永井隆「神の力と人の力」
天下の栄華を一身に集めたというソロモン大王の服は、それこそ人工の美を尽くし粋をこぞったものであったにちがいないが、それでもなお野に咲く百合の花にはおよばなかった。ソロモン大王の美服は人間の力でつくり上げたものであり、百合の美しさは神のみ業であった。人間の力の小さいこと!
その小さな力を頼んで、くよくよしている人間、ーまさに信仰薄き者である。百合の花ひとつ作ることのできない人間の力を当てにして何になろう? 人間が食わねば生きてゆけないことも、飲まずにおられぬことも、裸では過ごされぬことも、天なる父はよく知っている。そうして必ず恵んでくださるのだ。
人間はまず神のみ国の来たらんことを求めさえずればいいのだ。神の御意が天国に行なわれているごとく地上にも行なわれるように、力を尽くせばいいのだ。神より善しと認められるように行動すれば、それで十分なのだ。そうすれば必ず食う物も飲む物も着る物も皆与えられるのである。
アシジの聖フランシスコを見れば、このイエズスの言葉が正しいことを知る。フランシスコは一切の私有財産を貧しき隣人に分かち与え、無一物となって、ひたすら神を賛美し、神のみ国のために祈り、神の愛に酔うて歌い歩いた。そして結局飢えることもなく渇くこともなく、風邪もひかずに、平安な一生を送った。遠い昔のイタリアの聖人を引き合いに出すまでもなく、今わが国においても、どこの修道院に行ってみても、目のあたりその実例に出会うであろう。
現代の悲劇は、神の実在を否定し、神のカを頼まず、人間の力だけで何事も完全になし得ると思いこみ、うぬぼれた人類みずからが創作を演出しているものである。自作自演のこの悲劇は、最初の予想ではハッピーエンドに終わることに決定していたのだが、何しろ出演する人間なるものが、皆が皆天使でなかったため、台本を離れた演技を続出し、劇の筋は思いもよらぬ陰惨乱暴な方向へ転がコて、いまでは唯物論者の監督の言葉の指導だけでは統一も調和もとれぬ状態となり、暴力と脅迫と陰謀とをもって無茶苦茶しゃにむに、筋書きを進めるよりほか、収拾の途はないところまで立ち至っていて、うっかりすると出演の人類一同自殺をせねばならぬかもしれぬという、真に恐るべき破局をもって幕をおろすことになりそうだ。
この破局を避け、ハッピーエンドに終わらせるためには、どうしても唯物論者の監督を免職にせねばならぬ、どうもあの赤い服を着た監督に任せておいては、人類全体がひどい目にあわされそうである。監督の頭が少し足らぬか、少しおかしくなっていると、たとい彼が悪意なくとも、舞台は無茶苦茶になるものだ。
赤い服を着た人びとに悪意があって、これほど大規模な人類生体実験をやっていると思いたくない。彼らは人類にユートピアをもたらそうという高い美しい理想を抱いて監督になった。とても熱心だった。とても純情だった。けれども情けないことには、神の実在を否定する、という妙な偏見を持っていた。宇宙を創造した神、自分をも創造したその神を認めない。現に父がありながら、その父を認めず、自分を父無し児だと自慢するとは、頭が少し足りない、と診断せざるを得ない。こんな赤い服を着た人を引っこませ、円満な良識を持つ監督を立てたいものだ。円満な良識を持つ人とは、つくられたものとつくったものとの二つの実在を信ずる人である。物質界のみを認める人もだめ、物質界を心の影だなどと否定して霊界のみを認める人もだめ。いずれも円満な良識を持つとは言われない。
主よ主よ、と口でとなえるばかりで、自分では何もしないでいては、食う物も飲む物も着る物も与えられない。主に祈り求めつつ、御意の地上に行なわれるよう、神のみ国が来るように尽くしてこそ、初めて与えられるのである。天に祈ることも必要、人事を尽くすこともまた必要。いずれの一方にかたよってはいけない。人事を尽くして天命を待つ、のではあるまい。神に祈りつつ人事を尽くすべきである。
二人のわが子の生きる道はこれであろう。
永井隆『この子を残して』(著者はカトリックの医師・医学者、長崎で被曝)
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天下の栄華を一身に集めたというソロモン大王の服は、それこそ人工の美を尽くし粋をこぞったものであったにちがいないが、それでもなお野に咲く百合の花にはおよばなかった。ソロモン大王の美服は人間の力でつくり上げたものであり、百合の美しさは神のみ業であった。人間の力の小さいこと!
その小さな力を頼んで、くよくよしている人間、ーまさに信仰薄き者である。百合の花ひとつ作ることのできない人間の力を当てにして何になろう? 人間が食わねば生きてゆけないことも、飲まずにおられぬことも、裸では過ごされぬことも、天なる父はよく知っている。そうして必ず恵んでくださるのだ。
人間はまず神のみ国の来たらんことを求めさえずればいいのだ。神の御意が天国に行なわれているごとく地上にも行なわれるように、力を尽くせばいいのだ。神より善しと認められるように行動すれば、それで十分なのだ。そうすれば必ず食う物も飲む物も着る物も皆与えられるのである。
アシジの聖フランシスコを見れば、このイエズスの言葉が正しいことを知る。フランシスコは一切の私有財産を貧しき隣人に分かち与え、無一物となって、ひたすら神を賛美し、神のみ国のために祈り、神の愛に酔うて歌い歩いた。そして結局飢えることもなく渇くこともなく、風邪もひかずに、平安な一生を送った。遠い昔のイタリアの聖人を引き合いに出すまでもなく、今わが国においても、どこの修道院に行ってみても、目のあたりその実例に出会うであろう。
現代の悲劇は、神の実在を否定し、神のカを頼まず、人間の力だけで何事も完全になし得ると思いこみ、うぬぼれた人類みずからが創作を演出しているものである。自作自演のこの悲劇は、最初の予想ではハッピーエンドに終わることに決定していたのだが、何しろ出演する人間なるものが、皆が皆天使でなかったため、台本を離れた演技を続出し、劇の筋は思いもよらぬ陰惨乱暴な方向へ転がコて、いまでは唯物論者の監督の言葉の指導だけでは統一も調和もとれぬ状態となり、暴力と脅迫と陰謀とをもって無茶苦茶しゃにむに、筋書きを進めるよりほか、収拾の途はないところまで立ち至っていて、うっかりすると出演の人類一同自殺をせねばならぬかもしれぬという、真に恐るべき破局をもって幕をおろすことになりそうだ。
この破局を避け、ハッピーエンドに終わらせるためには、どうしても唯物論者の監督を免職にせねばならぬ、どうもあの赤い服を着た監督に任せておいては、人類全体がひどい目にあわされそうである。監督の頭が少し足らぬか、少しおかしくなっていると、たとい彼が悪意なくとも、舞台は無茶苦茶になるものだ。
赤い服を着た人びとに悪意があって、これほど大規模な人類生体実験をやっていると思いたくない。彼らは人類にユートピアをもたらそうという高い美しい理想を抱いて監督になった。とても熱心だった。とても純情だった。けれども情けないことには、神の実在を否定する、という妙な偏見を持っていた。宇宙を創造した神、自分をも創造したその神を認めない。現に父がありながら、その父を認めず、自分を父無し児だと自慢するとは、頭が少し足りない、と診断せざるを得ない。こんな赤い服を着た人を引っこませ、円満な良識を持つ監督を立てたいものだ。円満な良識を持つ人とは、つくられたものとつくったものとの二つの実在を信ずる人である。物質界のみを認める人もだめ、物質界を心の影だなどと否定して霊界のみを認める人もだめ。いずれも円満な良識を持つとは言われない。
主よ主よ、と口でとなえるばかりで、自分では何もしないでいては、食う物も飲む物も着る物も与えられない。主に祈り求めつつ、御意の地上に行なわれるよう、神のみ国が来るように尽くしてこそ、初めて与えられるのである。天に祈ることも必要、人事を尽くすこともまた必要。いずれの一方にかたよってはいけない。人事を尽くして天命を待つ、のではあるまい。神に祈りつつ人事を尽くすべきである。
二人のわが子の生きる道はこれであろう。
永井隆『この子を残して』(著者はカトリックの医師・医学者、長崎で被曝)
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