「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は11日、2017年のユネスコ記憶遺産登録を目指し、
日中戦争の発端となった200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料をユネスコに申請すると発表した。
通州事件は1937年7月29日、北京東方の通州で日本人が中国人部隊に襲われた事件。同会は「通州事件が忘れられている現状を意識的に
変えなければならない。広く世界に知ってほしい」と訴えている。
そこで、ねずきちさんのブログをご紹介いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
通州事件(1/2)昨今、支那の反日蛮行がだいぶ伝えられるようになりましたが、私たちは支那人という民族が、彼らの言う「愛国無罪」という状態になったとき、どういうことが行われることなるのか、きちんと知っておく必要があると思います。
なかでも今回ご紹介する「通州事件」は、ある意味、支那事変、大東亜戦争への入り口となった大事件であり、戦前には、日本人の常識となっていた有名な事件でありながら、戦後はまったく封印され、知る人自体が少なくなっているたいへんな事件です。
そこで今日明日の二回にわたり、「通州事件」について、その概略をみてみたいと思います。
事件は、75年前の7月29日に起こりました。
場所は北京から東に十八キロほど下った通州という街です。
通州は、明朝時代に城壁が築かれた街で、天津からの集荷の拠点として栄えた運河の街です。
ここは当時の支那にあっては、たいへん治安の良い街でした。なぜならその小さな街に、日本軍が駐屯していたからです。
規律正しく公正な日本軍は、当時の支那にあって、どこの街でも庶民から歓迎されていたのです。
ところが、治安の良いはずのその通州で、昭和十一(1936)年頃から不穏な空気が漂いはじめたのです。
最初に騒ぎはじめたのが朝鮮人たちでした。
なぜかさかんに日本の悪口や、日本人の悪口を言いふらすようになったのです。
彼ら朝鮮人はしきりに「日本は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしている」、そして「今度は支那を領土にして支那人を奴隷にしようとしている」などと根拠のないデタラメを半ば公然と吹聴しはじめました。悪口はだんだんにエスカレートしました。
昭和十二年頃になると「日本軍と日本人を追い出さなければならない。いや日本人は皆殺しにしなければなない」などと言い出すようにまでなってきたのです。そうした情報はもちろん現地に駐屯していた日本軍にの耳にも入りました。
けれど、現地の日本軍は「そのような根も葉もない噂など相手にする必要はない」と、まるで問題にしませんでした。
日本人は物事を客観的に捕らえようとします。これは日本人にとっては、ごく「あたりまえ」のことです。けれどそれは、日本人の良い面であると同時に、極端に悪い面といえるかもしれません。
どういうことかというと、無教養で粗暴な朝鮮人たちにとっては、「事実はまるで関係ない」からです。逆に根も葉もないデタラメだから、余計に興奮し感情的になる。
実際には、そうした噂話を広めたのは、支那人の工作員だったと言われています。そして根も葉もないことで簡単に興奮し熱くなり、燃え上がり、舞い上がるのは、古来変わらぬ朝鮮人の特徴です。
事件は昭和12年7月29日の午前3時に起こりました。
とつぜん通州にいた冀東防共自治政府の保安隊(「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊)合わせて三千人が、通州にいた日本軍を襲撃したのです。
このとき、通州にいた日本人は僅か380名です。このうち軍関係者(男)は110名。残りは全員が婦女子です。不意をつかれた日本兵は、それでも獅子奮迅の防戦をしました。けれど3000名対110名では勝負になりません。襲撃開始と同時に日本兵30名が死亡してしまいます。そして日本の兵隊さんたちが、必死で防戦をしている間に、支那人の学生や朝鮮人の若者たちが、日本人の居留区を襲撃したのです。そして日本人居留民260名を、一夜のうちに極めて残虐な方法で殺害しました。
虐殺現場を目撃した萱島高氏が東京裁判で行なった証言です。↓
旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中の4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述です。↓
近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。
この近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊です。彼らは女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのです。
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長桜井文雄証人です。↓
守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。
この桜井小隊長は、事件後に現地に調査に入った人なのですが、文中にある旭軒での出来事を、まるごと目撃したSさんという女性の体験談もあります。
この女性は支那人の妻となっていて事件に遭遇しました。支那人と思われていたため、被害には遭わなかったのですが、事件の惨たらしい様子を逐一見る羽目になったのです。
通州事件(1/2)昨日の文中にある旭軒での出来事を、まるごと目撃したSさんという女性の体験談があります。
この女性は支那人の妻となっていて事件に遭遇しました。支那人と思われていたため、被害には遭わなかったのですが、事件の惨たらしい様子を逐一見る羽目になったのです。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。
二人とも真っ青な顔色でした。一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。
しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。どうしてやることも出来ないのです。言葉すらかけてやることが出来ないのです。二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。いやその一部からは出血さえしております。髪はバラバラに乱れているのです。とてもまともには見られないような可哀想な姿です。
その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は、頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。女の人は本能的に手で前を押さえようとすると、いきなりその手を銃剣で斬りつけました。左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。そしてそこにバッタリ倒れたのです。すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。
私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。
人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。
一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。
私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。
それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。おそらくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。
実に悪鬼も目をそむける酷たらしい所業です。これら、頭部切り落とし、眼球えぐり、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺などは、シナ人特有の日清戦争以来の、お決まりの惨殺パターンです。
死体であっても強姦する。
この襲撃を実施した張慶餘と張硯田が率いる保安隊は、襲撃対象の日本人居宅を、あらかじめリストアップまでしていたといいます。用意周到な計画的犯行だったのです。
そして彼らは日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪し、片っ端から日本人を殺戮し、婦女への凌辱を重ねました。
逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、ひきずられ、二ヶ所に集められたうえで射殺されています。
通州で、こうした殺戮、虐殺、強姦、略奪は、まる一日続けられました。急報を受けた日本軍守備隊がやってきたとき、なんとか生き残ったのは、わずか百二十人だけでした。
生き残った人は、トイレの肥だめの中にもぐって難を逃れた者、銃撃を受けて気を失い、重傷で扶けられた者、両手の真ん中に太い針金を通して手を縛られ、いまにも殺される寸前だった者、どの者も、まさに悲惨そのものでした。
この事件の最中、ひとつ、涙なくしては語れない物語が、記録されています。
ある日本人が、便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。その声は、日本語でこう怒鳴っていた。「日本人は隠れろ!!日本人は誰も出てくるな!!日本人は逃げろ~~っ!」それは、必死の叫び声だったそうです。そしてズドンという銃声。
声は聞こえなくなりました。言えるのは、支那兵に引きずられながら、その日本人男性は、自分が殺される最後の瞬間まで、自分が助かることではなく、他の日本人の心配をしていたということです。
ですから「たすけてくれ!」ではなく、「日本人は逃げろ~!」だったのです。
事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島無敵連隊が、事件を知り、通州に急行しました。
日本軍の本体が帰って来ると知った張慶餘と張硯田率いる支那人保安隊は、慌てて便衣服に着替えて民間人を装い、北京方面に逃亡しています。そしてこれだけの大虐殺を行なった張慶餘と張硯田は、その後も戦争中を生き延びました。
とくに張慶餘は中国共産党人民解放軍の中将にまで出世し、昭和六十一年には革命の英雄として嘘だらけの回想録まで出版しています。
通州事件は、まぎれもない史実です。
その酸鼻な姿から、当時世界中で新聞報道され、人々に衝撃を与えました。
この事件は南京大虐殺事件のように、後年になってねつ造されたデタラメと異なり、実際に起こり、実際に日本人が被害に遭ったたいへんな事件です。事件を目撃したSさんは、次のような体験も書き遺しておいでになります。↓
旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。
するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。
誰も見ていません。私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして、「くやしい」と申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。
~~被害に遭われた方々の悔しさ、口惜しさ、そして仇をとってもらいたいと思う気持ち、痛いほどわかります。けれど戦後の私達は、こうした通州事件のような凄惨な事件の事実から目を背け、いまではほとんどの人がこの事件について知らない状況になっています。
そしていま、昭和十一?二年当時の通州市と、ほとんど同じような世相に、いまの日本はなっています。
歴史は繰り返すといいますが、決して二度と繰り返してはならない歴史もあります。
私達は二度とこうした悲惨な眼に遭わないために、日頃から襟を正して万全の備えを築いていかなければならない。私はそう思います。
みなさまには、関連記事の「通州事件の惨劇 Sさんの体験談」をご一読されることを是非、お勧めします。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.htmlこれが事実なのです。
大昔の出来事じゃないか、などと気楽に済ますことはできません。
これと同じ惨劇が、チベット、ウイグルで行なわれ、チベットは人口600万人のうち150万人が殺害されました。
ウイグルでは、いまもその悲劇が続き、近くは法輪功の学習者たちが、同様の迫害を受けています。
そしてもし、沖縄が支那に制圧されれば、これと同じことが、今度は沖縄県民の身に起きる。
さらに日本全土が、このまま支那の支配下に置かれる事態が進めば、75年前に起こった通州事件は、そのまま明日の日本に起こる出来事となるのです。
日中戦争の発端となった200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料をユネスコに申請すると発表した。
通州事件は1937年7月29日、北京東方の通州で日本人が中国人部隊に襲われた事件。同会は「通州事件が忘れられている現状を意識的に
変えなければならない。広く世界に知ってほしい」と訴えている。
そこで、ねずきちさんのブログをご紹介いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
通州事件(1/2)昨今、支那の反日蛮行がだいぶ伝えられるようになりましたが、私たちは支那人という民族が、彼らの言う「愛国無罪」という状態になったとき、どういうことが行われることなるのか、きちんと知っておく必要があると思います。
なかでも今回ご紹介する「通州事件」は、ある意味、支那事変、大東亜戦争への入り口となった大事件であり、戦前には、日本人の常識となっていた有名な事件でありながら、戦後はまったく封印され、知る人自体が少なくなっているたいへんな事件です。
そこで今日明日の二回にわたり、「通州事件」について、その概略をみてみたいと思います。
事件は、75年前の7月29日に起こりました。
場所は北京から東に十八キロほど下った通州という街です。
通州は、明朝時代に城壁が築かれた街で、天津からの集荷の拠点として栄えた運河の街です。
ここは当時の支那にあっては、たいへん治安の良い街でした。なぜならその小さな街に、日本軍が駐屯していたからです。
規律正しく公正な日本軍は、当時の支那にあって、どこの街でも庶民から歓迎されていたのです。
ところが、治安の良いはずのその通州で、昭和十一(1936)年頃から不穏な空気が漂いはじめたのです。
最初に騒ぎはじめたのが朝鮮人たちでした。
なぜかさかんに日本の悪口や、日本人の悪口を言いふらすようになったのです。
彼ら朝鮮人はしきりに「日本は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしている」、そして「今度は支那を領土にして支那人を奴隷にしようとしている」などと根拠のないデタラメを半ば公然と吹聴しはじめました。悪口はだんだんにエスカレートしました。
昭和十二年頃になると「日本軍と日本人を追い出さなければならない。いや日本人は皆殺しにしなければなない」などと言い出すようにまでなってきたのです。そうした情報はもちろん現地に駐屯していた日本軍にの耳にも入りました。
けれど、現地の日本軍は「そのような根も葉もない噂など相手にする必要はない」と、まるで問題にしませんでした。
日本人は物事を客観的に捕らえようとします。これは日本人にとっては、ごく「あたりまえ」のことです。けれどそれは、日本人の良い面であると同時に、極端に悪い面といえるかもしれません。
どういうことかというと、無教養で粗暴な朝鮮人たちにとっては、「事実はまるで関係ない」からです。逆に根も葉もないデタラメだから、余計に興奮し感情的になる。
実際には、そうした噂話を広めたのは、支那人の工作員だったと言われています。そして根も葉もないことで簡単に興奮し熱くなり、燃え上がり、舞い上がるのは、古来変わらぬ朝鮮人の特徴です。
事件は昭和12年7月29日の午前3時に起こりました。
とつぜん通州にいた冀東防共自治政府の保安隊(「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊)合わせて三千人が、通州にいた日本軍を襲撃したのです。
このとき、通州にいた日本人は僅か380名です。このうち軍関係者(男)は110名。残りは全員が婦女子です。不意をつかれた日本兵は、それでも獅子奮迅の防戦をしました。けれど3000名対110名では勝負になりません。襲撃開始と同時に日本兵30名が死亡してしまいます。そして日本の兵隊さんたちが、必死で防戦をしている間に、支那人の学生や朝鮮人の若者たちが、日本人の居留区を襲撃したのです。そして日本人居留民260名を、一夜のうちに極めて残虐な方法で殺害しました。
虐殺現場を目撃した萱島高氏が東京裁判で行なった証言です。↓
旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中の4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述です。↓
近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。
この近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊です。彼らは女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのです。
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長桜井文雄証人です。↓
守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。
この桜井小隊長は、事件後に現地に調査に入った人なのですが、文中にある旭軒での出来事を、まるごと目撃したSさんという女性の体験談もあります。
この女性は支那人の妻となっていて事件に遭遇しました。支那人と思われていたため、被害には遭わなかったのですが、事件の惨たらしい様子を逐一見る羽目になったのです。
通州事件(1/2)昨日の文中にある旭軒での出来事を、まるごと目撃したSさんという女性の体験談があります。
この女性は支那人の妻となっていて事件に遭遇しました。支那人と思われていたため、被害には遭わなかったのですが、事件の惨たらしい様子を逐一見る羽目になったのです。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。
二人とも真っ青な顔色でした。一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。
しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。どうしてやることも出来ないのです。言葉すらかけてやることが出来ないのです。二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。いやその一部からは出血さえしております。髪はバラバラに乱れているのです。とてもまともには見られないような可哀想な姿です。
その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は、頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。女の人は本能的に手で前を押さえようとすると、いきなりその手を銃剣で斬りつけました。左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。そしてそこにバッタリ倒れたのです。すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。
私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。
人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。
一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。
私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。
それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。おそらくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。
実に悪鬼も目をそむける酷たらしい所業です。これら、頭部切り落とし、眼球えぐり、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺などは、シナ人特有の日清戦争以来の、お決まりの惨殺パターンです。
死体であっても強姦する。
この襲撃を実施した張慶餘と張硯田が率いる保安隊は、襲撃対象の日本人居宅を、あらかじめリストアップまでしていたといいます。用意周到な計画的犯行だったのです。
そして彼らは日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪し、片っ端から日本人を殺戮し、婦女への凌辱を重ねました。
逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、ひきずられ、二ヶ所に集められたうえで射殺されています。
通州で、こうした殺戮、虐殺、強姦、略奪は、まる一日続けられました。急報を受けた日本軍守備隊がやってきたとき、なんとか生き残ったのは、わずか百二十人だけでした。
生き残った人は、トイレの肥だめの中にもぐって難を逃れた者、銃撃を受けて気を失い、重傷で扶けられた者、両手の真ん中に太い針金を通して手を縛られ、いまにも殺される寸前だった者、どの者も、まさに悲惨そのものでした。
この事件の最中、ひとつ、涙なくしては語れない物語が、記録されています。
ある日本人が、便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。その声は、日本語でこう怒鳴っていた。「日本人は隠れろ!!日本人は誰も出てくるな!!日本人は逃げろ~~っ!」それは、必死の叫び声だったそうです。そしてズドンという銃声。
声は聞こえなくなりました。言えるのは、支那兵に引きずられながら、その日本人男性は、自分が殺される最後の瞬間まで、自分が助かることではなく、他の日本人の心配をしていたということです。
ですから「たすけてくれ!」ではなく、「日本人は逃げろ~!」だったのです。
事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島無敵連隊が、事件を知り、通州に急行しました。
日本軍の本体が帰って来ると知った張慶餘と張硯田率いる支那人保安隊は、慌てて便衣服に着替えて民間人を装い、北京方面に逃亡しています。そしてこれだけの大虐殺を行なった張慶餘と張硯田は、その後も戦争中を生き延びました。
とくに張慶餘は中国共産党人民解放軍の中将にまで出世し、昭和六十一年には革命の英雄として嘘だらけの回想録まで出版しています。
通州事件は、まぎれもない史実です。
その酸鼻な姿から、当時世界中で新聞報道され、人々に衝撃を与えました。
この事件は南京大虐殺事件のように、後年になってねつ造されたデタラメと異なり、実際に起こり、実際に日本人が被害に遭ったたいへんな事件です。事件を目撃したSさんは、次のような体験も書き遺しておいでになります。↓
旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。
するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。
誰も見ていません。私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして、「くやしい」と申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。
~~被害に遭われた方々の悔しさ、口惜しさ、そして仇をとってもらいたいと思う気持ち、痛いほどわかります。けれど戦後の私達は、こうした通州事件のような凄惨な事件の事実から目を背け、いまではほとんどの人がこの事件について知らない状況になっています。
そしていま、昭和十一?二年当時の通州市と、ほとんど同じような世相に、いまの日本はなっています。
歴史は繰り返すといいますが、決して二度と繰り返してはならない歴史もあります。
私達は二度とこうした悲惨な眼に遭わないために、日頃から襟を正して万全の備えを築いていかなければならない。私はそう思います。
みなさまには、関連記事の「通州事件の惨劇 Sさんの体験談」をご一読されることを是非、お勧めします。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.htmlこれが事実なのです。
大昔の出来事じゃないか、などと気楽に済ますことはできません。
これと同じ惨劇が、チベット、ウイグルで行なわれ、チベットは人口600万人のうち150万人が殺害されました。
ウイグルでは、いまもその悲劇が続き、近くは法輪功の学習者たちが、同様の迫害を受けています。
そしてもし、沖縄が支那に制圧されれば、これと同じことが、今度は沖縄県民の身に起きる。
さらに日本全土が、このまま支那の支配下に置かれる事態が進めば、75年前に起こった通州事件は、そのまま明日の日本に起こる出来事となるのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます