聖カタリナ・ラブレ修道女 St. Catherine Laboure 記念日 11月 28日
不思議のメダイの聖母がお現れになったカタリナ・ラブレはフランスのブルゴンヌの小村で1806年に生まれた。9歳の時母に死に別れてから、もっぱら家事に専念したが、1830年7月18日愛徳姉妹会に入ってパリの修道院に送られた。
ある晩カタリナに聖母マリアが現れて、パリの大司教が残酷に殺されるであろうと彼女に告げられた。(この事件は実際1871年に起こった)。
その後カタリナが見たまぼろしの一つは、聖母が地球の上に立ち、その手から光がさして地球を祝福される姿であった。その御姿のまわりには「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え」と記してあった。次ぎにその絵の裏が現れた。そこには十字架を上につけたMの字があり、その下に2つの心臓があって、1つは茨にかこまれ、他の1つは剣に貫かれていた。その時、このようなメダイを作ってもらいなさいという声を聞いた。2年後にパリの大司教の許可を得てメダイの製造が始められ、それ以来、聖母マリアの小さいメダイは至る所で恩恵の奇跡を生んだ。
聖母マリアの聖カタリナ・ラブレへの御出現
カタリナ・ラブレは1830年1月22日に長年の念願がかなってパリの愛徳姉妹会に志願者として受け入れられました、彼女は1806年5月2日に北フランスの田舎町ファン・レ・ムティエという農村に生まれ、カタリナ・ゾエと名付けられ生まれた翌日の土曜日に洗礼を受けました、ゾエとは「いのち」という意味です。彼女は学校教育を受ける機会に恵まれなかった農家の娘でした。カタリナの母は信仰深く、毎日の忙しい生活の中でも子供たちにキリスト教の教えを話し、お祈りを教えたのでした。8人兄弟だったカタリナの後にも妹のトニーヌとオーギュストという弟が生まれ一家は喜びの内にありましたがある日、末っ子のオーギュストが荷車から落ちて動けない身体になり、このことから一家の暮らしは苦しくなっていきました。このことによる心労と苦しい仕事のためにカタリナの母は病気になりカタリナが9歳の時、1815年10月9日にとうとう亡くなってしまいました。この母の死は幼いカタリナにとって大変なショックで彼女はそのことに打ちのめされそうになりましたが、彼女は母が毎日子供たちに唱えさせていたマリア様の祈りを思い出しました、彼女はイエズス様のお母さまであられるマリア様に依り頼むことに慰めを得たのです。彼女は母の死を知ると母の寝室の椅子の上に上って暖炉の上においてあった聖母マリア様の御像を手に取り、胸に抱きしめて大声でいいました。「愛する聖母マリア様、今日から私のお母さんになって下さい」このときからカタリナは聖母に依り頼み、自らを聖母に奉献したのでした。
カタリナが洗礼を授かったファン・レ・ムティエ村の教会
3年が過ぎカタリナが12歳の時23歳の姉マリー・ルイーズが神さまからの召しだしを受け、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが創立した愛徳姉妹会のシスターになりたいと父に願い出ました。父は家事や弟の世話を誰がするのか心配でしたが、12歳のカタリナは母親代わりにすべて引き受け、姉はシスターになることが許されたのでした。姉のマリー・ルイーズがシスターとして家を離れる少し前にカタリナは初めての御聖体拝領を受けることができました。彼女はこの時から幼かったにもかかわらず一家の主婦代わりとして父や、弟、妹、雇い人のために食事や洗濯、裁縫の仕事から家畜の世話までこなしたのでした。そんな忙しい毎日の生活の中で彼女は毎朝御ミサにあずかり、暇を見つけては御聖体を訪問しイエズス様に祈りを捧げたのでした。
カタリナはある夜忘れられない不思議な夢を見ました、その夢の中で彼女が教会でお祈りしていると、一人の年老いた神父様がやってきて御ミサをお捧げになりました、その神父様がじっと彼女のことを見つめたので彼女は逃げ出したくなりましたが、神父様は「あなたはいつか私を見つけるでしょう、神さまはあなたに託す一つの計画をもっておられます。」とおっしゃいました。
カタリナ・ラブレが夢の中で見た神父とは愛徳姉妹会創立者の聖ヴィンセンシオ・ア・パウロであった
この夢を見てから、修道女への召しだしを強く感じたカタリナは、父親に愛徳姉妹会に入りたいと申し出ましたが、父はもうすでに一人の娘を神さまにお捧げしていることを理由に許しを与えてはくれませんでした。
それから数ヶ月してカタリナが18歳になり妹のトニーヌが家事を引き受けられる年齢になると、カタリナはもう一度父親に愛徳姉妹会のシスターになりたいと申し入れました。しかし父はこの願いを聞き入れてやるどころか激しく反対し、彼女の兄のシャルルが経営するパリのカフェへ手伝いに出しました。父は都会のパリでの生活がカタリナの修道女への召しだしを忘れさせてくれるのではないかと期待したからです。兄のシャルルは妹のカタリナが来たのを心から喜んでくれましたが彼女が召しだしのことで苦しんでいるのを知ると、父に話してくれましたが、父はやはり許してはくれませんでした。シャルルはカタリナのもう一人の兄のユベールと話し合い、その結果ユベールの妻が経営する寄宿学校でカタリナをあずかることにしました、この学校は故郷のファン・レ・ムティエからそう遠くないシャティヨン・シュル・セーヌというところにあり。ここではじめてカタリナは読み書きを習うことができたのです。偶然このシャティヨンの町に愛徳姉妹会の修道院があるのを知り、喜んだカタリナは修道院を訪れました、するとその玄関に見覚えのある神父様の肖像画が飾ってあったのです。すかさず彼女はシスターに尋ねました。「この神父様はどなたですか?」シスターは「この方は愛徳姉妹会を創立された聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ神父様ですよ」と答えました。そうです以前、不思議な夢の中で出会った神父様その人だったのです。その後彼女の修道生活への望みは強まるばかりでした。カタリナが幸せそうにシャテヨンの愛徳姉妹会に通う様子を見たユベールはもう一度父親に話してくれました。そしてついに父はカタリナの修道生活への召し出しを神の御旨と受け入れて修道女になる許可を与えてくれたのです。ただ彼女には教育がないという理由ですぐには修道会に受け入れられませんでしたが、ついに彼女は23歳で志願者として愛徳姉妹会に受け入れられたのです。そして4ヶ月後の1830年4月21日にパリのバック通り140番地にある愛徳姉妹会の修練院に修練女としての入会を許可されました。この修練時代、彼女は御聖堂に入る度に御聖体のうちにまことにましますイエズス様の御姿を幻視するようになったのです。
聖母マリア様の初めての御出現 1830年7月18日から19日にかけての深夜
天使は言った。「シスター、シスター、お聖堂に来てください。聖母マリア様があなたをお待ちです。」
聖母マリア様が初めて彼女に御出現になったときの事を、シスター・カタリナは後に彼女の聴罪司祭に次のように話しています。「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ様の祝日の前夜、私たちの良き修道院長であるマザー・マルタ様は諸聖人に対する信心、特に祝されたおとめであられる聖母マリア様に対する信心についてのお話をしてくださいました。私は長い間聖母にお目にかかりたいという望みを持っておりましたので、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ様がそのお恵みをかならずお取り次ぎくださるという確信を持って眠りにつきました。」
「夜中の11時半ころ私は誰かが『シスター!シスター!』と私の名前を呼ぶのを聞きました。一人の4歳から5歳くらいの白い衣を着た子供が私に言いました『お聖堂に来てください、祝された乙女、聖母マリア様があなたをお待ちです。』そのとき、すぐに私は誰かが気がつくのではないかと考えました。するとその子は『心配しないで、今は11時半です。皆さん眠っていますよ。おいでなさい、待っていますから。』と言いました。 わたしは素早く着替えるとその子のそばに立ちました。そして彼についていったのです。すると私たちが行く先にはすべて明かりが灯っていたのです。そして私がお聖堂の入り口に着くと、驚いたことにその子が指先でふっと触れるだけでドアがひとりでに開いたのです。私たちが中に入るとちょうど真夜中の御ミサの時のようにお御堂の燭台とランプに火がすべて灯されていました。しかしながら、私は聖母のお姿を見ることは出来ませんでした。その子供は私を内陣に連れて行ってくれ、私は祭壇のそばににひざまずきました。真夜中の12時が近づいて、彼は私に言いました。『ご覧なさい!聖母マリア様です。ここにいらっしゃいます。』 私は絹のローブがこすれるような音を聞きました。すると、とてもお美しいご婦人が神父様のお座りになる肘掛け椅子にお座りになっていたのです。ですが私はそのご婦人が聖母様であるかどうかわかりませんでした。するとその子は私にもう一度強い声で言いました。『聖母マリア様がここにおられます。』その瞬間、私は聖母の前にかけより祭壇の階段にひざまずきました。そしてわたしの手を聖母の御膝にかけたのです。どれくらいの間そうしていたかはわかりませんが、それは私の生涯の間でも最も甘美なひとときでした。聖母はゆっくりとお話になり、私が霊的指導をしてくださる神父様にどのように接すればよいかを教えてくださり、また聖母が私に打ち明けてくださったいくつかの事柄を心にとどめておくようにおっしゃいました。そして『困難に会ったときは、ここにおいでなさい。そして御聖体のうちにいらっしゃるイエズスさまに心を開いてお祈りするのです。そうすればあなたはすべての必要な慰めを受けるでしょう。』とおっしゃいました。どのくらい聖母のおそばに留まっていたかはわかりません。聖母様はは来られた祭壇の方へ、まるで光が消え去るかのように見えなくなられました。私がひざまずいていた祭壇の階段のところから身を起こすと、子供は『聖母マリア様はお帰りになられました。』と私に告げました。私はその子供に付き添われて元の道を帰りましたが、この時、来たときと同じように明かりが灯されていました。私はいつも守護の天使にたいして聖母マリア様にお会いできるお恵みを求めて祈っておりましたので、この子供は私の守護の天使ではなかったかと思います。私は守護の天使が祈りにこたえて聖母マリア様のもとに案内してくれる役割をしてくれたものと考えています。彼は真っ白い衣に身をつつんでその姿からは太陽の光より輝かしい神秘的な光を放っていました。私がベッドに戻るとちょうど時計が2時の時を知らせるのが聞こえました。しかし私はベッドに入ってもその夜は眠りにつくことができなかったのです。」
御出現された聖母と話すカタリナと守護の天使
この御出現の時、カタリナ・ラブレは2時間以上も聖母マリア様と時を過ごしましたが、後の1876年、彼女が天国へ召される数ヶ月前に自らの手で、そのご出現の時に聖母様が語られた御言葉を明かして、書き残しています。
聖母はこう言われました。
「私の子よ、とても良い神さまは、あなたに一つの使命を託したいと考えておられます。そのことはあなたに多くの悩みを引き起こすでしょうが、あなたはそれが神さまの栄光のためになることを知ってその苦難に打ち勝つことでしょう。あなたは否定されもするでしょうが、あなたは神の栄光を得るでしょう。恐れないでください。あなたが祈りと共に人々にたいしてその使命を果たす事によってあなたは確かなその実りを見ることでしょう。」
また聖母は全世界にたいしてこう忠告されたのです。
「現代は悪の時代です。不幸がフランスに襲いかかるでしょう。王制は倒されるでしょう。全世界はあらゆる種類の悪によって悲惨な目にあわされるでしょう。しかし祭壇のもとにおいでなさい。御恵みを願うすべての者には、偉大な者にも、とるに足らない者にも御恵みが満ちあふれるほどにそそがれるでしょう。」と
このようにして、聖母マリア様のカタリナ・ラブレに対する最初の御出現は終わったのです。
聖母マリア様はカタリナ・ラブレにおっしゃいました「神さまはあなたに一つの使命を託したいとお思われておいでです。」しかしそれが何を意味しているかは11月27日まで、彼女に明らかにされませんでした。
彼女はこの時の御出現をこう表現しています。
「1830年11月27日の土曜日、夕方5時半くらいでした。私が沈黙のうちに黙想しておりますと、ふと聖ヨゼフ様の御絵の近くの祭壇から絹ずれのような音が聞こえましたので、わたしがそちらに振り向くと聖母マリア様がいらっしゃるのが見えました。彼女はお立ちになっておられ、夜明けに見るような感じの色の、白い絹のローブをお召しになっておられました。彼女は半分だけ見える地球の上に立っておられ、その御足はへびの頭を踏みつけておられました。その御手は胸の位置に置かれて、小さな金の十字架が掲げられた世界を象徴するような金色の球を、神にお捧げになられるかのようにくつろいだご様子でお持ちになっておられました。聖母様の御顔の美しさはたとえようもありませんでした。御母はまずそのまなざしを天に向けられ、そして地に向けられました。私は聖母様の御指に3つずつの指輪がはめられているのを見ましたが、美しく輝き光る宝石で作られた指輪から表現できないほど美しく四方へと輝き渡る光はその御足元まであふれたので、私は聖母様の御足も見ることができませんでした。その瞬間聖母様は御まなざしを下に向けられ、私をごらんになり、内なる声で私にお話になられました。「あなたが見ているこの球は、全世界を、特にフランス、とりわけ個々の人々を象徴しています。」内なる声はまたおっしゃいました。「そしてこの光は私に願い求める人々に注がれるお恵みを象徴しているのです。」このことで私は御母に祈ることが間違いのないことで、聖母様に御取り次ぎを願う人々には豊かな報いが与えられることを理解いたしました。そして次の瞬間どのようにかはわかりませんが、聖母様の御身の周りにたまご形の枠ができて、その中に金色の文字で次の言葉が書かれたのです。その言葉は「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え」としるされていました。それから私は声が言うのを聞きました。「この姿の通りにメダイを作ってもらいなさい。このメダイを身につける人は、特に首に掛ける人は、残らず大きなお恵みを受けるでしょう。深い信頼を持ってそれを身につける者は、また特別に豊かな恵みに満ちあふれるでしょう。」聖母のお姿をよく見てみると、いくつかの宝石からはいかなる光も出ていませんでした。聖母様はおっしゃいました「いかなる光も出さないそれらの石は私に依り頼むことを忘れている人々への恩寵を表しているのです。」その時私はその絵が突然裏返ったように見えました、メダイの真ん中には一本の横木と十字架をいただいた大きなMの字があり、その下には二つのみ心、すなわち、茨の冠に囲まれ血を流した主イエズス様の至聖なる聖心と、剣で刺し貫かれて血を流している聖母マリア様の汚れなき御心がありました。そしてその光景は消えていったのです。」
マリア様とイエズス様、お二人の御苦しみは私たちの贖いにむすびつけられているのです。
聖母はこの様な御姿で御出現された。
カタリナの霊的指導司祭のアラデル神父様は彼女からこの話を打ち明けられたとき、若い修練女の想像力からくる幻想だと疑っていました。するとカタリナはもう一度内なる声によって彼女の指導司祭にこのメッセージを伝えることを強く促されたのでした。「聖母マリア様はお喜びになっておられません。」と
彼女の霊的指導司祭はカタリナの言うことによって苦しめられましたが無心に頼み続けるカタリナの姿に少しずつ心を動かされるようになりました。そして神父様はこのことについてパリの大司教様と話し合う機会を得たのです。大司教様はこのことが何も信仰に反することがないので正当な事として認可されました。そして1832年5月に最初のメダイが刻まれ、人々にくばられたのです。そのころパリでは恐ろしい伝染病であるコレラがはやっていて何千人というひとが命を奪われていましたが、人々はなすすべもなくただお祈りするしかありませんでした。愛徳姉妹会のシスターたちは周りの人々に出来たばかりのメダイを配ってマリア様がカタリナに伝えた「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え」というお祈りを繰り返しお祈りするようにすすめたのでした。すると、どうでしょうか!奇跡的に病気から回復する人や、それまで神さまに背を向けていたのに突然神さまを信じて回心するようになった人などが次々と出てきました。そして人々、特に病気の人が喜んで身につけるようになったこの小さなメダイは広く普及していきました。このメダイがあまりにも早く広がり、驚くべき奇跡やお恵みをもたらしましたので、いつのまにか人々から「不思議のメダイ」(奇跡のメダル)と呼ばれるようになって今でもその名で知られています。マリア様の御出現から5年後の1835年には、150万枚ものメダイが刻まれてヨーロッパ中に広がっていったのです。そのメダイの不思議な働きは人々の貧しさや病気の程度などによって、奇跡的な驚くべき場合もあり、ごく自然に行われることもありました。例をあげるなら信仰への回心を得ること、かたくなな罪人の悔悛、家庭に平和が与えられること、事故や天災から奇跡的に救われること、病気からの回復など数え切れません。不思議なメダイを身につける人はその人それぞれがいただいた様々なお恵みを語ることができるのです。不思議のメダイを身につける事は悪魔から救われて真の幸福を得ることなのです。悪魔は聖母マリア様に決して勝つことができません、既に負けているのです。ですから聖母マリア様のお望みのように不思議のメダイを身につけて聖母マリア様に依り頼んで「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え。」という不思議のメダイのお祈りを祈る霊魂は滅びることはなく必ず大きなお恵みをいただくことが出来るのです。
聖カタリナ・ラブレ 愛徳姉妹会修道女
1806年5月2日 ~ 1876年12月31日
湿気の多い地下墓地に埋葬されていたカタリナ・ラブレ修道女の遺骸は、死後56年たって発掘された
不思議なことに彼女のからだは完全にもとのままで、聖母を見た眼は碧い瞳孔さえ残していた。
現在、遺骸はご出現のあったパリの愛徳姉妹会本部・不思議のメダイ教会の祭壇の横に安置され多くの人の崇敬をあつめている。
聖女の位にあげられたのは1947年、ピオ12世教皇聖下によってであった。彼女の死後、71年たっていた。
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