多くの文化人が 通った、あさくさ(浅草)のしにせ、「神谷バー」
そこで、
はぎわらさくたろう(萩原朔太郎)
は
こんな歌を よんでいます
「 一人にて 酒をのみ居れる憐(あは)れなる
となりの男になにを思ふらん 」
(神谷バァにて)
天性のしじん(詩人)
だったけど、
関わる女は みんな・不幸にしていた
はぎわらさくたろう・・
イケメンな彼は、それでも、モテモテでした
しかし
そんな・さくたろうに、
さらに、モテモテだった・美人の妹
が いたのを、
ご存じでしょうか
はぎわら・あい(萩原愛子)・・
あの「谷崎潤一郎(美女愛好家の作家)」をして「一緒になれるなら妻を離縁してもかまわない」
と
言わしめた、やり手です
こちら、『天上の花』という本には、
彼女の モテっぷりと
彼女に ホレすぎて 身をもちくずした 詩人「三好達治」のこと
が
書かれています。
書いたのは、愛子のめいにあたる、
はぎわらようこ(萩原葉子。朔太郎の娘ですね)
さくたろうの「ダメ父ぶり」
や、
そのはかい(破壊)された家庭生活、
さらに
おば・愛子にホレて、家庭を投げ出した
「三好達治という、国民的詩人の醜聞」
まで
書いたもんだから・・
刊行時、センセーションを巻き起こした
ゴシップエッセイ、それがこの本です!!
<三好達治 「昨日はどこにもありません」>
今日悲しいのは今日のこと
昨日のことではありません
昨日はどこにもありません
今日悲しいのは今日のこと
いいえ悲しくありません
何で悲しいものでせう
昨日はどこにもありません
何が悲しいものですか
昨日はどこにもありません
そこにあなたの立つてゐた
そこにあなたの笑つてゐた
昨日はどこにもありません
存命中から その名を馳せていた・詩人、みよしたつじ(三好達治)は、
萩原朔太郎の一番弟子
若いころから
萩原家に出入りしていて、ちょしゃ(著者)にとっても
大事な人でした
なのに ちょしゃ(著者・萩原葉子)は、
お世話になった・たつじの、
「世にも恥ずかしい・恋愛失敗談」
を、
本の中で、ばくろしちゃったのです
みよしたつじが 愛子に出会ったのは、まだ出世前の
書生時代。
そんけい(尊敬)するサクタロウの妹にして、
見た目・ドストライク
の 愛子に、
たつじは・・「天上の花」を 見た思いがしました
だから、けんめいに 申し込みますが、
相手にされず、、
たつじは フラれました
愛子は、その後、2度けっこん(結婚)し、
23さいで、お金もちと 3度目の結婚
・・・
23さいで、3度目のけっこん(結婚)
この事実が、
愛子のどういう・欠点を意味するか
ふつうは わかるはずですが、
盲目な・たつじ(達治)にはわからず、、
あきらめないで、
ついに
愛子が 40さいで「未亡人」になったと知ると、行動に 出ます
たつじは妻とムリヤリ・別れ、愛子をくどいて、
いっしょに なったのです
二人は・・
福井県の三国で 10ヶ月すごしますが、
もともと・生きる世界が ちがいすぎたため、
すぐ、別れます。
愛子はこれまで、ぜいたく(贅沢)三昧
・・・
今さら、
たいして・好きでもない男のために
さびしい漁村で
つましい生活に耐える・・
なんて
できなかったし、
愛子のふまん(不満)を見抜いた・たつじは
失敗に きずつき
気も狂わんばかり、、
二人は、毎日・ケンカして
ついには
たつじが 愛子を、殴るける・・
愛子は、たつじを「しみったれの木偶の坊」
呼ばわりし、
東京に 逃げ帰る
と いう・・
ズタボロな はたん(破綻)を
むかえたのでした
そんな・ちわげんか(痴話げんか)が
くりひろげられたのが、
昭和19~20年に かけてなので、
(今、戦争やってるの、知ってる)
と
2人に たずねたくなるのですが・・
もちろん
本には、もっと、ソフトに つづられています
でも・・
「達治は死ぬまで愛子の長襦袢を
大切にとっておいた。」
なんてことまで
バラされていて、
たつじのめいよ(名誉)が きずつけられたのは
明らかです・・
ちょしゃ(著者、萩原葉子さん)は、
作家を志すに あたり
たつじから、きびしくしごかれた
と 言います。
それを うらんでいたのか・・
エッセイ・後半でも、「三好達治が如何に気難しく、
強烈な人柄であったか?」
そんな・エピソードを
延々・したためていて、、
「何かの報復」としか 思えません。。
クリンたち、ミーハーだけど、(これは いただけない、)
と
思いました
本人が反ろん(論)できない死後になって
バラすなんて フェアじゃないし
他人から見て
どんなに まちがった・恋愛に 見えたとしても
本当のところは、当事者同士にしか
わからないもので あり、
他人によって
だんざい(断罪)されたり、
ばくろ(暴露)されたり
していいこととは ちがうからです。
この・ちょしゃ、さすがは「詩人・萩原朔太郎の娘」
だけあって、
文才は みとめるけれど・・
詩人のデリカシーというものは、
おや(親)から うけつがなかったんだなあ・・
って、
ざんねんに 思いました
(・・ちょっとわる口言いすぎちゃったかなあ。。まあいいや 次回、浅草土産のどら焼きを食べて、「春の奥浅草を歩く」を、終えます)