『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
6 江南の王朝
3 新興の階層
ところで貴族社会をつきあげる力が、きわめてゆるやかに、かつ静かにではあるが、その底部からくわわりつつあった。
それを一言でいいあらわせば、寒人層の台頭ということになろう。
王室それ自体が元来(がんらい)貴族の一員であった晋王朝とは異なって、武人による王朝がたてられはじめたこと自体が、すでに寒人の力の台頭を示す一つの事実ではある。
貴族たちは、よい家柄に生まれたおかげて、高位顕官(けんかん)を独占することができた。
しかしかれらは、政務に精をだすことを下種のすることだと軽蔑していた。
政務にはりきりすぎた長官のひとりは、その仲間から、「きみのあくせくぶりは、まるで砂をかむように味気ない。
とてもお疲れのことだろう」と皮肉をいわれた。
公文書に目をとおすこともなく、ただ盲判(めくらばん)をついているだけの生活が風流と考えられたのだ。
これでは政治をスムースにおこなうことは、とてもできない。
そこで天子は、実務にあかるい寒人を起用し、正規の官僚システムとは別個に内閣を構成することを考えだした。
宋の孝武帝(こうぶてい)、あるいは明帝(めいてい)の時代からみられる傾向である。
これら、天子の側近にはべる寒人は、恩倖(おんこう)とよばれた。
貴族が、その高い地位にもかかわらず、政治からたなあげされる第一歩がここにふみだされたのであった。
風流宰相をもって自認していた斉の王倹(おうけん)が、恩倖のひとり茹法亮(じょほうりょう)の専権をいまいましく感じて、「おれは高い地位におりながら、権勢は茹公(じょこう)どのにとてもかなわぬ」ともらしているのは、その間の事情をものがたっている。
そして天子が恩倖になにを期待したかは、恩倖のひとり劉係宗(りゅうけいそう)を、つぎのように批評していることからあきらかであろう。
「貴族たちは本を読んでいるばっかりで政治にはむかぬ。政治には劉係宗ひとりでたくさんだ。
沈約(しんやく)や王融(おうゆう)が何百人いたところで、なんの役にたとう。」
沈約(しんやく)、王融(おうゆう)、ともに当時を代表する文人貴族であった。
さきにのべたように、士族と庶民の区別が、はっきりつけられていることが、そもそも貴族社会が成りたちうる大前提であった。
ところが、やはり宋の孝武帝のころから、士庶の区別の混乱がめだちだす。
たびかさなる戦争や内乱で軍功をつんだ武人が、士族の身分を獲得するにいたったほか、戸籍の上のインチキがふえはじめた。
その人間が士族であるか、それとも庶民であるかは、戸籍に明記されていたのだが、庶民階級のものが小役人に賄賂(わいろ)をつかって、戸籍の書きかえをたのんだのである。
徭役(ようえき)の負担者である庶民の数がへると、王朝にとって大損失であるだけではない。
士族の数がふえれば、貴族の特権のわけまえがそれだけすくなくなるため、為政者は戸籍のインチキの摘発にのりだした。
これを不満とする民衆が、斉の永明三年(四八五)、長江デルタ地帯において反乱をおこしたことさえあった。
その指導者の名をとって、唐寓之(とううし)の乱とよばれるものである。
戸籍の書きかえのためにつかわれる賄賂の相場は、およそ一万銭であった。
おなじころ、戸数二万のある地方都市についておこなわれた財産調査によると、その半数は財産の評価額が三千銭にもみたなかったというから、一万銭はけっしてなまやさしい金額ではない。
だからそこには当然、経済的にゆとりのある庶民の存在が予想されねばならない。
かれらは、いなかの地主であるとか、またより多くは、生産力の発展にともなう貨幣経済の波にうまくのった一部の商人たちであったろう。
貴族の特権をフルに活用して経営していた荘園も、しだいにかれらのために食いあらされ、貴族の性格が、王朝からうけとる俸祿(ほうろく)によってもっぱら生活をたてるサラリーマン貴族にかわってゆく。
恩倖のなかにも、商人の出身者がすくなくなかったといわれる。かれらを「台使(だいし)」とよばれる納税督促の使者として派遣すれば、もちまえの腕前を発揮した。
たとえ商人の出身ではなくとも、恩倖には商人からの支持があった。
おなじ寒人のなかのチャンピオンであるうえ、恩倖のコネクションで政権に近づけば、御用商人として甘い汁にありつくことができたからである。
6 江南の王朝
3 新興の階層
ところで貴族社会をつきあげる力が、きわめてゆるやかに、かつ静かにではあるが、その底部からくわわりつつあった。
それを一言でいいあらわせば、寒人層の台頭ということになろう。
王室それ自体が元来(がんらい)貴族の一員であった晋王朝とは異なって、武人による王朝がたてられはじめたこと自体が、すでに寒人の力の台頭を示す一つの事実ではある。
貴族たちは、よい家柄に生まれたおかげて、高位顕官(けんかん)を独占することができた。
しかしかれらは、政務に精をだすことを下種のすることだと軽蔑していた。
政務にはりきりすぎた長官のひとりは、その仲間から、「きみのあくせくぶりは、まるで砂をかむように味気ない。
とてもお疲れのことだろう」と皮肉をいわれた。
公文書に目をとおすこともなく、ただ盲判(めくらばん)をついているだけの生活が風流と考えられたのだ。
これでは政治をスムースにおこなうことは、とてもできない。
そこで天子は、実務にあかるい寒人を起用し、正規の官僚システムとは別個に内閣を構成することを考えだした。
宋の孝武帝(こうぶてい)、あるいは明帝(めいてい)の時代からみられる傾向である。
これら、天子の側近にはべる寒人は、恩倖(おんこう)とよばれた。
貴族が、その高い地位にもかかわらず、政治からたなあげされる第一歩がここにふみだされたのであった。
風流宰相をもって自認していた斉の王倹(おうけん)が、恩倖のひとり茹法亮(じょほうりょう)の専権をいまいましく感じて、「おれは高い地位におりながら、権勢は茹公(じょこう)どのにとてもかなわぬ」ともらしているのは、その間の事情をものがたっている。
そして天子が恩倖になにを期待したかは、恩倖のひとり劉係宗(りゅうけいそう)を、つぎのように批評していることからあきらかであろう。
「貴族たちは本を読んでいるばっかりで政治にはむかぬ。政治には劉係宗ひとりでたくさんだ。
沈約(しんやく)や王融(おうゆう)が何百人いたところで、なんの役にたとう。」
沈約(しんやく)、王融(おうゆう)、ともに当時を代表する文人貴族であった。
さきにのべたように、士族と庶民の区別が、はっきりつけられていることが、そもそも貴族社会が成りたちうる大前提であった。
ところが、やはり宋の孝武帝のころから、士庶の区別の混乱がめだちだす。
たびかさなる戦争や内乱で軍功をつんだ武人が、士族の身分を獲得するにいたったほか、戸籍の上のインチキがふえはじめた。
その人間が士族であるか、それとも庶民であるかは、戸籍に明記されていたのだが、庶民階級のものが小役人に賄賂(わいろ)をつかって、戸籍の書きかえをたのんだのである。
徭役(ようえき)の負担者である庶民の数がへると、王朝にとって大損失であるだけではない。
士族の数がふえれば、貴族の特権のわけまえがそれだけすくなくなるため、為政者は戸籍のインチキの摘発にのりだした。
これを不満とする民衆が、斉の永明三年(四八五)、長江デルタ地帯において反乱をおこしたことさえあった。
その指導者の名をとって、唐寓之(とううし)の乱とよばれるものである。
戸籍の書きかえのためにつかわれる賄賂の相場は、およそ一万銭であった。
おなじころ、戸数二万のある地方都市についておこなわれた財産調査によると、その半数は財産の評価額が三千銭にもみたなかったというから、一万銭はけっしてなまやさしい金額ではない。
だからそこには当然、経済的にゆとりのある庶民の存在が予想されねばならない。
かれらは、いなかの地主であるとか、またより多くは、生産力の発展にともなう貨幣経済の波にうまくのった一部の商人たちであったろう。
貴族の特権をフルに活用して経営していた荘園も、しだいにかれらのために食いあらされ、貴族の性格が、王朝からうけとる俸祿(ほうろく)によってもっぱら生活をたてるサラリーマン貴族にかわってゆく。
恩倖のなかにも、商人の出身者がすくなくなかったといわれる。かれらを「台使(だいし)」とよばれる納税督促の使者として派遣すれば、もちまえの腕前を発揮した。
たとえ商人の出身ではなくとも、恩倖には商人からの支持があった。
おなじ寒人のなかのチャンピオンであるうえ、恩倖のコネクションで政権に近づけば、御用商人として甘い汁にありつくことができたからである。