、また詩経と論語を暗誦させ、五経・史記・漢書(かんじょ)・諸子百家の書にいたるまで、勉強するように命じていたのであった。