『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
5 斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――
4 マキアベリズム
一四九八年はじめ、まだ二十八歳のフランス・シャルル八世は事故で世を去ったが、つぎのルイ十二世(在位一四九八~一五一五)もイタリアの誘惑からのがれることはできず、出兵をくり返した。
教皇ユリウス二世は、みずから馬で戦場を疾駆(しっく)するような軍人教皇で、これまた前任者たちとはちがった意味で、「もっとも世俗的で聖職者らしからぬ」人物であり、ある同時代人にいわせれば、「血なまぐさい剣闘士の親分」であった。
この教皇が、フランス軍の侵入を黙視するわけはない。
一五一一年、彼は神聖ローマ皇帝、スペイン王などと結んで、このフランス軍に対抗しようとする。
フランスと友好関係をつづけてきたフィレンツェは、連合軍の脅威にさらされるにいたった。
これより先、マキアベリは戦乱のイタリアに処するために、フィレンツェの軍制改革が必要と考えた。
傭兵(ようへい)は無統制、無規律で、ただ給料を目あてに戦場に行くにすぎない。
すぐれた傭兵隊長とは、できるだけ兵員や武器を損傷しないもののことである。
マキアベリは、イタリアの弱点は長年にわたって傭兵に依存してきたことにあり、君主は自国の軍隊を養成しなければならないと考えた。
そこで一五〇六年彼の努力によって、フィレンツェにぞくする町村から兵士が徴集され、国民軍の編成となった。
しかし一五二一年八月スペイン軍がこの都市国家に迫ったとき、その国民軍はほとんど役にたたないで敗走してしまう。
これまでの無責任な傭兵にかえて、愛国的な軍隊を養成しようというマキアベリの考えも、実質がともなわず、構想倒れに終わってしまった。
そして外国勢にあと押しざれて、一五二一年九月メディチ家がふたたびフィレンツェに帰来したのだ。
当時のメディチ家の中心は、「豪華王」ロレンツォの三男ジュリアーノ(一四七九~一五一六)と孫ロレンツォ二世(一四九二~一五一九)である。
それからおよそ二ヵ月後、マキアベリは職を追われ、フィレンツェ領内に禁足され、さらに翌年、反メディチ家の陰謀(いんぼう)に加担したという疑いで投獄された。
教皇レオ十世(在位一五一三~二一)の即位による大赦令で、まもなく釈放されたが、彼は市の郊外に隠棲(いんせい)することをよぎなくされる。
失意のうちに、しかし思いを祖国イタリアと愛するフイレンツェにはせながら、マキアベリは一五二二年の後半、不朽の著『君主論』を完成した。
ヨーロッパ諸国からたえず侵略されているイタリアをどうして救うか、そのためには有能な君主が出現してイタリアを統一するよりほかはない、ではどうすれば君主は強力な統一国家をつくりあげることができるか。
マキアベリは論ずる――
君主権は絶対的であり、宗教や倫理から独立しているべきこと、
国家の利をすすめ、自分の地位を確保するためには、君主は詐欺(さぎ)、賄賂(わいろ)、暗殺などのいかなる手段にも、どのような権謀術数(けんぼうじゅつすう)にも訴えてよいこと、
政治においてはなにが正しいか、なにが悪いかを問うべきではなく、なにが有効か、なにが有害かを問うべきであること、
そして政治においてただひとつの徳は実行力あるのみと。
たとえばマキアベリは書いている。
「……君、王は野獣の性質を適当に学ぶ必要があるのであるが、そのばあい、野獣のなかでは狐とライオンに習うようにすべきである。
というのは、ライオンは策略のわなから身を守れず、狐は狼から身を守れないからである。
わなを見抜くという点では、狐でなくてはならず、狼どもの度胆(どぎも)を抜くという点では、ライオンでなければならない……」
「……名君は、信義を守ることがかえって自分に不利をまねくばあい、あるいは、すでに約束したときの動機が失われてしまったようなばあいでは、信義を守ることをしないであろうし、また守るべきではないのである。
もっとも、この教えは、もし人間がみなよい人間ばかりであれば、まちがっているといえよう。
だが、人間は邪悪なものであって、あなたに対する信義を忠実に守ってくれるものではないから、あなたの方も人びとに信義を重んずる必要はない。
そのうえ、信義の不履行を合法的にいいつくろうための口実は、君主にはいつでも見いだせるものである。」
(池田廉氏訳による)
この理想や空想をしりぞけて、現実の効用をねらう徹底したリアリズムは、その論者の死後、いわゆるマキアベリズムとして生きつづける。
『君主論』はヨーロッパじゅうで読まれ、七十五年たらずのうちにマキアベリズムという言葉が、イタリアをはじめ、イギリス、フランス、スペインで会話のなかでも使用されたという。
しかしこのときからもはや、その創造者の憂国の情はどこかにうちすてられ、目的のために手段をえらばない悪辣な政治上の手段になっていった。
しかもマキアベリの憂いもむなしく、十六世紀のフィレンツェは、もはやむかしの面影をとり返すことはできない。
イタリア・ルネサンスの中心はローマにうつり、諸都市が戦乱に右往左往するなかにあって、今日は神聖ローマ皇帝、明日はフランス王と通じて、権力の伸長につとめたのはローマ教皇であった。