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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
7 六朝の文化
4 陶淵明(とうえんめい)と謝霊運(しゃれいうん)
曹操(そうそう)父子を中心につくられた詩風、その時代の名をとって、建安(けんあん)の風骨などとよばれる詩風は、その後かならずしも正しくは受けつがれなかった。
詩形こそ、かれらがはじめた五言(ごごん)詩が主流を占めたけれども、玄学の流行の影響で、「りくつっぼくて、味気ない」(詩品)詩ばかりがつくられたからだという。
しかしやがて、この退屈をやぶるふたりの詩人があらわれる。
ひとりは田園詩人の名で呼ばれる陶淵明(とうえんめい、東晋末期)、他のひとりは、山水詩人の名で呼ばれる謝霊運(しゃれいうん、宋)である。
陶淵明が地方の小県の知事であったとき、上級官庁から監察官がやってきた。
部下たちは衣冠(いかん)束帯(そくたい)して出むかえるようすすめたけれども、
「われ五斗米(ごとべい)のために郷里の小人にむかいて腰を折るあたわず。」
わずかのサラリーのために小僧にぺこぺこできるか、そういって役人生活にきりをつけ、「帰りなんいざ」とうたいつつ、廬山(江西省)の南にある故郷にひきこもったのであった。
かれはそこでみずからはたけを耕し、純朴な農人とまじわり、こよなく酒を愛する生活にはいった。
そして人間の真実――かれはそれを真と表現する――について思索し、詩にうたったのである。
かれの自伝「五柳(ごりゅう)先生伝」のいうところに、しばらく耳をかたむけてみることにしよう。
「先生は何許(いずこ)の人なるかを知らず。
またその姓と字(あざな)とをも詳(つまび)らかにせず。
宅(いえ)の辺(ほとり)に五つの柳(やなぎ)の樹(き)あり。よりて以(もっ)て号となす。
閑(ひそ)まり静かにして言(ことば)すくなく、栄(ほまれ)と利(とみ)とを慕(した)わず。
読書をこのむも甚(む)りに解することを求めず。
ただ意(こころ)に会(かな)うことあるたびに、すなわち欣然(きんぜん)として食をすら忘る。
性(うま)れつき酒を嗜(この)むも、家まずしければ常には得(う)るあたわず。
親旧(しりびと)その此(かく)のごとくなるを知り、あるいは酒を置(もう)けて招くことあれば、造(いた)り飲みて輒(つね)に尽(つ)くす。
期(ほど)とするところは必ず酔うことにあり。すでに酔えば退く。
去るにも留まるにも曾(いささ)かも吝(きたな)き情(こころ)なし。
環(せま)き堵(へや)は蕭然(しょうぜん)として、風と日ざしとをおおわず。
みじかき褐(けごろも)は穿(あな)あき結(そそ)け、箪(わりご)と瓢(ふくべ)はしばしばむなしきも、晏如(あんじょ)としてやすらかなり。
つねに文章を著わしてみずから娯(たの)しむ。いささか己(おのれ)の志を示すのみ。懐(おもい)は得失に忘(むな)し。
ここを以(もっ)て自(み)を終わる。」
ところで陶淵明が田園生活にはいったのは、ちょうど東晋王朝をうばおうとする劉裕(りゅうゆう)の野心が、日ましに露骨にあらわれてくるころであった。
それゆえ後世の批評家は、かれの詩の表面の平静さにもかかわらず、その底には世の不正に対するはげしい感情がうずまいているのだ、といっている。
かれの全集をはじめて緇んだ梁の昭明(しょうめい)太子も、
「陶淵明の詩には篇々に酒があらわれるのをいぶかるものがあるが、自分のみるかぎり、かれの目的は酒そのものにあるのではなくして、酒にかこつけて韜晦(とうかい)しているにすぎない」
と述べている。
ここには、連作「飲酒(いんしゅ)」の第五首をあげよう。
結廬在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
采菊東縦下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相与還
此中有真意
欲辨已忘言 廬(いおり)をむすびて人の境(きょう)にあるに
しかも車馬の喧(さわが)しさなし
君に問う 何ゆえに能(よ)く爾(しか)るやと
心遠(のど)かなれば地もおのずと偏(ひそ)まるなり
菊を東の籬(まがき)のもとに采(と)れば
悠然(ゆうぜん)として南山の見ゆ
山の気は日の夕(ゆうべ)なるままに佳(よろ)しく
飛ぶ鳥の相与(あいつ)れだちて還(かえ)りゆく
このなかにこそ真の意(こころ)あり
辨(あげ)つらわんと欲(おも)いたれど已(は)や言(ことば)を忘れたり
わが夏目漱石が『草枕』のなかに、この詩の「采菊東籬下、悠然見南山」の一句をひいて、つぎのような感想をのべているのを示しておこう。
「只(ただ)それきりの裏(うら)に暑苦しい世の中を丸(まる)で忘れた光景が出てくる。
垣の向うに隣の娘が覗(のぞ)いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。
超然と出世間(しゅせけん)的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。」
謝霊運(しゅれいうん)は、陶淵明とはことなって、おしもおされもせぬ名門の出身であった。
会稽(かいけい=漸江省)に壮大な別荘をいとなむだけの経済的なゆとりにもめぐまれていた。
かれは書画をよくし、仏教や老荘思想にもあかるい第一級の文化人であった。
しかし、その野心にもかかわらず、一生を通じて政界に意をうることはなく、あげくのはてには謀叛の嫌疑(けんぎ)をうけて、いのちをおとしたのである。
かれの「始寧(しねい)の墅(しもやしき)を過(と)う」と題する詩の、
「白き雲は幽(おぐら)き石を抱(いだ)き、緑(みどり)の篠(ささ)は青き漣(なぎさ)に媚(こ)ぶ」。
とうたわれる一句は、自然風景をよんだ詩句のうちの絶唱とされている。
このように絵画的で、きめこまかい手法は、もちろんすばらしい。
そのうえかれの詩は、そのエピゴーネンたちが、ひたすら耽美(たんび)の方向にのみむかったのとはちがって、哲学にささえられているために、いっそうすばらしいのである。
朧霊運は、山水自然のなかにわが身を沈潜させることによって、生のよろこびをみいだした。
美しい山水自然をもとめて、今日の登山家も顔まけするほどに深山幽谷をあるきまわった。
そのために、ひとつの足駄(あしだ)をくふうし、けわしい山をのぼるときには前歯をとり、くだるときには後歯をとりはずしたという。
かれにとって山水は、人間の精神をたのしませ、浄化し、人間を宇宙の実在そのものとひとつにならせてくれる存在であった。
陶淵明の田園詩にうたいこまれる自然の風物が、なおなまなましい人間のにおいを感じさせるのに対して、謝霊運の場合は、人間までもが、山水と同じく大自然の調和のもとにある存在としてうたわれる。
『荘子(そうじ)』には、山水自然のなかの自由な生活に対する賛美が、しばしば語られている。
そして謝霊運の別荘がおかれた会稽は、すばらしい形勝の地であった。
六朝人をとりまく美しい江南の山水と、かれらが心からほれこんだ荘子の思想を背景として、謝霊運の山水詩はうまれたのであった。
ここで、当時の散文について簡単にふれるなら、四六文(しろくぶん)とか駢儷文(べんれいぶん)とかよばれる美文が、散文の主流であった。
詔勅(しょうちょく)、書翰、論文など、おおむねがこの文体で書かれた。
一句が四字ないしは六字からなりたつために四六文の名があり、また対句によって文章を構成するために駢儷文の名がある。
駢(べん)とは、ならんで馳(は)せゆく二匹の馬、儷(れい)とは男女のつれあいのことである。
このように、それは視覚的に形式がととのえられているだけではない。
さらに聴覚的にも美文であらねばならない。つまり、文章が音楽的リズムをもつのである。
中国語はがんらい一語が一音節(シラブル)であるうえに、一語一語に固有の声 調が存在している。
声調(ピッチアクセント)は四声(しせい)、すなわち平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にっしょう)の四つに分類される。
そして上去入(じょうきょにゅう)の三声をあわせて仄声(そくせい)とよび、平声と対応される。
中国語に声調の存在することは、もちろん早くからうすうす気づかれていたにちがいない。
しかし、それが意識にのぼり、四声というかたちに整理されるのは、斉(せい)・梁(りょう)のころ(五~六世紀)であった。
そのころ、四声とはなんぞや、と天子からたずねられた学者が、「天子聖哲」と当意即妙にこたえた話がったわってぃる。
「天子聖哲」を中国語で発音すれば、平上去入の順序になるのである。
この自覚された声調が文章に適用され、平声と仄声とが一定の規律でならべられるにいたって、四六文は美文としていっそう完成したのであった。
梁の昭明(しょうめい)太子が編んだ『文選(もんぜん)』は、おもに六朝の詩と美文の散文を中心とする詞華集(アンソロジー)である。
『枕草子』に、「書(ふみ)は文集(もんじゅう)、文選(もんぜん)……」とかたられているとおり、この「文選」は、わが国、平安朝人の愛読書でもあった。
7 六朝の文化
4 陶淵明(とうえんめい)と謝霊運(しゃれいうん)
曹操(そうそう)父子を中心につくられた詩風、その時代の名をとって、建安(けんあん)の風骨などとよばれる詩風は、その後かならずしも正しくは受けつがれなかった。
詩形こそ、かれらがはじめた五言(ごごん)詩が主流を占めたけれども、玄学の流行の影響で、「りくつっぼくて、味気ない」(詩品)詩ばかりがつくられたからだという。
しかしやがて、この退屈をやぶるふたりの詩人があらわれる。
ひとりは田園詩人の名で呼ばれる陶淵明(とうえんめい、東晋末期)、他のひとりは、山水詩人の名で呼ばれる謝霊運(しゃれいうん、宋)である。
陶淵明が地方の小県の知事であったとき、上級官庁から監察官がやってきた。
部下たちは衣冠(いかん)束帯(そくたい)して出むかえるようすすめたけれども、
「われ五斗米(ごとべい)のために郷里の小人にむかいて腰を折るあたわず。」
わずかのサラリーのために小僧にぺこぺこできるか、そういって役人生活にきりをつけ、「帰りなんいざ」とうたいつつ、廬山(江西省)の南にある故郷にひきこもったのであった。
かれはそこでみずからはたけを耕し、純朴な農人とまじわり、こよなく酒を愛する生活にはいった。
そして人間の真実――かれはそれを真と表現する――について思索し、詩にうたったのである。
かれの自伝「五柳(ごりゅう)先生伝」のいうところに、しばらく耳をかたむけてみることにしよう。
「先生は何許(いずこ)の人なるかを知らず。
またその姓と字(あざな)とをも詳(つまび)らかにせず。
宅(いえ)の辺(ほとり)に五つの柳(やなぎ)の樹(き)あり。よりて以(もっ)て号となす。
閑(ひそ)まり静かにして言(ことば)すくなく、栄(ほまれ)と利(とみ)とを慕(した)わず。
読書をこのむも甚(む)りに解することを求めず。
ただ意(こころ)に会(かな)うことあるたびに、すなわち欣然(きんぜん)として食をすら忘る。
性(うま)れつき酒を嗜(この)むも、家まずしければ常には得(う)るあたわず。
親旧(しりびと)その此(かく)のごとくなるを知り、あるいは酒を置(もう)けて招くことあれば、造(いた)り飲みて輒(つね)に尽(つ)くす。
期(ほど)とするところは必ず酔うことにあり。すでに酔えば退く。
去るにも留まるにも曾(いささ)かも吝(きたな)き情(こころ)なし。
環(せま)き堵(へや)は蕭然(しょうぜん)として、風と日ざしとをおおわず。
みじかき褐(けごろも)は穿(あな)あき結(そそ)け、箪(わりご)と瓢(ふくべ)はしばしばむなしきも、晏如(あんじょ)としてやすらかなり。
つねに文章を著わしてみずから娯(たの)しむ。いささか己(おのれ)の志を示すのみ。懐(おもい)は得失に忘(むな)し。
ここを以(もっ)て自(み)を終わる。」
ところで陶淵明が田園生活にはいったのは、ちょうど東晋王朝をうばおうとする劉裕(りゅうゆう)の野心が、日ましに露骨にあらわれてくるころであった。
それゆえ後世の批評家は、かれの詩の表面の平静さにもかかわらず、その底には世の不正に対するはげしい感情がうずまいているのだ、といっている。
かれの全集をはじめて緇んだ梁の昭明(しょうめい)太子も、
「陶淵明の詩には篇々に酒があらわれるのをいぶかるものがあるが、自分のみるかぎり、かれの目的は酒そのものにあるのではなくして、酒にかこつけて韜晦(とうかい)しているにすぎない」
と述べている。
ここには、連作「飲酒(いんしゅ)」の第五首をあげよう。
結廬在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
采菊東縦下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相与還
此中有真意
欲辨已忘言 廬(いおり)をむすびて人の境(きょう)にあるに
しかも車馬の喧(さわが)しさなし
君に問う 何ゆえに能(よ)く爾(しか)るやと
心遠(のど)かなれば地もおのずと偏(ひそ)まるなり
菊を東の籬(まがき)のもとに采(と)れば
悠然(ゆうぜん)として南山の見ゆ
山の気は日の夕(ゆうべ)なるままに佳(よろ)しく
飛ぶ鳥の相与(あいつ)れだちて還(かえ)りゆく
このなかにこそ真の意(こころ)あり
辨(あげ)つらわんと欲(おも)いたれど已(は)や言(ことば)を忘れたり
わが夏目漱石が『草枕』のなかに、この詩の「采菊東籬下、悠然見南山」の一句をひいて、つぎのような感想をのべているのを示しておこう。
「只(ただ)それきりの裏(うら)に暑苦しい世の中を丸(まる)で忘れた光景が出てくる。
垣の向うに隣の娘が覗(のぞ)いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職して居る次第でもない。
超然と出世間(しゅせけん)的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。」
謝霊運(しゅれいうん)は、陶淵明とはことなって、おしもおされもせぬ名門の出身であった。
会稽(かいけい=漸江省)に壮大な別荘をいとなむだけの経済的なゆとりにもめぐまれていた。
かれは書画をよくし、仏教や老荘思想にもあかるい第一級の文化人であった。
しかし、その野心にもかかわらず、一生を通じて政界に意をうることはなく、あげくのはてには謀叛の嫌疑(けんぎ)をうけて、いのちをおとしたのである。
かれの「始寧(しねい)の墅(しもやしき)を過(と)う」と題する詩の、
「白き雲は幽(おぐら)き石を抱(いだ)き、緑(みどり)の篠(ささ)は青き漣(なぎさ)に媚(こ)ぶ」。
とうたわれる一句は、自然風景をよんだ詩句のうちの絶唱とされている。
このように絵画的で、きめこまかい手法は、もちろんすばらしい。
そのうえかれの詩は、そのエピゴーネンたちが、ひたすら耽美(たんび)の方向にのみむかったのとはちがって、哲学にささえられているために、いっそうすばらしいのである。
朧霊運は、山水自然のなかにわが身を沈潜させることによって、生のよろこびをみいだした。
美しい山水自然をもとめて、今日の登山家も顔まけするほどに深山幽谷をあるきまわった。
そのために、ひとつの足駄(あしだ)をくふうし、けわしい山をのぼるときには前歯をとり、くだるときには後歯をとりはずしたという。
かれにとって山水は、人間の精神をたのしませ、浄化し、人間を宇宙の実在そのものとひとつにならせてくれる存在であった。
陶淵明の田園詩にうたいこまれる自然の風物が、なおなまなましい人間のにおいを感じさせるのに対して、謝霊運の場合は、人間までもが、山水と同じく大自然の調和のもとにある存在としてうたわれる。
『荘子(そうじ)』には、山水自然のなかの自由な生活に対する賛美が、しばしば語られている。
そして謝霊運の別荘がおかれた会稽は、すばらしい形勝の地であった。
六朝人をとりまく美しい江南の山水と、かれらが心からほれこんだ荘子の思想を背景として、謝霊運の山水詩はうまれたのであった。
ここで、当時の散文について簡単にふれるなら、四六文(しろくぶん)とか駢儷文(べんれいぶん)とかよばれる美文が、散文の主流であった。
詔勅(しょうちょく)、書翰、論文など、おおむねがこの文体で書かれた。
一句が四字ないしは六字からなりたつために四六文の名があり、また対句によって文章を構成するために駢儷文の名がある。
駢(べん)とは、ならんで馳(は)せゆく二匹の馬、儷(れい)とは男女のつれあいのことである。
このように、それは視覚的に形式がととのえられているだけではない。
さらに聴覚的にも美文であらねばならない。つまり、文章が音楽的リズムをもつのである。
中国語はがんらい一語が一音節(シラブル)であるうえに、一語一語に固有の声 調が存在している。
声調(ピッチアクセント)は四声(しせい)、すなわち平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にっしょう)の四つに分類される。
そして上去入(じょうきょにゅう)の三声をあわせて仄声(そくせい)とよび、平声と対応される。
中国語に声調の存在することは、もちろん早くからうすうす気づかれていたにちがいない。
しかし、それが意識にのぼり、四声というかたちに整理されるのは、斉(せい)・梁(りょう)のころ(五~六世紀)であった。
そのころ、四声とはなんぞや、と天子からたずねられた学者が、「天子聖哲」と当意即妙にこたえた話がったわってぃる。
「天子聖哲」を中国語で発音すれば、平上去入の順序になるのである。
この自覚された声調が文章に適用され、平声と仄声とが一定の規律でならべられるにいたって、四六文は美文としていっそう完成したのであった。
梁の昭明(しょうめい)太子が編んだ『文選(もんぜん)』は、おもに六朝の詩と美文の散文を中心とする詞華集(アンソロジー)である。
『枕草子』に、「書(ふみ)は文集(もんじゅう)、文選(もんぜん)……」とかたられているとおり、この「文選」は、わが国、平安朝人の愛読書でもあった。