『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
7 マルティン・ルターの場合
2 ドイツの事情
神聖ローマ皇帝は、西ヨーロッパの皇帝という地位であったが、事実上はドイツの皇帝であり、選帝侯により選出されることになっていたから、だれがなってもよかったわけだが、事実上オーストリア大公ハブスブルク家が無難な、つまり強すぎない家柄として選出されていた。
皇帝マクシミリアン一世(在位一四九三~一五一九)は、自領のオーストリア以外のドイツのことに無関心で、イタリア半島から引き出す利益のために、いわゆるイタリア戦争でフランス王と対立し、またフランスを圧迫する目的で、スペインと「結婚政策」を通じて結びついた。
皇帝のこういう政策は、ドイツのパラパラな諸侯や、自治都市のぬきさしならない伝統的権利の固執と表裏をなすもので、強大な皇帝権の存在をきらうドイツの事情が招いたものといってよい。
しかし皇帝なんかいないほうがよいのかというと、そうでもない。
皇帝にはオスマン・トルコの脅威に対して、キリスト教徒軍の総大将として戦う立場があった。
そして七大選帝侯のほか、大小あわせて三百をこえる諸侯領、自治都市領をふくむドイツの不統一は、ドイツ自身にとって大きなマイナスであった。
選帝侯七人のうち三人(マインツ、トリール、ケルン)までがローマ・カトリック教会の大司教の肩書きをもち、そのためにドイツ全体が、ローマ教皇から過大な負担をおわされる傾向がつよい。
当時のドイツ地図
フランス、イギリス、スペイン、ポルトガルのような統一の進んだ国は、教皇と交渉して僧職任免権までものにし、ローマへの献金もほどほどに値切っていた。
スペインやポルトガルの派手な教皇への献身ぶりも、こういうことと共存していたわけである。
この意味では、ドイツにも皇帝に「ドイツの皇帝らしく」なってもらい、教皇にドイツを代表して交渉してほしいと考える余地があった。
一五〇〇年にザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公(四人の俗人選帝候のうちの一人)から、マクシミリアン皇帝に提出された「帝国改造案」は、皇帝に拒否されたとはいえ、ドイツ史の重要な事件である。
このフリードリッヒは、反マクシミリアンのホープであり、マクシミリアンからも大切に扱われた重要人物であった。
彼が一五〇二年に、ローマへの献金をごまかしてつくった……というのがビッテンベルク大学である。
ルターはこの大学に協力したアウグスティヌス派修道院に属し、出張命令で無給教授をつとめていた。
ザクセン公はルターの信者でもなく、ルターに会ったこともない。
しかしザクセン公がルターに好意をもつ理由はいろいろとあった。
ルターもそのことをかなり意識していたようである。
問題の免罪符は、もともとローマのバティカン宮殿にある聖ピエトロ寺院の改築資金のために売り出されたものである。これは教皇ユリウス二世によって始められ、つぎのレオ十世が大がかりな販売にのりだした。
そしてこれをドイツで請け負ったのはマインツ大司教アルブレヒトであるが、その理由は、大司教就任にかかった教皇買収費の借金にこまり、これを返すために販売の許可を教皇からもらったわけである。
アルブレヒトに金を貸したのは、当時ヨーロッパ最大の富豪といわれたアウクスブルクのフッガー家である。
したがって免罪符の売り上げ金を、フッガーが差し押えた。
その手代が売り上げ金収容金庫の鍵を手にして免罪符説教僧につきまとっていたのである。
テッツェルが低俗な売りかたをし、善良なドイツ農民の金を吸いあげる状況は、つまりドイツがローマに金を吸いあげられるということであった。
ザクセン公は、テッツェルのザクセン領内への立ち入りを許さなかった。
領内でそんなあくどい商売をやられてはかなわない。
ビッテッペルク大学の教会にも、農民の献金をさそう多くのありがたい免罪のご利益ある拝観物(キリストのおむつなど)が買い集められており、大学の貴重な財源になっていたからである。
十月三十一日という日はとくに免罪ということでは有効な日ときまっており、参詣人の多い日だったから、ルターは九十五ヵ条をわざわざこの日に発表したのだという説もある。
ともあれルターがはじめから断固たる宗教改革者であったならば、自分の教会の迷信をこそ真っ先に攻撃したはずである。
ザクセンでなく、マインツ大司教領での免罪符販売を攻撃したのは、一面勇み足であったが、他面ザクセン公への遠慮であった。
大学の教会で通用していた前述の免罪符的迷信は、ザクセン公が配慮してくれたものだったからである。
ところが「九十五ヵ条」の評判はたちまちドイツ各地にひろがり、多くのコピーがつくられ、ドイツ語訳があらわれ、ルターのはじめの意図がどうあったにせよ、ドイツの社会各層にあった各種の不満に火をつけてしまった。
「九十五ヵ条」の宗教的な主張は永続的で、加速的な影響をおよぼすわけだが、さしあたりはその外面的なわかりやすさがドイツ人を喜ばせた。
ドイツにのしかかったローマ教会としてのマインツ大司教の手先テッツェルが、小気味よくやっつけられ、ローマ教皇もたっぷり皮肉られている。
それはめったに与えられない娯楽ではないか。そしてその楽しみのなかに、むてっぼうな一教授の運命への興味がふくまれていたこともやむをえない。
ルターの友人たちは忠告しはじめた。
「きみは正しいけれど、もう沈黙したほうがよい。」
テッツェルの所属するドメニコ派修道院が、九十五ヵ条によってもっともひどい打撃を受けた。
マインツ大司教アルブレヒトも、教皇レオ十世も、宗教問題には関心がなかったので、ドメニコ修道会が教皇庁組織を動かして、ルター断罪を促進させようとした。
教皇が権威を保つためにはそうなくてはならない。
十四世紀末イギリスに、ウィクリフ(一三二〇ごろ~八四)というオックスフォード大学の教授がいた。
彼はルターより百年以上も早く教皇を批判し、聖書の英語訳をつくり、僧侶の結婚を説いたが、実力者ジョン・オブ・ゴーントのまったく政治的理由からの庇護(ひご)を受け、天寿をまっとうした。
教会大分裂時代(一三七八~一四一七、教皇庁がローマと南仏アビニヨンにできた)のことであった。
ウィクリフの弟子で、プラハ大学教授になったヨハン・フス(一三六九~一四一五)はボヘミアのチェク人対ドイツ貴族の対立に火をつけ、聖書をチェコ語に訳して、いわゆる「フシーテン運動」といわれる異端を形成した。
一四一五年コンスタンツの公会議はフスをだまして呼び出し、火刑に処し、また会議で統一をとげ権威を回復した教皇は、一四二八年、四十五年も前に死んだウィクリフの遺骨を火刑にして、体面を保った。
近くはフィレンツェのサボナローラを焼き殺したではないか。
ルターをも早くなんとかして焼き殺さないと、教皇の面子はまるつぶれになるというわけである。
ところが教皇レオ十世は、そういうことよりも、ドイツの情勢のほうに冷静な政治家としての注意を払っていた。
教皇は皇帝が強力になりすぎて、イタリアに干渉されることは好ましくなかった。
ルターはローマからの呼び出しには応じなかった。
いくらなんでも生命は惜しい。
友人たちも行くなといった。
教皇の使節が、ザクセン公やマクシミリアン皇帝と密談する政治的取り引きのついでに、ルターを沈黙させようとした。
教皇の使節がドイツにきておどろいた新事態は、九十五ヵ条以来ドイツの諸侯がひじょうに強腰で、ローマのやることにいちいち文句をつけはじめたことであった。
ルターのことをいえば藪蛇(やぶへび)になるから、そっとしておけというのが教皇庁の態度だったし、ルターもそれならそれで助かるという気持ちがあった。
ルターにとって相変わらず危険な存在は、同業者である僧侶であった。
彼らとの討論で論破されてしまったら、おしまいである。
ルターは猛烈に勉強した。とくに教会の歴史をしらべ、ローマ・カトリック教会が、もともと神の代理いっさいをつとめるようなものでなかったと言い出した。
ルターの神学者として積みかさねてきていた勉強は、必ずしもエラスムスのようなヒューマニストのものと同じではなかった。
しかしルターはすぐれた語学力で、こういう不馴れな学問の領域にもはいっていったのである。
7 マルティン・ルターの場合
2 ドイツの事情
神聖ローマ皇帝は、西ヨーロッパの皇帝という地位であったが、事実上はドイツの皇帝であり、選帝侯により選出されることになっていたから、だれがなってもよかったわけだが、事実上オーストリア大公ハブスブルク家が無難な、つまり強すぎない家柄として選出されていた。
皇帝マクシミリアン一世(在位一四九三~一五一九)は、自領のオーストリア以外のドイツのことに無関心で、イタリア半島から引き出す利益のために、いわゆるイタリア戦争でフランス王と対立し、またフランスを圧迫する目的で、スペインと「結婚政策」を通じて結びついた。
皇帝のこういう政策は、ドイツのパラパラな諸侯や、自治都市のぬきさしならない伝統的権利の固執と表裏をなすもので、強大な皇帝権の存在をきらうドイツの事情が招いたものといってよい。
しかし皇帝なんかいないほうがよいのかというと、そうでもない。
皇帝にはオスマン・トルコの脅威に対して、キリスト教徒軍の総大将として戦う立場があった。
そして七大選帝侯のほか、大小あわせて三百をこえる諸侯領、自治都市領をふくむドイツの不統一は、ドイツ自身にとって大きなマイナスであった。
選帝侯七人のうち三人(マインツ、トリール、ケルン)までがローマ・カトリック教会の大司教の肩書きをもち、そのためにドイツ全体が、ローマ教皇から過大な負担をおわされる傾向がつよい。
当時のドイツ地図
フランス、イギリス、スペイン、ポルトガルのような統一の進んだ国は、教皇と交渉して僧職任免権までものにし、ローマへの献金もほどほどに値切っていた。
スペインやポルトガルの派手な教皇への献身ぶりも、こういうことと共存していたわけである。
この意味では、ドイツにも皇帝に「ドイツの皇帝らしく」なってもらい、教皇にドイツを代表して交渉してほしいと考える余地があった。
一五〇〇年にザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公(四人の俗人選帝候のうちの一人)から、マクシミリアン皇帝に提出された「帝国改造案」は、皇帝に拒否されたとはいえ、ドイツ史の重要な事件である。
このフリードリッヒは、反マクシミリアンのホープであり、マクシミリアンからも大切に扱われた重要人物であった。
彼が一五〇二年に、ローマへの献金をごまかしてつくった……というのがビッテンベルク大学である。
ルターはこの大学に協力したアウグスティヌス派修道院に属し、出張命令で無給教授をつとめていた。
ザクセン公はルターの信者でもなく、ルターに会ったこともない。
しかしザクセン公がルターに好意をもつ理由はいろいろとあった。
ルターもそのことをかなり意識していたようである。
問題の免罪符は、もともとローマのバティカン宮殿にある聖ピエトロ寺院の改築資金のために売り出されたものである。これは教皇ユリウス二世によって始められ、つぎのレオ十世が大がかりな販売にのりだした。
そしてこれをドイツで請け負ったのはマインツ大司教アルブレヒトであるが、その理由は、大司教就任にかかった教皇買収費の借金にこまり、これを返すために販売の許可を教皇からもらったわけである。
アルブレヒトに金を貸したのは、当時ヨーロッパ最大の富豪といわれたアウクスブルクのフッガー家である。
したがって免罪符の売り上げ金を、フッガーが差し押えた。
その手代が売り上げ金収容金庫の鍵を手にして免罪符説教僧につきまとっていたのである。
テッツェルが低俗な売りかたをし、善良なドイツ農民の金を吸いあげる状況は、つまりドイツがローマに金を吸いあげられるということであった。
ザクセン公は、テッツェルのザクセン領内への立ち入りを許さなかった。
領内でそんなあくどい商売をやられてはかなわない。
ビッテッペルク大学の教会にも、農民の献金をさそう多くのありがたい免罪のご利益ある拝観物(キリストのおむつなど)が買い集められており、大学の貴重な財源になっていたからである。
十月三十一日という日はとくに免罪ということでは有効な日ときまっており、参詣人の多い日だったから、ルターは九十五ヵ条をわざわざこの日に発表したのだという説もある。
ともあれルターがはじめから断固たる宗教改革者であったならば、自分の教会の迷信をこそ真っ先に攻撃したはずである。
ザクセンでなく、マインツ大司教領での免罪符販売を攻撃したのは、一面勇み足であったが、他面ザクセン公への遠慮であった。
大学の教会で通用していた前述の免罪符的迷信は、ザクセン公が配慮してくれたものだったからである。
ところが「九十五ヵ条」の評判はたちまちドイツ各地にひろがり、多くのコピーがつくられ、ドイツ語訳があらわれ、ルターのはじめの意図がどうあったにせよ、ドイツの社会各層にあった各種の不満に火をつけてしまった。
「九十五ヵ条」の宗教的な主張は永続的で、加速的な影響をおよぼすわけだが、さしあたりはその外面的なわかりやすさがドイツ人を喜ばせた。
ドイツにのしかかったローマ教会としてのマインツ大司教の手先テッツェルが、小気味よくやっつけられ、ローマ教皇もたっぷり皮肉られている。
それはめったに与えられない娯楽ではないか。そしてその楽しみのなかに、むてっぼうな一教授の運命への興味がふくまれていたこともやむをえない。
ルターの友人たちは忠告しはじめた。
「きみは正しいけれど、もう沈黙したほうがよい。」
テッツェルの所属するドメニコ派修道院が、九十五ヵ条によってもっともひどい打撃を受けた。
マインツ大司教アルブレヒトも、教皇レオ十世も、宗教問題には関心がなかったので、ドメニコ修道会が教皇庁組織を動かして、ルター断罪を促進させようとした。
教皇が権威を保つためにはそうなくてはならない。
十四世紀末イギリスに、ウィクリフ(一三二〇ごろ~八四)というオックスフォード大学の教授がいた。
彼はルターより百年以上も早く教皇を批判し、聖書の英語訳をつくり、僧侶の結婚を説いたが、実力者ジョン・オブ・ゴーントのまったく政治的理由からの庇護(ひご)を受け、天寿をまっとうした。
教会大分裂時代(一三七八~一四一七、教皇庁がローマと南仏アビニヨンにできた)のことであった。
ウィクリフの弟子で、プラハ大学教授になったヨハン・フス(一三六九~一四一五)はボヘミアのチェク人対ドイツ貴族の対立に火をつけ、聖書をチェコ語に訳して、いわゆる「フシーテン運動」といわれる異端を形成した。
一四一五年コンスタンツの公会議はフスをだまして呼び出し、火刑に処し、また会議で統一をとげ権威を回復した教皇は、一四二八年、四十五年も前に死んだウィクリフの遺骨を火刑にして、体面を保った。
近くはフィレンツェのサボナローラを焼き殺したではないか。
ルターをも早くなんとかして焼き殺さないと、教皇の面子はまるつぶれになるというわけである。
ところが教皇レオ十世は、そういうことよりも、ドイツの情勢のほうに冷静な政治家としての注意を払っていた。
教皇は皇帝が強力になりすぎて、イタリアに干渉されることは好ましくなかった。
ルターはローマからの呼び出しには応じなかった。
いくらなんでも生命は惜しい。
友人たちも行くなといった。
教皇の使節が、ザクセン公やマクシミリアン皇帝と密談する政治的取り引きのついでに、ルターを沈黙させようとした。
教皇の使節がドイツにきておどろいた新事態は、九十五ヵ条以来ドイツの諸侯がひじょうに強腰で、ローマのやることにいちいち文句をつけはじめたことであった。
ルターのことをいえば藪蛇(やぶへび)になるから、そっとしておけというのが教皇庁の態度だったし、ルターもそれならそれで助かるという気持ちがあった。
ルターにとって相変わらず危険な存在は、同業者である僧侶であった。
彼らとの討論で論破されてしまったら、おしまいである。
ルターは猛烈に勉強した。とくに教会の歴史をしらべ、ローマ・カトリック教会が、もともと神の代理いっさいをつとめるようなものでなかったと言い出した。
ルターの神学者として積みかさねてきていた勉強は、必ずしもエラスムスのようなヒューマニストのものと同じではなかった。
しかしルターはすぐれた語学力で、こういう不馴れな学問の領域にもはいっていったのである。