ポルト・マウリシオの聖レオナルド司祭証聖者 St. Leonardus a Portu Mauritio C. 記念日 11月 26日
ポルト・マウリシオはイタリアのジェノヴァ地方の海に臨んだ一小都市に過ぎないが、大聖レオナルドを出したことによってその名を全世界に知られている。
この聖人は1676年同市に産声を挙げた。両親は共に善良な人々であったが、わけても船長の父親は信心深く、その界隈の模範人物と仰がれていた。レオナルドも祈祷や善徳を愛する心を、この父から受け伝えた。一二、三歳になると彼はローマに遊学したが、師友は彼を目にするに第二のアロイジオを以てしたという。彼はその頃から既に、余暇を利して大人子供の誰彼に教会に参詣して天主の御言葉を聴聞するよう奨めなどしたのである。
彼はそれから医学研究の目的で大学へ入った。けれども間もなく修道者となる事に天主の召し出しを感じ、何れの教団に加わるべきか思い惑うている中、或る日途上で二人のフランシスコ会修士を見かけ、深い感銘を受けた。で、彼は相手に知れぬようこっそりその後をつけて彼等の修道院まで行き、その付属聖堂に入った所、ちょうど修士達が「ああ天主よ、我等をして主を仰がしめ給え」と祈っていた。彼は之こそ主の己を呼び給う聖言と思い、早速同会に入会することとした。彼の寄寓先なるローマの伯父はそれと知るや烈火の如く怒り、すぐ様甥を自宅から追い出したが、敬虔な父はわが子の修道を喜んで許してくれた。それは1697年のことであった。
彼は入会の第一日から一切の戒律規則を綿密に遵守実行し、毎週何か一つの徳を特別に目ざして之を完全にわがものとするよう努め、いやしくも心を許して退転することはなかった。
その頃彼も他の宣教師達と同様殉教の誉れを望んで、中国に派遣されん事を願い出た。しかし不幸種々の妨げがあってこの志は実現されなかった。彼はそれを一方ならず遺憾に思ったらしく、後にしばしば「私はキリスト様の為犠牲となる資格がなかったのです」とさも悲しげに言ったとの事である。
レオナルドは司祭になると、哲学の教授に任命された。しかし間もなく健康を害し、医師に診て貰うと肺患という診断である。彼はそれからローマ及び故郷のポルト・マウリシオで二、三年もあらん限りの手を尽くして療養したが、病勢の快復は一向はかばかしくない。で、彼自身も医者や薬に見切りをつけ、今度は天主の御母に依り縋って、もし幸いに全快したら、余生を罪人の改心に献げましょうと誓いを立てた。すると不思議にもさしもの難病もめきめきとよくなって、以前に優る健康体に帰る事が出来たから、レオナルドは誓いの実行に取りかかり、まず自分の修道院の聖堂で説教したり、十字架の道行きの信心を始めたりした。それはまだよそで説教する許可を長上から貰えなかったからであるが、いよいよそれが与えられると、或いは二、三日から一週間に亘り、日に数回説教して華々しい活躍を始めた。人々は之を黙想会と名付けたが、その名は今なお用いられている。
レオナルドの試みは大成功であった、最初の年はジェノヴァ地方の町々村々で説教したが、1709年から40年間は、イタリアの他の諸地方で之を行った。彼は至る所で歓迎され、聴衆は潮のように押し寄せた。説教がすむと彼は告白を聴いた。勿論そんな夥しい人々の告解は彼一人で聴き切れる訳のものではない。長上は彼に幾人かの助手を与えた。彼はこれらの助手を引き連れて諸所を巡回、黙想会を開いた。彼等はレオナルドの計画に従って働き、厳格極まる生活を営み、殆どたえず大斉し、唯人の施しによってのみ生計を維持し、自分等に肝要欠くべからざるものの他は、悉く貧者に分け与えた。そして病人の見舞いを除いては人を訪問せず、他の司祭達と心を合わせて祈った。彼等の説教が常に多大の効果を挙げ得たのは、一にかかる苦行生活の賜物であったのである。
彼が黙想会を開く度に、わけても力を込めて説教するのは、キリストの御受難に就いてであった。その時彼の言々句々は異常な熱を帯びて人々の肺腑を抉り、聴く者いずれも涙せぬはなく、罪人は断腸の思いで改心するのであった。そしてその主の御苦難を深く肝に銘じさせる為に、彼は黙想会の終わりには必ず自分の考案した十字架の道行きの勤めを行うのを常とした。
レオナルドはまた聖母に就いても説く事を怠らなかった。前記の通り彼は聖マリアの御助けによって病魔を撃退する事が出来た。故に感謝報恩の一念から至る所にその崇敬を奨め、聖母讃頌の行列を催し、その聖像を捧持して全市を練り歩きなどした。なお彼は煉獄に関しても度々煉獄に関しても度々語り、そこに苦しむ憐れな霊魂達の為に数多の御ミサを献げて熱心に祈った。
1740年教皇ベネディクト14世はレオナルドをローマに招き、その五つの教会に於いて黙想会を開かしめられたのに怒濤のような大群衆が殺到して到底聖堂内に入り切らぬ為已むなく彼が戸外で説教したことも一再ならずあった。ジェノヴァその他の所に於いても同様の盛況を呈した。レオナルドは遂にコルシカ島にまでも乗り出し、説教や島民の紛争の和解調停を試みるという風で、彼の足跡は殆どイタリア全土に及んだのである。主もこの彼の寧日なき活動を深く多とされたのであろう。しばしば奇蹟を行って彼を嘉賞し給うこともあった。
1749年教皇はまたまた彼をローマに呼び戻し、1750年の聖年に対し、信者に心の準備をさせられた。その説教も多数の聴衆を吸収し、野外で行われねばならぬ有り様であったが、それには教皇も再三親しく臨御あらせられた。
翌年彼はローマの修道院で黙想会を催し、その時は嘗て幾多の殉教者が信仰の為に血を流した闘技場で、始めて大規模に十字架の道行きを勤めた。それからレオナルドはなお数カ所で説教し、翌1751年11月、教皇の御望みで三度ローマに帰った。時に彼は早75歳の高齢であった。
その旅路に於いてレオナルドは病を得た。同行の人々は彼がミサ聖祭を立てる事も控えて徹底的に休養する事を望んだ。しかしレオナルドは言った。「一つの御ミサは地上の宝すべてに優る価値がある」と。
死期の迫っている事を感じた彼は、自分が始めて修士となったローマの聖ボナヴェンツラ修道院へ帰る事を希った。天主は彼の願いを許し給うた。彼は11月26日の夕方6時頃、思い出深いその修道院に帰着した。そしてその晩の11時頃には既にこの世の人でなかった。彼の霊魂はその豊かな勲功の報酬を受くべく主の御許に至ったのである。
全生涯75年の中、修道者たる事54年、その40年以上はイタリア全土の説教行脚に費やされた。彼の遺骸は今ローマの聖レオナルド聖堂に安置されている。その列聖式は1867年、ピオ9世の御代に行われた。
教訓
聖レオナルドの生涯は一つの説教である。天主の聖母、及び受難のキリストに対する尊敬を彼に学ぼう。また十字架の道行きも熱心に勤めよう。日曜日の御ミサの後とか、午後などはそれに適当な時間である。聖レオナルドは毎日度々「我がイエズスよ憐れみ給え!」と祈った。彼はそれに由って自分並みに他人の罪の赦しを主に求めたのである。我等も心から之に倣おう。そうすればイエズスは必ず御慈悲を示し給うに相違ない。
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