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一度は訪ねてみたいと思っていた松戸の平潟遊郭跡とゆかりの池田弁財天に行ってきた。
平潟は、江戸川左岸(千葉県松戸市)にあった十数軒規模の遊郭で、太平洋戦争末期には、時局がら解散し、軍需工場の寮として使われていた。ちょうど、私の母親が、女子挺身隊の寮としてあてがわれて生活していたのがその時期である。
なお、戦後は、学生寮として使用された時期もあったようだが、現在、建築物は一切残っていない。
松戸駅西口を出て、江戸川に向かって大通りを歩くとじきに平潟への入り口でもある一平(いちひら)橋で坂川を渡る。さらに歩くと江戸川の土手に行き着く。ここまで10分程度だ。土手から先にはのどかに江戸川が流れている(上の写真)が、ここが平潟河岸ではない。江戸川は江戸時代に流路が変わっており、それ以降も風景を変えている。かつての平潟河岸は、当時の江戸川、つまり、現在の樋古根川沿いの一帯を言った。土手のなかった江戸時代は、直接、川に至って、そこに日々の営みがあった。
川は浅く、平潟の地名はそれが起源であろう。川面には帆を揚げた川舟が賑わしく行き交っていたのだ。だが、土手にはサイクリングロードや休憩所は整備されているものの、河岸の歴史や遊郭のことについては何も触れられていない。
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さて、平潟である。
平潟遊郭跡、つまり、軍需工場の寮の跡探しは、今来た大通りの一本裏の道に入ることから始めた。その弓なりに緩くカーブする道こそが、平潟遊郭のメインストリートであった。現在、土手寄りには大学の寮があり、その先は、住宅や小規模なマンションや集合住宅が密集している普通の街である。物理的な遊郭の跡を示すものは、道路以外には何もない。さらに地名も平潟から松戸市松戸に変更され、ほとんど抹消されたと言ってよい。稀に平潟地名の痕跡が見られる程度である。
平潟の歴史の遺物は、ネットで紹介されている以上のものはなかった。むろん、軍需工場の寮などの形跡すらなく、ただただその雰囲気を想像するのみであった。
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来迎寺と水神宮
平潟遊郭を検索すると、よく紹介されているお寺と神社である。遊女が願を懸けたとされるが、浄土宗来迎寺は新しく建て替えられてしまい、水神宮(右側)が当時の面影を残している。ビルや住宅に取り囲まれながら、木立のあるためか、ひっそりと哀しい歴史を秘めて佇んでいるようである。
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水神宮の水桶
九十九樓の銘のある水桶。裏面には寄進者であろう主人の名が刻まれている(下)
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松戸町平潟
水神宮の狛犬の台座背面に残る平潟(異体字)という地名。この他には電柱の標識くらいのようである。
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クラシカルな装飾を持つ街灯
この崩壊しそうな街路灯の柱(コンクリート製)は、LEDの組み合わせで生き延びているようだ。当時は紅灯の巷を照らしていたのであろうか。
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柳の大木
恐らく、遊郭時代からあって、その歴史を見つめていたであろう柳の木。
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平潟公園
公的には、これが平潟の名が残る唯一のものだと思われる。看板には「開園 昭和34年12月」とある。
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残照
浮世絵のような色調の空を映して流れる江戸川の川面を見つめながら、しばらくの間感傷に耽ってしまった。
池田辯財天については後日。
平潟を舞台にした時代小説、『さざなみ情話』
Nikon D7100/AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6 G VR II
仰るとおり、戦後はいくつかの大学等の寮として使用されたようです。都県境の松戸は交通便利だったのでしょう。
戦時中は軍需工場が社員寮として利用し、私の母はそこに住まわされました。「寮の建物は和風の3階建てで、1階は二畳程度の狭い部屋がいくつもあって迷うほどだった」と語っていましたので貴コメントと符合します。今となっては見学もできませんので、貴重な証言です。ありがとうございました。他にもご記憶のことがあればご教示いただけると幸いに存じます。
松戸伊勢丹の開店から45年ですか。そんな昔だったのですね。