1月14日に、津市市民活動センター主催の「第3回 縁が輪サロン~ダルクで見つけた未来」が行われました。
わたしは当日、受付やら、お茶の準備やらをしていたので、残念ながら前半の三重ダルクのおふたりのお話はほとんど聞けませんでした。しかし後半の交流タイム---参加者がゲストに質問をしたり、感想を述べたりしながら、交流をもつ時間---には参加することができました。
そこでの意見交換を聞いていて、大変深く感じ入ることがありましたので、それをこれから書いてみたいと思います。
参加者の中から、「当事者でないわたしたちに何ができるのでしょうか」という質問が出ました。そして他の参加者たちからも、具体的に「例えばこんなことはどうですか?」という話が出てきました。
そういった提案?に対する三重ダルクの方のコメントは、少し意外なものでした。具体的に挙げられたような支援が実際に行われたときにマイナスの影響が出ることを危惧することばを述べられたのです。
三重ダルクの方のコメントは、こちらが善意で行ったことが、ときにはマイナスの効果を生む出すことを示唆するものでした。
ここに「支援する」ということに内在する困難さがあると思いました。
わたしが知っているネパールで長く支援を続けてきた方は、日本の若者が開発途上国で自分たちの力で学校を建てることに対して疑問を投げかけています。
その方は、日本の若者が自分たちで学校を建ててしまうより、現地の信頼できるNGOなどにアルバイトなどで貯めたお金を寄付して、現地の人に任せて学校を建ててもらうほうが、現地の人の雇用に繋がるのでよいと言われます。
支援する側としては、「お金」だけの提供というのは、味気なく、実際に汗水を流して学校を建てるという形で支援したいというのが心情だと思います。
しかし実際には「お金」だけの支援のほうが、先方のためになっていることも多いのではないかと思います。
人間の「善意」というのは、なかなかやっかいなものだと思います。
人は、だれでも大なり小なり自分の「善意」をだれかに与えたいという欲求を持っていると思うのですが、善意が受け手のためになる形で、向けられることは難しいのではないでしょうか。
そういった参加者と三重ダルクの方との一連のやりとりを拾って、三重ダルクを設立当初から見守ってこられた参加者のおひとりが次のように言われました。
ダルクの方に、何か支援をしたい、というのは自然な気持ちなのでしょうが、まずは薬物依存症になってしまったその人の人生に共感しようという姿勢が大事なのではないでしょうか。薬物依存症でない者が、そうである人に共感することは本当に難しいことだけれども、少しでも理解して、依存症を出さない社会を考えていくことが大事だと思います・・と。
またその方は、「言いにくいことなんですが」と前置きをされてから、金銭的サポートの重要性についても触れられました。彼らにお金を託して任せる形での支援が大きな力をもつことを言われました。
「人をサポートするということ」の困難さについて、相手のためになるサポートのあり方について深く考えさせられた一日でした。
(カオル)
わたしは当日、受付やら、お茶の準備やらをしていたので、残念ながら前半の三重ダルクのおふたりのお話はほとんど聞けませんでした。しかし後半の交流タイム---参加者がゲストに質問をしたり、感想を述べたりしながら、交流をもつ時間---には参加することができました。
そこでの意見交換を聞いていて、大変深く感じ入ることがありましたので、それをこれから書いてみたいと思います。
参加者の中から、「当事者でないわたしたちに何ができるのでしょうか」という質問が出ました。そして他の参加者たちからも、具体的に「例えばこんなことはどうですか?」という話が出てきました。
そういった提案?に対する三重ダルクの方のコメントは、少し意外なものでした。具体的に挙げられたような支援が実際に行われたときにマイナスの影響が出ることを危惧することばを述べられたのです。
三重ダルクの方のコメントは、こちらが善意で行ったことが、ときにはマイナスの効果を生む出すことを示唆するものでした。
ここに「支援する」ということに内在する困難さがあると思いました。
わたしが知っているネパールで長く支援を続けてきた方は、日本の若者が開発途上国で自分たちの力で学校を建てることに対して疑問を投げかけています。
その方は、日本の若者が自分たちで学校を建ててしまうより、現地の信頼できるNGOなどにアルバイトなどで貯めたお金を寄付して、現地の人に任せて学校を建ててもらうほうが、現地の人の雇用に繋がるのでよいと言われます。
支援する側としては、「お金」だけの提供というのは、味気なく、実際に汗水を流して学校を建てるという形で支援したいというのが心情だと思います。
しかし実際には「お金」だけの支援のほうが、先方のためになっていることも多いのではないかと思います。
人間の「善意」というのは、なかなかやっかいなものだと思います。
人は、だれでも大なり小なり自分の「善意」をだれかに与えたいという欲求を持っていると思うのですが、善意が受け手のためになる形で、向けられることは難しいのではないでしょうか。
そういった参加者と三重ダルクの方との一連のやりとりを拾って、三重ダルクを設立当初から見守ってこられた参加者のおひとりが次のように言われました。
ダルクの方に、何か支援をしたい、というのは自然な気持ちなのでしょうが、まずは薬物依存症になってしまったその人の人生に共感しようという姿勢が大事なのではないでしょうか。薬物依存症でない者が、そうである人に共感することは本当に難しいことだけれども、少しでも理解して、依存症を出さない社会を考えていくことが大事だと思います・・と。
またその方は、「言いにくいことなんですが」と前置きをされてから、金銭的サポートの重要性についても触れられました。彼らにお金を託して任せる形での支援が大きな力をもつことを言われました。
「人をサポートするということ」の困難さについて、相手のためになるサポートのあり方について深く考えさせられた一日でした。
(カオル)
金銭的な援助が一番助かるし、それしかないってことはありますよね。ただ・・言いにくいことなんでしょうけど、ダルクの方ご自身が「僕達に一番必要なのは経済的な援助なんです。カンパをぜひぜひよろしくお願いします!」って明るくさらっと(?)言われたほうが良かったような気もします。
皆さんが「あれはどうです?」「こんな援助はどうです?」っていろいろ提案された後で、「いや~それはちょっと・・・(あんまり役に立たないかも・・)」「いや、それもお気持ちはありがたいんですが、なかなか・・・(ホントは困る・・・・)」って
そういうやり取りが続いて、「じゃあ一体どんな援助を望んでるの?」って言われてからだと余計「現金でのカンパを・・」とは言いにくくなるんじゃないでしょうか。
言いにくいこと・しにくいことほど 先に延ばさず、人に任せず、自分でするしかないんじゃないかなあと思いました。
皆さん、優しいお気持ちで「何か援助を・・」といわれてるわけですから、その、役に立つものがお金なんだとはっきり分かれば それはそれでご理解いただけるんじゃないかなと思いました。そういう意味では、カンパがどういう風に使われてるのか、なににどれくらい必要なのかもっとダルクの方から説明があったほうが、参加者も「なるほど!」と思ってカンパに尽力しようと思えるのではないでしょか。
運営委員会に行っても、実質きっと何も役には立たないんだろうし、ダルクへの支援は、
「お金!」っていまのところ割り切っています。とってもささやかな金額ですが・・・
コメントをありがとうございます。
確かに率直に必要なのはお金です、ということは必要なのかもしれませんね。でもこれをサラリと言うのは、なかなかテクニックが要るかと思います(笑)。
団体によっては、HPに「寄付してほしいもの」をはっきり書いている(同時に不要なものも書かれている)ところも結構ありますよね。
その場合でも、「寄付してほしいもの」の中に、金銭とは書いてませんね。
その代わり、別枠でしっかりと「寄付振込先」が大きく載せてありますが(笑)。
ですから「さりげなくお金の支援を頼む(←上述のように大きく書かれているのはさりげなくとは言えないか・・)」というのが、主流のようですね。
カオル