『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
3 乱世の皇帝
2 後漢の二代
契丹の暴政にたいして、中国人はけっしてだまって従っていたわけではなかった。
しだいに反契丹運動がめだちはしめた。運動の担い手には、二つあった。
まず民衆が立ちあがった。収奪や災害でいためつけられてきた人びとであった。
いまや民衆を苦しめる最大の敵は契丹である。民衆の抵抗の方向は、いっせいに契丹にむけられた。
ついで、各地に駐屯していた将兵が立った。
かっての後晋の禁軍を中心とする将兵であった。
節度使クラスの武人は、その地位の安泰をはかって、ほとんど抵抗運動に参加しなかった。
抵抗連動は弱まるどころか、契丹の太宗が「中国人がこれほどに制しがたいとは知らなかった」と言わざるをえないほど、ますます高まっていった。
さきに太宗は、降伏した後晋の役人たちにむかって、自慢気(じまんげ)に「我(われ)は中国のことは何でも知っておるが、汝(なんじ)らはわが国のことを何も知らない」と言ったものである。
しかし中国人が、契丹の支配に対し、これほどの抵抗連動を起こすとは考えもしなかったのであった。
契丹の華北支配は半年ほどで失敗した。
抵抗運動の結節点となったのは、形勢を観望していた河東の劉知遠であった。
劉知遠は運動をたくみにあやつりながら、しかも本拠の太原を動かず、九四七年二月、皇帝を袮して、新しい王朝をひらいた。
かれもまた、トルコ系の沙陀(しゃだ)族の出身である。
劉氏を名のったので、国号は「漢」と袮した。これを後漢(こうかん)の高祖という。
やがて契丹軍は引きあげる。その途中で太宗は病死した。
あとをついたのが、太宗の兄(倍)の子の世宗であった。
契丹軍が北へかえったとはいっても、けっして燕雲十六州を放棄したわけではなかった。
後漢の劉知遠(高祖)は六月、開封へはいった。
こうして中原をにぎると、劉知遠は皇帝権の強化をはかり、節度使の力をおさえることにつとめる。
まず節度使たちが、その腹心の者(元従)を、かってに藩鎖の要職(とくに刑獄の関係)に任命することを禁正した。
また、節度使の政治を、たすけるという名目で、その要職(財政、民政、渉外など)には、中央から軍将をおくりこんだ。
いまや節度使の力は、急速によわめられてゆく。
かっては劉知遠じしんも節度使であった。
しかし、かれ以外のほかの節度使は、ほとんど契丹に降伏し、そのまま抑留(よくりゅう)されてしまったのである。
その間に、各地で反契丹の運動がおこされた。降伏した節度使たちは、もちろん民衆のにくしみを買ったにちがいない。
任地へかえった節度使たちは、後漢の王朝のもとで、そのまま安堵(あんど)された。
それでも往年の力をもたなくなっていたことは、明らかであった。
もちろん後漢の王朝をひらくにあたっての功臣たちも、新しく節度使に任命された。
これも中央からの強い統制をうけた上での任命であった。
しかし劉知遠、すなわち後漢の高祖は、皇帝たること一年たらず、九四八年の正月には病死してしまったのである。
ときに五十四歳であり、あとをつぐべき子の承結は、まだ十八歳のわかさであった。
劉知遠は、臨終の枕もとに元勲たちを集めて言った。
「呼吸するのも苦しく、言いおきたいことも言えない。ただ年もいかぬ承結のことを頼む。」
そうして息をひきとった。
劉知遠にしてみれば、二代目の地位の不安さが、十分すぎるほどにわかっていたのであろう。
はたして、かれらの心配したとおりになった。
即位した隠帝(劉承祐)のもとで実権をにぎったのは、やはり側近グループであった。
これは後晋の出帝のばあいと同じである。
かって後晋の出帝の側近は、宰相の桑維翰を中央から追いはらった。
そうして隠帝の側近グループも、建国の元勲たちを排除した。
それまで朝廷において宰相であり、あるいは財政をにぎり、あるいは禁軍をひきいた三元勲は、朝まだき宮中から退出するところを、おそわれて暗殺された。
もはや後漢の王朝も、ゆきつくところは前代と同じであった。
高祖が死んで三年たらずののち、元勲のひとり郭威(かくい)は、みずから立って国をうばうのである。
後漢は二代、四年にしてほろびた(九五〇)。
郭威は即位して国号を「周」と称した。これを後周の太祖という。
このとき河東の地(太原)にいたのが、高祖の弟たる劉崇(りゅうすう)であった。
郭威が国をうばったのをうらみ、自立して皇帝を称する(九五一)。
これが、いわゆる「北漢」である。
しかも劉崇は、その勢力を維持するために、契丹に服属を申いれた。
華北を失った契丹は、よろこんて北漢をたすけ、これと連繋(れんけい)してしばしば侵入をくわだてる。
かって華北では、朱全忠(梁)と李克用(晋)が、開封と太原とによって対抗した。
いまや、ふたたび後周と北漢とが、おなじ開封と太原とによって対立する。
中国のほかの地域にも、もちろん諸王朝は依然として存在している。
五代十国の分裂はいよいよはげしくなったかに見える。
しかし実際には、このころから統一への動きがようやくはっきりした姿をとりはじめていたのであった。
それが後周の王朝においてすすめられた。
3 乱世の皇帝
2 後漢の二代
契丹の暴政にたいして、中国人はけっしてだまって従っていたわけではなかった。
しだいに反契丹運動がめだちはしめた。運動の担い手には、二つあった。
まず民衆が立ちあがった。収奪や災害でいためつけられてきた人びとであった。
いまや民衆を苦しめる最大の敵は契丹である。民衆の抵抗の方向は、いっせいに契丹にむけられた。
ついで、各地に駐屯していた将兵が立った。
かっての後晋の禁軍を中心とする将兵であった。
節度使クラスの武人は、その地位の安泰をはかって、ほとんど抵抗運動に参加しなかった。
抵抗連動は弱まるどころか、契丹の太宗が「中国人がこれほどに制しがたいとは知らなかった」と言わざるをえないほど、ますます高まっていった。
さきに太宗は、降伏した後晋の役人たちにむかって、自慢気(じまんげ)に「我(われ)は中国のことは何でも知っておるが、汝(なんじ)らはわが国のことを何も知らない」と言ったものである。
しかし中国人が、契丹の支配に対し、これほどの抵抗連動を起こすとは考えもしなかったのであった。
契丹の華北支配は半年ほどで失敗した。
抵抗運動の結節点となったのは、形勢を観望していた河東の劉知遠であった。
劉知遠は運動をたくみにあやつりながら、しかも本拠の太原を動かず、九四七年二月、皇帝を袮して、新しい王朝をひらいた。
かれもまた、トルコ系の沙陀(しゃだ)族の出身である。
劉氏を名のったので、国号は「漢」と袮した。これを後漢(こうかん)の高祖という。
やがて契丹軍は引きあげる。その途中で太宗は病死した。
あとをついたのが、太宗の兄(倍)の子の世宗であった。
契丹軍が北へかえったとはいっても、けっして燕雲十六州を放棄したわけではなかった。
後漢の劉知遠(高祖)は六月、開封へはいった。
こうして中原をにぎると、劉知遠は皇帝権の強化をはかり、節度使の力をおさえることにつとめる。
まず節度使たちが、その腹心の者(元従)を、かってに藩鎖の要職(とくに刑獄の関係)に任命することを禁正した。
また、節度使の政治を、たすけるという名目で、その要職(財政、民政、渉外など)には、中央から軍将をおくりこんだ。
いまや節度使の力は、急速によわめられてゆく。
かっては劉知遠じしんも節度使であった。
しかし、かれ以外のほかの節度使は、ほとんど契丹に降伏し、そのまま抑留(よくりゅう)されてしまったのである。
その間に、各地で反契丹の運動がおこされた。降伏した節度使たちは、もちろん民衆のにくしみを買ったにちがいない。
任地へかえった節度使たちは、後漢の王朝のもとで、そのまま安堵(あんど)された。
それでも往年の力をもたなくなっていたことは、明らかであった。
もちろん後漢の王朝をひらくにあたっての功臣たちも、新しく節度使に任命された。
これも中央からの強い統制をうけた上での任命であった。
しかし劉知遠、すなわち後漢の高祖は、皇帝たること一年たらず、九四八年の正月には病死してしまったのである。
ときに五十四歳であり、あとをつぐべき子の承結は、まだ十八歳のわかさであった。
劉知遠は、臨終の枕もとに元勲たちを集めて言った。
「呼吸するのも苦しく、言いおきたいことも言えない。ただ年もいかぬ承結のことを頼む。」
そうして息をひきとった。
劉知遠にしてみれば、二代目の地位の不安さが、十分すぎるほどにわかっていたのであろう。
はたして、かれらの心配したとおりになった。
即位した隠帝(劉承祐)のもとで実権をにぎったのは、やはり側近グループであった。
これは後晋の出帝のばあいと同じである。
かって後晋の出帝の側近は、宰相の桑維翰を中央から追いはらった。
そうして隠帝の側近グループも、建国の元勲たちを排除した。
それまで朝廷において宰相であり、あるいは財政をにぎり、あるいは禁軍をひきいた三元勲は、朝まだき宮中から退出するところを、おそわれて暗殺された。
もはや後漢の王朝も、ゆきつくところは前代と同じであった。
高祖が死んで三年たらずののち、元勲のひとり郭威(かくい)は、みずから立って国をうばうのである。
後漢は二代、四年にしてほろびた(九五〇)。
郭威は即位して国号を「周」と称した。これを後周の太祖という。
このとき河東の地(太原)にいたのが、高祖の弟たる劉崇(りゅうすう)であった。
郭威が国をうばったのをうらみ、自立して皇帝を称する(九五一)。
これが、いわゆる「北漢」である。
しかも劉崇は、その勢力を維持するために、契丹に服属を申いれた。
華北を失った契丹は、よろこんて北漢をたすけ、これと連繋(れんけい)してしばしば侵入をくわだてる。
かって華北では、朱全忠(梁)と李克用(晋)が、開封と太原とによって対抗した。
いまや、ふたたび後周と北漢とが、おなじ開封と太原とによって対立する。
中国のほかの地域にも、もちろん諸王朝は依然として存在している。
五代十国の分裂はいよいよはげしくなったかに見える。
しかし実際には、このころから統一への動きがようやくはっきりした姿をとりはじめていたのであった。
それが後周の王朝においてすすめられた。