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『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
9 後金から大清ヘ
1 女直族(ジョチョク族=北方民族の一派)の怒り
第一の恨み、理由もなく、わが父や祖父を殺害したこと。
第二の恨み、たがいに国境を越えないと誓いあった約束をやぶったこと。
第三の恨み、誓いをやぶった越境者を処刑した報復に、わが使者を殺し、威嚇(いかく)したこと。
第四の恨み、われとイェヘ部族の娘との結婚をさまたげ、その娘をモンゴルに与えたこと。
第五の恨み、国境ちかくでわが女直の民がつくった穀物をとらせず、追いはらったこと。
第六の恨み、悪らつなイェヘ部族を信用して、われらを侮辱したこと。
第七の恨み、天の公平な裁きにそむき、悪を善、善を悪とする不公平をおかしたこと。
一六一八年の四月十三日、アイシンギーロ(愛新覚羅)・ヌルハチは、この「七大恨」を大書し、天をあおいで訴えた。
訴えおわったのち、集結したヌルハチ麾下(きか)十万の大軍は、しずかに動きはじめた。
陣営をあとにする精鋭の前途にまつものは、明軍との決戦である。
ヌルハチこそは、のちに明(みん)朝にかわって中国を支配した大清(だいしん)王朝の創始者(太祖)である。
ときまさに、六十歳に達しようとするところであった。
これよりさき一六一六年、その元旦にあたって(旧暦)、ヌルハチは諸王や諸大臣をはじめ、衆におされてハン(汗)の位につき、国号を後金、年号を天命とさだめていた。
清朝の前身たる後金の建国である。したがって、明朝との決戦を決意するにいたったのは、建国から二年目のことである。この年の正月、
「諸王、諸大臣よ。なんじらは、もはや迷うことはない。われは決意した。明を討つと。」
ヌルハチは、このように群臣を前にして決意を表明し、ついで二月には、
「われは明国に対して、怒るべき七つの大きな恨みをいだいている。もとより小さな恨みは限りがない。
いまこそ、明国を征討すべきときである。」
と諸臣にさとし、四月にいたって行動を開始したのであった。
おもえば、この日まで三十余年、ヌルハチは、つもりにつもる恨みをおさえ、はやりたつ部将をなだめ、ひたすら決戦の時期を待ちつづけてきたのである。
ヌルハチの属する女直族は、明朝の支配下におかれること二百数十年、その自然条件が農耕の生活にめぐまれぬ中国東北地区にあって、牧畜による馬や、狩猟でえた毛皮、山野で採集した薬用のニンジンなどを商品とし、明に対する朝貢貿易や、馬市での取引を、生活の大きな支えとしてきた。
しかも明朝への従属という屈辱にたえつつ、かれらの文物を吸収し、しだいに成長しつつあったのである。
この女直(ジョチョク)というのは、女真(ジョシン)とおなじで、ツングース族のことである。
おそらくは、かれらが自分たちのことをさした“ジュセン”(民の意)の語を、中国人が「女真」とも「女直」とも、しるしたものであろう。
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宋代には女真とよばれ、元代や明代には女直とよばれた。
そして明代には、女直をその住地によって、建州・海西・野人に三大別していた。
ヌルハチは、東北地区の東南部に居住した建州女直の一首長の子として生をうけた。
その運命は、二十五歳をむかえたとき、大きく変化する。
祖父と父が戦死するという悲運にみまわれたのであった。
ときに明朝は、張居正が死んで一年、まさに万暦の弊政はじまろうとする一五八三年のことであった。
ヌルハチが七大恨の第一にあげた恨みは、それが逆境に立つ出発点であったことを示している。
しかし逆境は、かえってヌルハチの本領を発揮する機会をあたえた。
数年にして建州女直の諸部族をしたがえ、その統一に成功したのである。そればかりではない。
一五九三年、ヌルハチにひきいられる建州女直が強大になることをおそれたのが、ほかの女直諸部であった。
かれらは内モンゴルの諸部族と連合して、ヌルハチに対した。
一五九三年、ヌルハチは、この九国の連合軍を撃破した。
これをかわきりとして一六一三年まで、二十年の年月をついやしながら、九国のなかでの強敵をつぎつぎと征服し、女直族の大部分をヌルハチのもとに統合した。
もはや残された強敵は、イェヘのみになった。
第四・第六の恨みにあげるイェヘがこれである。
後金の建国は、その征服にさきだつものであった。
イェヘの攻略は、ヌルハチの威信にかけてもやりとげなければならぬ問題であった。
しかしそのためにはイェヘをたすける明の北辺を攻め、イェヘの孤立化をはがらなければならない。
その日まで、明朝に恭順の態度を示しつづけていたのは、まず女直族の統合をめざしたからにほかならなかった。
いまや、しのびにしのんだ屈辱をはらすべきときはきたのである。
ヌルハチは、出陣する全軍の将士に布告した。
「われは、この戦いをみずからしかけるのではない。七大恨をはらすためである。
戦場で捕えた者の着物をはぎとるな。子女を傷つけるな。抵抗する者は殺し、降る者は殺すな。」
創業の君主は、そのはじめ軍規厳正を心がける。ヌルハチも明の朱元璋も同じであった。
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