2月11日、今日は核心部になる久保山墓地界隈を歩く。
市営でJR保土ヶ谷駅へ、保土ヶ谷区 ⇒西区 ⇒南区 ⇒再び西区へ
9:30 11番:羯摩山 円福寺(真言宗)
開山は室町時代初期(1430年)
本尊は地蔵菩薩、寺の背後の竹林から出現したという筍地蔵の伝説がある。
白梅が満開だった、5月には国道1号沿いのツツジが美しい。(前はJR保土ヶ谷駅)
寺の背後にある住宅地の急登を歩いて、生家のあった東久保町~元久保町へ
寺が集まる久保山火葬場へ続く道へ・・・・
10:10 1番:日明山 大聖院(真言宗)
弘法大師二十一箇所の第一番の靈場でもある。
久保山墓地、梅の花が陽に輝いていました。
「佛の十戒」ユックリ、かみしめて、正座して読んで下さい
10番:吉上山 光明寺(浄土宗)
落ち着いた雰囲気を持つ、寺らしいたたずまいでした。
「阿弥陀仏」頭を垂れてきました
10:40 9番:率渓山 新善光寺(天台宗)
梅と(愛嬌のある)地蔵様
明治時代の「軍人の墓」が多く建っています。
他の寺も例外ではないが、ここは特に多かった。
7番:医王山 東光寺(真言宗)
「高野槙こうやまき」と記念撮影
11:10 4番:東医山 薬王寺(真言宗)
地味~なお寺です、規模も小さい、飾り気もない
あとに尋ねる東福寺の隠居寺だったという歴史をもつ
11:30 3番:福智山 普門院(真言宗)
かっては東福寺境内にあったとも伝えられています
大樹の背景は関東学院三春台高校の建物です
紅梅
「浦舟藤棚」道路を横断して西区へ
11:30 光明山 東福寺(真言宗)
寛元年間(1243-1247)に玄心法印が開山、後嵯峨院の勅願所だったと伝えられます。
太田道灌が中興、天正19年(1591)寺領3石の御朱印を拝領、
近郷に24の末寺を擁する中本寺格の寺院でした。
同年徳川家康より寺領安堵の朱印状を下付された『武蔵風土記稿、太田村』
寺伝では、その時「三葉葵の寺紋」を許されたといわれる。
朱塗りの山門、丹朱の楼門の建立は、幕末かそれ以降?一般に赤門東福寺と称された。
震災、戦災と二度に亘って堂宇悉く焼失、辛うじて本尊及び過去帳のみ難を逃れた。
本堂、閣魔堂その他は、昭和三十五年頃までに再建を完了した。
梅と閻魔堂
赤門町(上って)境之谷(下って)藤棚へ
12:00 12番:法亀山 願成寺
本尊は秘仏の延命地蔵尊です。寺伝に、「天平年間(729-49)行基がこの地を通りかかった時、
渇を覚え水を探していると渓谷より1匹の亀がはい出てきた。
路傍を掘ると清水が湧き出てきたので、これを飲用し渇を癒した。
これよりこの周辺を法亀山と名付け、草堂を創った。
これが願成寺の始まりである。」
日限地蔵尊
「願成寺の縁日」で子どもの頃通った記憶があります。
弘法大師の石像「オーラ」が映っています。
タイサンボク
桜木町駅へ出て「pronto」で昼食、市営バスで帰途に
*
>>>空海その3
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)京都九条に創立した。
「綜芸」とは顕教,密教,儒教をいい,「種智」とは菩提心をいう。
身分上の制限により,当時の大学,国学に学ぶことのできない庶民のために開いた学問所。
ここで仏教以外の思想・学問をも広く一般大衆にも解放した。
全国に渡って広く布教活動を行って、各地に信者を増やした。
また、信仰・学問の分野のみに止まらず、土木・灌漑事業にも及んでいる。
社会事業は仏教指導者の必須ともいうべき行動目標であって、
古くより真摯な仏教者は、この「社会事業」に多くのエネルギーを費やしている。
【必携お経読本より】
何処へいっても”弘法大師の足跡”を見聞きするのはこのためだ。
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