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昭和20年8月6日のP-51

2022年08月06日 | ぼくのとうかつヒストリア
私の母は戦争末期に女子挺身隊の一人として松戸の飛行機工場で働いていました。そのことは以前このブログ(現在、改訂中のため項目のみ公開しています)に書きました。
母は、昭和19年(1944)秋頃から終戦まで女子挺身隊員として、日本航空機工業株式会社松戸製作所(現在の新京成電鉄元山駅付近にありました)で働きました。その間、2度、戦闘機から機銃掃射を受けたことがあると語りました。特にそのうちの1回は母のすぐ傍に銃弾が飛んできて、非常に怖い体験をしたということです。

空襲と言えば、「超・空の要塞」と呼ばれた大型爆撃機B-29による焼夷弾爆撃が、まず思い浮かびますが、戦争末期の空襲はそれだけでなく、戦闘機による機銃掃射やロケット弾による対地上攻撃がありました。母を襲ったのは後者です。
戦闘機による空襲は、破壊力はB-29に及びませんが、小回りが利くことと数を頼んでの攻撃が軍事施設のみならず、市街地や郊外でのピンポイント無差別攻撃となり、市民も多数が犠牲になっています。
母自身の記憶は曖昧になっていましたが、恐らく、昭和19年の11月、昭和20年(1945)の5月に空襲に遭ったのではないかと推測できます。


関東地方の空襲を調べていると、広島原爆投下のあった77年前の今日8月6日に、東葛地区が空襲を受けていたことが分かりました。原爆投下とほぼ同じ頃に、2派に分かれたP-51の編隊約120機(米軍資料では98機)が関東地区を襲い、一部は目標の一つの陸軍柏飛行場を襲撃しました。この時、日本軍の攻撃により被弾した1機が冷却液が漏れ出したため胴体着陸を決行しました。
降りた場所は、東葛飾郡小金町付近の水田(現在の千葉県松戸市新松戸付近)で、発火も大きな破損もせず搭乗員も無事でした。

当時の様子を新聞報道で知ることができました。昭和20年8月7日付け『讀賣報知』に「水田に驕翼さらすP51」と題して、不時着機の写真と状況を説明した短文が添えられています。
写真には、胴体着陸の衝撃で曲がったプロペラや泥にまみれた機体下部、機体に乗って検分しているらしい関係者と遠巻きにする人々の様子が写っています。胴体には308とも見える番号があり、垂直尾翼には部隊マークである黒線に囲まれた白帯が描かれています。しかし、その下にあるはずの6桁のシリアルナンバーは消されていて検閲を思わせます。

同じ地区内で起きたこの事件を母は知っていたでしょうか。なぜ、生前に聞いておかなかったかと悔やまれるところですが、おそらく、知らなかったと思います。会社や寮で新聞を読む機会はあったろうと思いますし、誰かから聞き及んだ可能性もあります。しかし、まだ20歳の娘。敵国の戦闘機のことなどに興味はなかったと思います。


P-51を操縦していたのは、ヴィンセント・A・ゴーディアーニ大尉で、陸軍士官学校を卒業後、P-51部隊に配属され、硫黄島占領とともに同島の基地に進出し、第20航空軍の指揮下、第7戦闘機集団の第21戦闘機群団に所属する第531戦闘機戦隊308番機に搭乗して昭和20年4月から日本本土の攻撃に参加していました。この日も、長大な航続距離をもつP-51に搭乗し、B-29に誘導されて本土に来襲したのでした。被弾しなければ、銚子あるいは九十九里方面から離脱し、再びB-29の誘導で硫黄島に戻るはずでした。
大尉は、駆け付けた憲兵隊に連行され、最終的には、現在の大田区平和島にあった東京俘虜(捕虜)収容所に収容されました(戦後、8月末に解放され帰還)。

当時、ゴーディアーニ大尉は26歳、母は20歳でした。
松戸で母を狙ったのが誰だったのかは分かりませんが、勘ですが、大尉ではないと思います。米軍側の資料や映像を虱潰しに当たれば分からないでもないでしょうが、私に残された時間も短くなっていますし、例え、事実が判明したとしても、それが何になるのか疑問を覚えます。

ゴーディアーニ氏は2006年に87歳で世を去りましたが、捕虜時代のことは誰にも話さなかったそうです。
機銃弾から辛うじて逃れた母は、晩年、平和が一番と言っていました。私もそう思います。


今朝、撮影したクサギの花です。今年もこの花の季節になりました。77年前もこのように咲いていたのでしょうか。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず…

Nikon D5600 / AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6 G VR II

ご参考まで
P-51(航空機)…Wikipediaの説明

「不時着した米軍パイロット」…NHKアーカイブス内の戦争証言アーカイブスにある、コラムニストだった天野祐吉氏(1933-2013)の目撃証言。国民学校の小部屋に一時身柄を拘束されたパイロットを盗み見し、「鬼畜」ではなく同じ人間であることに衝撃を覚えています。P-51不時着事件に関する貴重な証言です。


(更新記録)
 2022/8/7 (1)本文の一部の文言を修正しました。 (2)参考URLを追加しました。


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